第百五話:十二月の役員会
1984年12月中旬。
東芝本社ビルの最上階は、外の寒気とは切り離されたように静まり返っていた。
役員会議室には適度な暖房が入り、巨大なマホガニーの円卓が部屋の中心を占めている。上座には佐々木社長、その周囲を各事業部門の責任者たちが囲んでいた。
「――では次。半導体事業部、斎藤常務。次世代CPU開発および試作ライン割り当ての件について」
佐々木社長の声に、斎藤はゆっくり立ち上がった。
「お手元の資料をご覧ください。現在、特命チームで進めている32ビットCPUの開発についてです。論理設計は固まり、レイアウトは最終段階に入っています。本日は、試作マスク製作予算ならびに試作ライン確保について、ご承認をお願いしたい」
言い終えるか終えないかのうちに、国際営業担当の吉川常務が口を開いた。口調は穏やかだったが、目には値踏みするような色があった。
「斎藤常務。DRAMの増産対応で手一杯のこの時期に、なぜ試作マスクの製作予算まで計上し、貴重な試作ラインを割く必要があるのですか。世界では、すでにインテルとモトローラが先行しています。今さら新規参入しても、海外顧客が簡単に乗り換えるとは思えませんがね」
斎藤は表情を変えなかった。
「おっしゃる通り、同じ設計思想のままでは勝負になりません。ですが、今回の設計は既存のものとは違います」
斎藤は資料の次ページを示した。
「海外で研究が進んでいるRISC型の設計思想です。命令を必要最小限に絞り込み、回路を単純化することで、チップ面積を抑えられます」
役員たちの視線が、一斉に資料へ落ちた。
「インテルの最新16ビットCPUが十万トランジスタ規模に達しつつあるのに対し、こちらは32ビットで数万規模で収まる可能性があります。歩留まりが確保できれば、コスト面でも十分に競争力を持てます。さらに、命令を単純化したことでクロック周波数を高めやすく、実行速度でも十分に競争力を持てると考えています」
円卓の向こうで、誰かが資料をめくった。
佐々木社長は一度だけ眉を寄せた。
「斎藤君。一つ確認したい」
「はい」
「命令を単純化するということは、何か別の部分で補う必要があるのではないかね。機能を削れば、その分だけ性能が落ちるように思えるが」
斎藤はうなずいた。
「ごもっともな疑問です。従来のCPUは、一つの命令で複雑な処理まで行おうとしていました。そのため制御回路が大きくなり、設計も複雑になります」
斎藤は比較表を指先で示した。
「一方、この構成では、一つ一つの命令は単純ですが、その代わり高速に実行できます。複雑な処理は単純な命令を組み合わせて行う考え方です」
佐々木社長は資料に視線を落としたまま、ゆっくりとうなずいた。
「なるほど。命令を減らしたのではなく、複雑な処理を単純な命令の組み合わせで実現するということか」
「はい。その結果、制御回路を簡潔にでき、クロック周波数も高めやすくなります」
「……分かった。続けてくれ」
斎藤は続けた。
「はい。加えて、このCPUは将来的に組み込み制御分野への展開も見込めます。パソコン向けだけではありません。産業機器、通信機器、専用端末――用途を限定しない芯になります」
斎藤はそこで言葉を切り、役員たちの表情を静かに見渡した。
数秒の沈黙が流れ、円卓のあちこちで資料をめくる音だけが響く。
渡辺副社長が、低くしわがれた声で言った。
「……理屈は分かった。だが、まだレイアウトも終わっていない段階で、試作マスクの製作予算を承認し、試作ラインまで確保するのは時期尚早ではないか。少なくともレイアウトを完了させ、その見通しを確認してから判断すべきだ」
渡辺副社長の重い一言に、会議室の空気が止まった。
斎藤が反論のために口を開きかけた、その時だった。
「……渡辺副社長のお考えも理解できます」
電子機器部門の山田常務だった。
(……山田常務)
斎藤は視線だけを山田へ向ける。
山田は資料へ目を落とした。
「私も、1MDRAMへの対応で現場が逼迫している以上、慎重であるべきだと考えています」
