第百四話:九つの軸
開発室から少し離れた、普段は使われていない薄暗い小会議室。
パイプ椅子と長机だけが置かれた殺風景な部屋に、冷たい蛍光灯の光が落ちていた。
斎藤は、手にしていた薄いレターファイルを忠夫に渡した。
「佐伯君。まずはこれを見てくれ」
忠夫は、手渡されたファイルに目を落とした。
輸出許可申請書のコピー。印字された『同時制御軸数:二軸』という文字が、忠夫の目にもはっきりと見えた。
(……二軸)
斎藤は掠れた声で続けた。
「……佐伯君。単刀直入に聞く。沼津の調整室で見た、コングスベルグの保守マニュアル。そこに書き込まれていたブロック図には……『何軸』分の制御ラインが引かれていた?」
忠夫はゆっくりと顔を上げ、斎藤の目を真っ直ぐに見据えた。
「……ブロック図では、九軸構成でした。標準装置と各軸の駆動系の間に自社製の制御ボードが挟まれ、九本の制御ラインが各軸へ伸びていました」
「九……軸……」
斎藤は掠れた声で繰り返した。
「……書類上では二軸だ。だが現場には九軸のシステムがあって、今もソ連向けと思われる調整が続いている。……これが何を意味するか、分かるな?」
忠夫は一拍置いた。
「……申請書とは、明らかに食い違っています。あのブロック図が実際の納入仕様なら、申請内容と実際の構成が一致しません」
「……やはり、そうか」
斎藤はファイルをめくった。
「しかも、一度だけじゃない。今年追加発注された四台も、すべて同じ申請内容だった」
斎藤は追加分の申請書を机の上に並べた。
「偶然とは思えん……。これだけ繰り返されている以上、現場だけの判断で済む話ではないだろう」
重く湿った沈黙が部屋を満たした。
斎藤は椅子に深く背中を預け、天井を仰いだ。
「……君の見たものが事実なら、これは会社を揺るがす問題だ」
ポツリと、斎藤が呟いた。
「これが……アメリカや通産省の知るところになれば、ただの罰金や謝罪で済むとは思えん」
斎藤は、視線を忠夫へ向け苦々しく言った。
「ただでさえ半導体を巡って日米の空気は険しくなっている。この件がココム違反として表沙汰になれば、東芝機械だけの話では済まん。東芝グループ全体にまで火の粉が飛ぶ」
「そして……私たちのCPU計画も無傷ではいられない。役員会は新規投資どころではなくなるだろう」
忠夫は静かに頷いた。
「……だからこそ、今のうちにお伝えしておくべきだと思いました」
斎藤はしばらく黙っていた。
「……そうか」
斎藤は自嘲気味に笑い、ネクタイを緩めた。
「もしこの一件が表沙汰になれば、役員会は大混乱に陥り、予算審議どころではなくなる。だから、その前に、何としても稟議を通す」
「……この件の調査と並行して、ですか?」
斎藤は忠夫の目を真っ直ぐに見据えた。
「そうだ」
「……もし、この事件が発覚した場合、どうなると思いますか?」
忠夫の問いに、斎藤は低く重い声で答えた。
「東芝機械の社長や関与した役員たちは当然、外為法違反で逮捕、あるいは辞任に追い込まれるだろう。だが……それだけで済むとは思えん。親会社である東芝本社の経営陣も、重大な監督責任を免れないはずだ。もちろん私も例外ではない」
忠夫は黙って聞いていた。
(史実では外部発覚によって隠蔽を疑われ、事態がさらに悪化した。だからこそ……)
忠夫は、言葉を紡いだ。
「親会社が、自ら調査して公表したとしたらどうなります?」
その言葉に、斎藤の目が大きく見開かれた。
思わず身を乗り出し、忠夫をまじまじと見つめる。
「……自ら公表する、だと?」
「はい。外部から発覚すれば、隠蔽を疑われます。ですが、親会社が自ら調査し、指摘を受ける前に公表して厳正に処分したとしたら?」
斎藤は腕を組み、しばらく考え込んだ。
「……なるほど。親会社が自ら膿を出したと受け止められれば、隠蔽とは見られにくくなるかもしれん」
斎藤の声が、わずかに震えていた。
忠夫は静かに頷いた。
「ええ、トップの引責辞任自体は避けられないかもしれません。ですが、隠蔽として世間に見られるのと、自ら公表して責任を取るのとでは、世間の受け止め方は全く違うと思います……何より、アメリカも『自浄作用が働いた企業』に対しては、壊滅的な制裁をしにくくなるはずです」
斎藤は顔を上げ、忠夫をじっと見た。
「……そうだな。無傷では済まんが、少なくとも致命傷は避けられるかもしれない」
忠夫は黙って頷いた。
斎藤は椅子から身を起こし、ネクタイを整え直した。
「まずは順番だ。十二月の役員会で、CPU計画の稟議を予定通り通す。これは絶対に外せん」
「……はい」
「そのうえで、黒崎君に裏を取らせる。申請書だけでは弱い。現場の実態に繋がる資料――改版履歴でも、保守記録でも、追加ボードの仕様でもいい。書類と現場を一本の線で結べるものが要る」
忠夫は小さく息を呑んだ。
「もし、それでも足りなければ、もう一度、沼津に入る」
忠夫は視線を上げた。
「……もう一度、ですか」
「必要ならな。今度は見学では済まさん。何を見に行くか、最初から絞って入る」
忠夫の脳裏に、あの調整室の光景が鮮明によみがえる。開かれたままの保守マニュアル、付箋、赤い書き込み、そして九つ並んだ軸名。
あの部屋に散らばっていた断片を、証拠に変えるための再訪になる。
短い沈黙の後、斎藤が静かに言った。
「佐伯君。その時は、力を貸してくれ」
忠夫は即座に答えた。
「分かりました。必要なら、いつでも」
斎藤の口元にほんの一瞬だけ薄い笑みが浮かんだ。だがそれもすぐに消えた。
「頼んだ。今日はもう開発室に戻れ」
忠夫が頷く。
「それと、この件はまだ広げるな。知る人間が増えるほど、証拠は消える」
「ええ、分かっています」
忠夫は一礼し、扉に向かった。
ノブに手をかけたところで、背後から声が飛んだ。
「佐伯君」
振り返ると、斎藤は椅子に座ったまま、まっすぐに彼を見ていた。
「稟議は、必ず通す」
その言葉は静かだったが、揺るぎない重みを持っていた。
忠夫は小さく頷き、静かに扉を開けた。




