第二十八話:誕生
リコー電子技術開発センター。
出迎えた岡本は、数日前よりもさらに深い隈を刻んでいたが、その眼光だけは鋭く光っていた。
「岡本さん、持ってきました。……僕たちの答えです」
忠夫が差し出したフロッピーを、岡本は震える手で受け取った。
「……ついに魂が届いたか。よし、これより試作工程に入る。メタル層のマスクパターンを直接書き換えるぞ。」
岡本の号令で、リコーの技術者たちが一斉に動き出す。
忠夫達が書き上げたOSをフロアプランの「隙間」へ流し込んだ設計データが、試作用の電子ビーム描画装置へと送られる。それは、ソフトウェアという実体のない論理が、物理的な「回路」へと姿を変える。
「……皆さん。ここからは僕達の仕事です。焼き上がるまで数時間はかかる。……少し休んでいて下さい」
忠夫達の目の下の隈を見た岡本に促され、開発センターの片隅にある小さな休憩室へと向かった。
「おやすみなさい……」
忠夫の意識は、そこでぷつりと途切れた。
数時間後。
「――起きてください! みんな!」
肩を揺すられ、忠夫達は跳ねるように飛び起きた。
視界がぼやける中、目の前に立っていたのは、防塵服を脱ぎ、汗だくでクリーンルームから戻った岡本だった。その手には、金色の蓋がついた紫色のセラミック・パッケージが握られていた。
「……できたよこれがシリコンの中に知能を刻んだチップだ。ハードのバグをソフトで制御する、君たちが作った怪物だ」
忠夫は、岡本から渡されたそのチップを手に取った。
まだ微かに熱を帯びている。
この数ミリ角の欠片の中に、あの研究室で積み上げた理論が全て閉じ込められている。
任天堂本社。
開発室は、外の静寂とは対照的な、刺すような緊張感に満ちていた。
そして部屋の中に入ってきた社長・天童博之が鋭い眼光を四人に向けた。
「初めまして、今川先生。……そして、久しぶりやな、佐伯くん」
天童は、かつて対等な交渉を繰り広げた中学生の顔を見据え、不敵に口角を上げた。今川は、天童から放たれる独特の覇気に一瞬だけ目を見張ったが、すぐに背筋を伸ばし、一歩前へ出た。
「初めまして、天童社長。今川です。佐伯くん達と共に、このチップにふさわしい『理論』を形にしました」
今川が冷静かつ力強く応じる。学者のそれというよりは、新しい時代を切り拓こうとする開拓者の目だった。
「お久しぶりです、社長」
忠夫もまた、不敵な笑みを返した。
「……ほう。それで、植松。形になったんか、例のモノは」
机の上に鎮座した「評価基板」を顎で指した。A3巨大な板に、数千本のラッピングワイヤが血管のようにのたうち回る剥き出しの臓器。その中央に、紫色のセラミックチップが鈍く光っている。
植松は無言で頷き、ブラウン管テレビのスイッチを入れた。忠夫は自分の心臓の音が部屋中に響いているのではないかと思うほど、激しく打ち鳴らされるのを感じていた。
「……入れます」
植松の指が、基板のスイッチを弾いた。
ピコーン。
静寂を切り裂く、一点の濁りもない電子音。
直後、画面に浮かび上がったのは、かつてないほど鮮明で、微動だにしない文字列だった。
『SYSTEM READY』
天童は、眉ひとつ動かさずに画面を凝視した。
「……なんや。これだけか」
「社長。これがチップそのものの『知能』です」
忠夫が、一歩前に出て言葉を継いだ。
「このリアルタイムOSが、画像チップの制御を、メモリの整理を、そしてハードの欠陥の補完を、人間の反射神経のように自動で行います。‥‥結果的にゲーム開発が容易になります」
天童の目が、細められた。画面に浮かぶその文字の「揺らぎのなさ」と、少年の瞳に宿る、自信に、直感が反応した。
「相変わらずやな。佐伯くん」
天童は不敵な笑みを浮かべ、椅子の背にもたれかかった。
「‥‥ええやろ。これでいこう」
天童は短くそう告げた。
その言葉は、開発室にいた全員にとっての「進軍のラッパ」だった。天童は一度だけ忠夫の目を見据えると、不敵に口角を上げた。
天童はそれ以上は何も言わず、翻って部屋を後にした。その背中には経営者の覚悟が滲んでいた。
「……終わったな、忠夫くん」
隣で今川が、深く、長い息を吐いた。
「いいえ、今川先生。ここからが始まりですよ」
忠夫は、モニターに映る『SYSTEM READY』の文字を見つめたまま答えた。
開発室には、植松たちが具体的な製造スケジュールを詰める慌ただしい声が響き始めた。




