第百三話:書類上の矛盾
東京・芝浦の東芝本社ビル。
常務執務室の窓から見下ろす東京湾は、冬めいた曇り空を映して灰色に沈んでいた。
「……失礼します。常務、ご指示のあった資料が揃いました」
入ってきたのは、本社法務部で輸出管理を統括する実務責任者の黒崎だった。斎藤が最も信頼を置く部下の一人である。
黒崎は周囲を確かめるように扉を静かに閉めると、手にした薄いレターファイルをデスクの上に置いた。
「東芝機械が通産省へ提出した輸出許可申請書のコピーです。それと、和光交易を通じてコングスベルグ社と交わされた三社間契約書の写しも確保しました」
「問題なく取り寄せられたか」
「ええ、本社で輸出案件の資料確認を進めることになった、と伝えました。本社常務からの依頼ですので、東芝機械側も通常の資料提出として応じています」
「黒崎君、苦労をかけた。ありがとう」
黒崎が一礼して退出すると、斎藤は小さく息を吐き、ファイルを開いた。
中に綴じられていたのは、三年前に通産省へ提出された『MBP-110』型の輸出許可申請書と、今年に入って追加受注した『MF-4522』型四台分の輸出許可申請書だった。
最初の一枚に目を落とす。
『同時制御軸数:二軸』
『主な用途:立旋盤加工』
通産省の許可印が押されている。
次の申請書にも、また二軸。
追加受注分の四台も、すべて同じだった。
『同時制御軸数:二軸』
『主な用途:一般産業用部品加工』
赤い許可印が、紙の上にくっきりと残っていた。
(……二軸。どれも二軸だと?)
書類の上では、共産圏輸出規制対象となる同時多軸制御には該当しない仕様となっていた。
だが、斎藤の脳裏には、帰りの新幹線で忠夫が口にした言葉がよみがえっていた。
『多軸制御のページに手書きの修正跡と付箋がいくつも貼られていて……』
(……申請書では二軸。それなのに、現場では多軸制御のマニュアルを使って調整をしていたというのか)
斎藤は眉間を寄せた。
申請書が正しいなら、現場で多軸制御に関する調整が行われていた理由が説明できない。今年追加された四台も、すべて同じ「二軸」で申告されている。書類と現場の間に見過ごせない食い違いがあるように思えた。
もっとも、斎藤自身は工作機械の制御にそこまで明るいわけではない。二軸という申告と、現場でいう多軸制御との間に、自分の知らない技術的な文脈がある可能性もゼロではなかった。
だが、新幹線の中で忠夫が見せた、あの落ち着いた口調だけは、どうしても気にかかった。
斎藤は申告書を閉じ、次に契約書へ目を移した。
契約当事者は東芝機械、和光交易、そしてコングスベルグ社。書類の形式は整っている。用途も、仕様も、表向きはすべて辻褄が合っていた。
――少なくとも、書類の上では。
斎藤はしばらく無言で契約書の表紙を見つめたあと、ゆっくりと立ち上がった。
「……佐伯君に確認してみるか」
◇
開発室。
来年三月のレイアウト設計凍結に向け、室内の空気は日を追うごとに焦げつくような緊張を帯び始めていた。
「……シフタからレジスタへのデータバス、この経路だと二層目のメタルが少し詰まりすぎていますね」
忠夫は、机の上に広げられたフロアプランの一角を指差した。
隣で図面を覗き込んでいた関根が低く唸る。
「ああ。だが、ここを迂回させると今度はALU側の制御線と干渉する。第一ブロックの空きも、もうほとんど残ってない」
製図台に向かっていた西村が、ルーペから目を離さないまま口を挟んだ。
「配線間隔なら十ミクロンはまだ余裕がある。だが、それ以上寄せるならマスターセル配置から見直しだ。今からそんなことをしたら、三月に間に合わん」
「……十ミクロンですか」
忠夫は図面に顔を寄せた。
「それなら、セルは触らずに済みます。この部分だけ詰めて引き直せませんか。限界値の中には入ります」
関根が腕を組む。
「そこだけで収まるか?」
「恐らく。少なくとも全体をいじるよりは安全です。まず、その経路だけ切り出して見た方がいいと思います」
関根は数秒だけ考え、頷いた。
「……よし、それでいこう」
忠夫が修正値を書き込もうとした、そのときだった。
ガチャリ――重い鉄扉が開いた。
室内の視線が、反射的に入口へ向かう。
そこに立っていたのは、斎藤だった。
いつもの進捗確認とは明らかに違う空気をまとっていた。表情は抑えられている。だが、その抑え方そのものが、事態の重さを物語っている。
高村が何か言いかけたが、斎藤は片手で制した。
「すまない。少し佐伯君を借りる」
低い声が、室内のざわめきを一瞬で止めた。
斎藤の視線が、真っ直ぐに忠夫へ向けられる。
「……佐伯君。少しいいか。別室で話したい」
開発室の空気が、ぴたりと凍りついた。
誰もが意味を測りかねたまま、忠夫と斎藤を見ている。
(……確認が終わったのか)
忠夫は静かに立ち上がった。
「すみません。ここ、戻ったら続きを見ます」
「……ああ、わかった」
関根が小さく頷いた。
忠夫は斎藤の後に続いた。




