第二十九話:日常への帰還
東京行きの新幹線の車内。
忠夫と今川は、深くシートに身を沈めた。窓の外では京都の街明かりが加速し、やがて闇の中へと消えていく。
「……佐伯くん。今日、あの小さなチップの中に『知能』が宿った。だが、これは君がさっき言ったようにまだ序章に過ぎないよ」
今川はノートを広げた。
「今回、我々がやったのは特定のハードを補完する限定的な制御だ。だが、私の理想はその先にある。あらゆるコンピュータが同じ言語で、リアルタイムに繋がる……汎用的なOSによるネットワーク社会だ」
今川がペンを走らせるノートには、壮大な「標準化」の構想が描かれていた。夜の海を横目に、二人は東京駅に到着するまで技術の未来を静かに、かつ熱く語り合った。
東京駅のホーム。新幹線を降りると、凍てつくような夜風が二人の間を吹き抜けた。別れ際、忠夫は意を決して今川を呼び止めた。
「先生。……一つ、お願いがあります。近いうちに、研究室のICEを貸していただけないでしょうか」
今川が足を止め、眼鏡の奥の目を向けた。忠夫は言葉を続ける。
「研究室のシミュレータを使って。僕がこれから移植するゲームが、あのOSを内蔵したチップの中でどれだけ完璧に動くか……この手で確かめてみたいんです」
今川は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに教え子の意図を察し、不敵な笑みを浮かべた。
「いいだろう。我々が産み落としたあのOSの上で、君のゲームがどう動くのか。……私自身の目でも見てみたい」
今川は短くそう告げると、頼もしげに忠夫の肩を一度叩き、夜の雑踏へと消えていった。
一人残された忠夫は、総武線の快速へと乗り換えた。ガタゴトと揺れる車窓に映る自分の顔を見つめながら、頭の中ではすでに、ゲームを構成する無数のプログラムが、滝のように流れ始めていた。
「ただいま」
「おかえりなさい。……どうだったの?」
リビングから出てきた母が、安堵したように微笑んで迎えてくれた。
「うん、完成したよ。これでこっちは一旦一区切りだよ。……お腹すいた」
「ふふ、そうね。お父さんも、忠夫が帰るのをずっと待っていたわよ」
食卓には、晩酌のグラスを片手に新聞を広げていた父・和雄がいた。
「……そうか、一区切りか。プログラムとかの詳しいことは俺には分からんが、お前が言うなら本当に大きな仕事をやり遂げたんだろうな。‥今度その今川先生に挨拶しに行かないとな」
温かな夕食を囲み、家族と交わす何気ない会話。その安らぎが、忠夫の尖った神経を柔らかく解きほぐしていく。
だが、食後の茶を飲み終え、自室のドアを閉めた瞬間、彼の顔は再び研究者に戻った。
自作PCの電源を入れる。ファンが回り、緑色のプロンプトが点滅する。
忠夫が今夜自分に課した任務は自作PCに6502の言葉を理解させる「クロスアセンブラ」の完成だ。
「……まずは命令テーブルの構築からだ」
キーボードを叩く指が、新幹線の車内で脳内に組み上げた設計図を形にしていく。
『LDA』は『A9』、『STA』は『8D』……。
6502のシンプルな命令セットを、Z80のメモリ空間へと次々にマッピングしていく。
時計の針が深夜二時を回る頃、最後のサブルーチンが組み上がった。
試しに数行のコードを入力し、アセンブルを実行する。
――出力完了。
そこには、完璧な6502用のバイナリデータが並んでいた。
これで僕のマシンは、ファミコンの心臓と「同じ言葉」を喋れるようになった。
「よし……これで準備は整った」
画面を消すと、心地よい疲労感が押し寄せてきた。
明日からはこのマシンを使って『テトリス』の魂を移し替える作業が始まる。
忠夫は満足感に包まれながら、深い眠りについた。