それは事前の面会で聞いた言葉と変わらなかった。
山田は、そのまま言葉を継いだ。
「ですが、設計はここまで進んでいる。そして試作も、一度や二度で済む話ではない。承認が遅れれば、その分だけ開発日程は後ろへずれ込みます」
山田は一度だけ斎藤へ視線を向けた。
「だから私は、全面的な推進ではなく、限定的な試作の承認であれば検討に値すると考えます」
斎藤は静かにその言葉を受け止めた。
佐々木社長は万年筆を机に置き、資料を閉じた。
「……DRAM依存からの脱却は、以前からの課題でもある」
そこで一度、視線を斎藤に向ける。
「よかろう。試作マスク製作予算および試作ラインの割り当てを承認する。ただし、試作は一ロットに限る。初回の試作評価で所定の性能と歩留まりが確認できなければ、その先の量産投資は認めない。斎藤、この件の責任は君が負いたまえ」
「……承知いたしました」
斎藤は深く一礼した。
◇
同じ頃、CPU開発室には、紙とインクと熱の匂いがこもっていた。
プロッターの駆動音と、鉛筆の芯が製図紙を擦る音だけが、部屋の空気を細く震わせている。
「……六十二番セル、入力終わりました」
忠夫が座標表を見ながら言うと、小林が端末に数値を打ち込んだ。
「次、六十三番」
「はい」
関根は製図台に向かったまま、赤くなった目でレイアウトを追っていた。高村も西村も、必要な言葉しか発しない。
三月のレイアウト完了予定まで、もう余裕はない。大きく動かせる段階は過ぎていた。今やっているのは、配線一本、ビアひとつ、セル境界の数ミクロンを詰める作業ばかりだった。
重い鉄扉が、控えめな音を立てて開いた。
部屋の手が止まる。
斎藤は部屋の奥まで歩いてきて、開発室を見回したあと口を開いた。
「……稟議が通った」
一拍置いて、続ける。
「春の試作ラインを一ロット分、確保した」
一瞬の沈黙のあと、小林が拳を突き上げた。
「よし……!」
関根は製図台に両手をつき、長く息を吐いた。高村と西村は言葉もなく目を合わせ、固くうなずき合った。
忠夫は、胸の奥で張り詰めていたものが少しだけほどけるのを感じた。
斎藤は、その様子をしばらく見ていたが、静かに右手を上げた。
「ただし、条件がある」
部屋の空気が、再び引き締まった。
「最初の試作評価で、性能と歩留まりを示せなければ、その先の量産投資は白紙だ」
高村が腕を組む。
「つまり、一発勝負ということですね」
「そうだ」
斎藤は全員を見渡した。
「この試作枠は、会社として正式に承認された。だが、結果を出せなければ次はない」
斎藤の声が、少し低くなる。
「ここから先は、一日たりとも無駄にはできん」
開発室の空気が再び引き締まり、それぞれが無言で持ち場へ戻っていく。
斎藤はその様子を見届けると、忠夫へ視線を向けた。
「佐伯君、少しいいか」
忠夫は静かに頷き、斎藤のそばへ歩み寄る。
「……結局、完全な形で承認を取ることはできなかった」
忠夫は静かに首を振った。
「十分です。少なくとも、会社として正式に承認された計画になりました。何も決まっていなかった状態とは違います」
斎藤は苦く笑った。
「……そうだな」
周囲では、小林たちが再び端末へ向かい、プロッターの駆動音が静かに響き始める。
斎藤は周囲を気にするように声を潜めた。
「黒崎の調査だが……壁にぶつかった」
忠夫の表情が引き締まる。
「申請書、契約書、納入仕様書――すべてが『二軸』で統一されていた」
忠夫の脳裏に、沼津の調整室がよみがえった。開かれた保守マニュアル、赤ペンの書き込み、そして九つ並んだ軸名。あの現場との矛盾が、書類の上ではきれいに消されていた。
「……徹底してますね」
「ああ。だから紙だけでは崩せん」
斎藤は忠夫を真っ直ぐ見た。
「本社権限で、品質検査の名目で沼津へ入る。今度は見学じゃない。現物と記録を押さえる」
「もう一度、沼津へ……」
「ああ、君の目が必要だ。今回は黒崎にも同行してもらう」
忠夫は黙って頷いた。




