第五十六話:京都から届いた未来
五月半ば。
風はもう春の柔らかさを抜け、初夏の匂いを帯び始めていた。
五時間目の数学。
黒板には連立方程式が並び、教師の乾いた声が教室に響いている。
「ここで x を消去して――」
生徒たちはノートへ式を書き写し、窓際の何人かは眠気と戦っていた。
忠夫も机に肘を置き、鉛筆を走らせる。
だが、ノートの隅に描かれているのは数式ではない。
セルアレイ。
配線長。
バッファ位置。
「佐伯」
教師の声で我に返った。
「この問題、次を解いてみろ」
忠夫は立ち上がり、黒板を見る。
「x は二。y は三です」
教師はしばらく黒板を見つめ、咳払いした。
「……正解だ。座れ」
忠夫は何事もなかったように腰を下ろした。
横の席の男子が小声で言う。
「お前、聞いてたのか?」
「半分くらい」
チャイムが鳴った。
放課後。
机の音、笑い声、部活へ走る足音。
学校生活。
だが忠夫の頭の中では、別の時計が進んでいた。
◇
夕方。
玄関のドアを開けると、忠夫は鞄を肩から下ろしながら声を上げた。
「ただいま」
台所の方から、母・佳子の声が返ってくる。
「おかえり。忠夫、任天堂から荷物が届いてるわよ」
「……任天堂?」
思わず足が止まった。
居間へ向かうと、テーブルの上にひとつの段ボール箱が置かれていた。
側面には赤字で、
精密機器・取扱注意と書かれていた。
忠夫は息を整え、慎重に封を切る。
箱の中から現れたのは、赤と白。
成型色そのままの、どこか試作品めいた粗さを残す筐体だった。
忠夫の手が止まる。
未来では見慣れた姿。
だが、この時代ではまだ誰も知らない機械。
「……ファミコン」
忠夫は低く呟き。
しばらく、その筐体を見つめていた。
やがて立ち上がり、受話器を取り上げ、黒電話のダイヤルを回す。
ジー……コロコロ……
「……佐伯技術研究所の佐伯と申します。お世話になっております。――開発の上村様はいらっしゃいますでしょうか」
受話器を耳に当てたまま、忠夫は本体をそっと撫でた。
数秒の保留音。
やがて、受話器の向こうから落ち着いた低い声が響く。
「――もしもし、上村です。佐伯くんかい?」
「はい。今、開けたところです」
「そうか。届いたか」
その短い言葉の奥に、幾晩もの徹夜と調整の日々が滲んでいた。
「塗装もロゴもまだだ。だが中身は製品版と同じだよ。……君には一番に触ってもらいたかった」
忠夫は言葉を失った。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ。君がいたから、ここまで完成度が高く仕上がった」
上村は少し笑って続けた。
「それとな。価格も決まった」
「いくらですか?」
「……9980円だ」
忠夫は静かに息を呑んだ。
一万円を切った。
それだけで時代が変わる。
「……やりきりましたね」
「はは。ここからが本番だよ」
受話器の向こうで、上村の声が少しだけ低くなった。
◇
電話を切った後、忠夫は静かに息を吐いた。
箱からカセットを手に取り、本体のスロットへ差し込む。
カチリ。
スプリングが沈み込み、基板同士が噛み合う、あの独特の感触。
前世の記憶の中で、何度も繰り返した動作。
だが今、指先に伝わるのは、生まれたてのプラスチックが放つ硬質な感触だった。
電源スイッチを跳ね上げる。
一瞬の静寂の後、ブラウン管が青白く発光し、あのロシア民謡の旋律が、夕暮れの空気を震わせた。TRONによる精密な割り込みが、音源チップの限界を引き出した。
「……動いた」
歴史を書き換える機械が、今、目の前で動いていた。
窓の外は、もうすぐ夜が来る。
だが、手元にあるカセットと未塗装の白い筐体は、未来からの光を反射して、いつまでも鋭く輝き続けていた。




