第百二話:システムの矛盾
重厚な鉄の扉の向こうは、幾台もの端末が発する熱気と、電子部品特有の匂いに満ちていた。
開発部長が、部屋の一角にある端末群を指し示した。
「こちらが、制御系ソフトウェアのデバッグエリアです。機密案件のデータはあちらの別室で管理していますが、基本的なアーキテクチャの検討などはここで行っています」
忠夫はゆっくりと室内を見渡した。
机の上には、先ほど目に入った『KONGSBERG』の保守マニュアルが開かれたまま置かれている。
英文とノルウェー語が併記されたそのページには、制御系統のブロック図が印刷されていた。
その一部には赤ペンでパラメータが書き込まれ、付箋がいくつも貼られていた。
図面の上部には『制御装置(Main)』と書かれた四角い枠がある。
間に『TMC 補間演算ボード』と書かれた別のブロックが挟まり、そこから放射状に分岐するように多数の制御ラインが各軸の駆動系へと伸びていた。
忠夫の視線が、ブロック図の右側に記された軸のリストに止まった。
X軸、Y軸、Z軸、A軸、B軸、C軸、U軸、V軸、W軸。
(……九軸)
忠夫は思わず息を飲んだ。
「部長、この構成図が少し気になったんですが……標準の制御装置とモーターの間に、別の基板が挟まっていますよね。あえて自社製の制御ボードを間に追加しているんですか?」
開発部長は少し驚いたような顔をして、それから穏やかに頷いた。
「……鋭いですね。おっしゃる通りです。標準の制御装置だけでは足りない機械があります。そういう場合は、当社独自の制御ボードを追加して性能を高めているのです」
その時、部屋の奥から若手技術者が小走りで近づいてきた。
「部長、営業部からお電話です。至急確認したいパラメータがあるそうで」
「分かった。すぐ行く」
開発部長は斎藤に一礼し「申し訳ありません、少々席を外します。大野君、常務たちのご案内を頼む」と言い残し、足早に部屋を出て行った。
残された若手技術者の大野は、親会社の常務と見慣れない少年を前に、少し緊張した面持ちで立っていた。
「……あの、何かご質問があれば」
忠夫は柔らかな笑みを浮かべ、ブロック図を指した。
「さっき工場で見た大きな工作機械、ありましたよね。ああいう機械にも、このボードって入ってるんですか?」
大野の表情が少しほぐれた。
「ええ、高精度機だと使うことが多いですね。標準の装置だけじゃ厳しい制御もありますから」
「じゃあ、かなり特殊な機械向けなんですね」
「そうですね。全部じゃないですけど、加工仕様が重い案件だと、このボードを足すことがあります」
大野は図面をのぞき込み、少し誇らしげに続けた。
「それに最近は要求も細かいですし。案件ごとに制御条件が違いますから。そのたびにパラメータを追い込まないと、要求精度に収まらないことも多いんですよ」
忠夫が首をかしげる。
「要求って、お客さんごとにそんなに違うものなんですか?」
「ええ。国内でも違いますけど、海外向けは特に細かいですね。最近は改版作業が続いていて、こっちも結構ばたばたしています」
大野は照れたように笑った。その笑みは、自分たちの技術に対する誇りを隠していなかった。
(……繋がった)
工場で見た『WAKO KOEKI CO., LTD.』のラベル。
開かれたままのKONGSBERG保守マニュアル。
そして九つの軸名。
単体では何の証拠にもならない。
しかし、それらが並んだとき、未来の記憶にある事件の輪郭と静かに結びついた。
それから間もなくして開発部長が戻り、手短に見学は終了した。
「とても勉強になりました。一つの標準構成を、独自のボードとソフトで拡張する。CPUの設計にも、大いに参考になります」
忠夫が頭を下げると、開発部長も満足そうに頷いた。
◇
帰りの東海道新幹線。
窓の外には、夕闇に沈む富士山のシルエットが流れていた。
隣の席でコーヒーを口にする斎藤に対し、忠夫はシートに深く背中を預けたまま、静かに口を開いた。
「斎藤さん。一つ、気になったことがあるんです」
「ん? 描画装置のことか」
「いえ。……和光交易という会社、ご存じですか」
「……和光交易。……たしか共産圏の取引を専門としている商社だったはずだが」
忠夫は手帳を開き、書き留めた内容を静かに読み返した。
「今日、工場で見た大型機械の梱包には『KONGSBERG』と『WAKO KOEKI CO., LTD.』の表示がありました」
「それがどうかしたのか?」
「それだけなら気になりませんでした。でも調整室では、コングスベルグの保守マニュアルが開かれたまま置いてありました。多軸制御のページに手書きのパラメータ修正の跡と付箋がいくつも貼られていて……継続的な調整や改版が行われている印象を受けました」
忠夫は一瞬言葉を切り、斎藤の目を見た。
「木箱のラベル、保守マニュアル。そのどれか一つだけなら気にならなかったと思います」
「でも、その二つが結びついてる可能性が高いと思いました。もちろん、それだけで何か問題があるとは言えません。それでも、共産圏向けの案件で高度な制御技術が関わっているのなら、契約内容や輸出仕様は一度確認しておいた方がいいような気がしたんです」
「つまり、違和感を覚えたと?」
「はい。一つ一つは不自然ではありません。でも、全部を合わせると、どうにも引っかかるんです」
斎藤はしばらく無言で窓の外を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「……分かった。念のため契約内容や輸出仕様を確認しておこう」
「ありがとうございます」
忠夫は小さく頭を下げ、手帳を閉じた。




