第二十七話:夜明けの光
遂に9月になった、それは忠夫にとって学校の始まりを意味していた。
平日は学校で、退屈な授業に耐えながら、ノートの隅に命令セットの最適化案を書き殴り。週末になると東大に泊まり込みコードを打ち込む日々。
タイムリミットは残り二週間に迫っていた。
東京大学の一室は、外気以上の熱気と、磁気テープの回る乾いた音に支配されている。
「……リコーからの詳細なチップ資料のおかげで、命令の歩留まりは予測できてきました。でも、このペースだと、デバッグを含めて九月末に間に合うかどうか‥‥」
忠夫は、充血した目で画面を睨みながら呟いた。傍らには、リコーの技師・岡本たちが連日の徹夜で実測し、届けに来てくれた膨大なチップ内部のタイミングデータが積み上がっている。
「それでも、今はやるしかないよ。ここで手を止めたら、その瞬間に僕たちの負けが確定する」
今川の声もまた、極限の疲労で掠れていた。それでも二人の手は止まらない。
カチカチと乾いた打鍵音が、冷却ファンの唸り声と混ざり合い、静まり返った深夜のキャンパスに響き渡る。
当時は、一行の命令入力ミスが、一ナノ秒の狂いを生み、システム全体を致命的な暴走へと導く時代だ。忠夫と今川で書き検証した膨大なアセンブラのコードを、一行ずつ、一文字ずつ、魂を削るようにマシンに叩き込んでいく。
そんな時、研究室の重厚な防音扉を、叩く音が響いた。
二人の手が止まる。時計は深夜二時を回っていた。
今川が立ち上がり、重い扉のノブを回す。
「遅くなりました。今川先生、佐伯くん。」
入り口に立っていたのは、かつて忠夫をこの場所へ送り届け、天童社長を説得した技術者、佐藤悠太。そして、その背後には、任天堂開発部部長、植松邦夫の姿があった。
「佐藤さん、植松さん……!」
忠夫が声を上げた。二人は一瞬、室内の凄まじい熱気と、壁一面に貼られたタイミングチャートの異様さに圧倒されたようだったが、すぐにネクタイを緩め、上着を放り出した。
「……ROMを作ってくれる会社との交渉にやっと目処がついてね。あとは今川先生と佐伯くんの作るソフトだけだ。……だが、この物量だ。人手が足りないんじゃないかと思ってね」
植松はそう言うと、静かに、揺るぎない口調で続けた。
「佐藤くん、空いている端末に入れ。私もやる。佐伯くん、君の頭の中にあるコードを教えてくれ。私たちがそれを形にする」
植松が、忠夫の座る端末の隣に歩み寄る。その眼は、一つの巨大なプロジェクトを背負う開発責任者の、鋭い「プロの眼」になっていた。
「さあ、続きを始めよう。9月末まで、あと十四日だ」
植松と佐藤が合流してから、室内には新たな打鍵音が加わった。
そこにあるのは、社会の肩書きなど一切関係ない。
ただひたすらに、忠夫の脳内に存在する「未来の論理ロジック」を、一文字のミスも許さずマシンに叩き込み続ける、剥き出しの「技術者」たちの姿だった。
部屋の中央、計測器に囲まれて鎮座するのは、リコーから届いた最新の試作チップを載せた剥き出しの評価基板だ。そこから伸びる太い平型ケーブルが、背後の巨大なICEインサーキット・エミュレータの筐体へと繋がり、チップの足にはロジックアナライザの細いクリップが無数に噛み付いている。
「……植松さん、第4ブロックの描画割り込み。あと1クロック削れます。処理順を入れ替えてください!」
「了解だ、佐伯くん。佐藤くん、スタックポインタの退避処理を追え。……よし、この数値ならシリコンの限界を叩ける!」
植松の鋭い指示が飛び、佐藤の指がキーボードの上で踊る。
忠夫は平日の間、学校で退屈な授業に耐えながら、ノートの隅に書き留めた「未来の断片」を次々と差し出していく。それを、植松と佐藤が実機の限界ギリギリの数値で裏打ちし、今川がシステムとしての整合性を整えていく。
睡眠時間は三時間を切り、食事はおにぎりやパンとコーヒーだけ。
極限状態の中、忠夫の思考はもはや現実とバイナリの境界を失いかけていた。教室で黒板を眺めていても、頭の中ではレジスタの値を入れ替えるシミュレーションが止まらない。だが、その瞳だけは、かつてないほど鋭く澄んでいた。
そして、9月27日、午前四時。
最後の命令インストラクションが、今川の手によって打ち込まれた。
カチカチと響き続けていた打鍵音が、不意に止まった。
「……全モジュール、入力完了。バイナリ生成、開始します」
今川が厳かに告げた。
全員が息を呑み、ブラウン管のモニターを見つめる。
1982年の常識を覆す、極限までシェイプアップされたOSカーネルが、チップに注ぎ込まれていく。
ピコーン。
静寂を切り裂き、スピーカーから澄み切った電子の音が響いた。
直後、漆黒の画面に「SYSTEM READY」の文字が、一点の滲みもなく鮮やかに浮かび上がった。
そのたった数文字のフォントが、60分の1秒の狂いもなく垂直同期(V-SYNC)に張り付き、チップ内のレジスタが完璧なリズムで鼓動していることを示していた。
「……動いた」
佐藤が震える声で呟いた。
画面の隅では、リアルタイムOSの生存証明である小さなカラーバーが、当時の高級PCですら不可能な速度で滑らかに明滅している。
「遂に完成した‥」
忠夫は、ゆっくりと椅子に背中を預け、充血した目を細めた。
そこにあるのは、単なる「おもちゃ」ではなかった。
世界を塗り替えるための、全く新しい計算機の魂だった。
「……さて、佐伯くん」
植松が、充血した目を輝かせながら立ち上がった。その手には、書き込まれたばかりのマスターディスクがある。
「余韻に浸るのは新幹線の中だ。これを持って、リコーへと行こう」
研究室の中には、新しい時代の夜明けの光が眩いばかりに満ちていた。




