第百六話:再び沼津へ
役員会から二日後の日曜、午後一時。
東芝本社ビルの応接室。
休日の静まり返った部屋で、斎藤は忠夫を待っていた。隣には、ダークスーツに身を包んだ、初めて見る男が立っている。
「佐伯君」
斎藤が忠夫に気づき、軽く手を上げた。
「実地確認の日程が明日に決まった。……平日だが学校の方は大丈夫か?」
「前回と同じです。休む理由は、なんとかします」
斎藤はそれ以上聞かず、小さく頷いた。
「法務の黒崎だ。明日の沼津再訪で、書類と記録の照合を受け持ってもらう」
年は五十代半ば。深く刻まれた顔の皺は、長年の法務業務の厳しさを物語っていた。黒崎は軽く会釈しただけだった。表情はほとんど動かない。
「黒崎です。明日は法務として同行します。よろしくお願いします」
低く、抑揚のない声だった。
斎藤は忠夫の肩に軽く手を置いた。
「詳しい打ち合わせは、明日の移動中にしてくれ。あとは、二人に任せる。私は本社に残り、向こうで何か出た時に、すぐ上へ回せるようにしておく」
「はい」
「黒崎君、佐伯君を頼む」
「承知しています」
斎藤はそれだけ言うと、二人を見据えて深く頷いた。
◇
翌朝、午前八時。
東京発、新幹線「こだま」の車内。
空いた車内で、忠夫の隣には昨日引き合わされた黒崎が座っていた。
膝の上に置いたブリーフケースに手を添えたまま、一切の無駄な動きを見せずに口を開いた。
「佐伯君。沼津での役割確認ですが、基本は二つです。私が『書類』。君は『現場の物理的事実』。この二つが合致するかどうかが決め手になります」
「まず、私が調べた全ての書類では、二軸制御の汎用機として記載されていました」
忠夫は静かに口を開いた。
「……書類上は問題ない、ということですね」
「ええ。ですが実際に君が現場で見たものは違った」
黒崎は言葉を続けた。
「だからこそ、紙に書かれていない事実を拾いたい」
一拍置いて、黒崎が尋ねる。
「君なら、何を確認しますか?」
忠夫は少し考え、答えた。
「……僕が気になるのは、保守マニュアルの改版時期です」
黒崎が初めて、忠夫の方へ視線を向けた。
「といいますと」
「九軸同時制御に対応させるには、それに対応したソフトウェアが要ります。それがいつ設計され、いつ現場に届いたのか。まずはそこを確認したいです」
黒崎はわずかに目を細めた。
「なるほど。記録の日付から辿るわけか」
黒崎は手帳を開き、ペンを走らせた。
「では、確認するポイントは三つです。一、保守マニュアルの改版日と配布記録。二、ソフトウェアの更新履歴。三、改版が誰の指示で行われたか。この三つです」
忠夫は頷き、手帳にメモを取った。
黒崎は続けた。
「それと、現場で違反だと決めつける発言は避けてください。あくまで品質確認に徹してください」
黒崎は手帳をめくりながら言った。
「質問は事実関係だけに留めます。まずはそこだけでいい。重要なのは相手に、こちらの狙いを悟らせないことです」
忠夫は小さく頷いた。
「分かりました」
そして、少し間を置いてから続けた。
「それと、前回僕が見学した際、大野さんという若手技術者が対応してくれました。彼なら、改版の経緯を知っているかもしれません」
黒崎は手帳にその名を書き留めた。
「大野さんですね。名前は覚えておきます。それについても、直接『指示者は誰か』とは聞かず、技術的な経緯を尋ねる形で入りましょう」
忠夫は頷き、視線を手帳に落とした。
二人を乗せた新幹線は、冷たい冬晴れの空の下を沼津へと向かっていた。
◇
車窓の向こうに、見覚えのある山影が現れ始めた。
黒崎はブリーフケースから、一枚の封筒を取り出した。
「これが本社の品質確認指示書です。工場に着いたら、まずこれを出します。受け答えは私がやります。君は現場を見ていてください」
黒崎はそこで一度言葉を切った。
「もし、不自然なものがあれば、それを拾ってほしい」
忠夫はファイルへ目を落としたまま尋ねた。
「相手がもし拒んだら」
「こちらには本社の指示書があります。本社名義で入る以上、正当な理由なく拒否はしにくいでしょう」
黒崎は封筒を再びしまうと、忠夫へ視線を向けた。
「一つ、言っておきます」
「はい」
「今日、我々が見るものは、書類だけでは終わらない可能性がある。もし現場の反応が、これまでと違うと感じたら、無理に踏み込まず、私に合図を送ってください」
忠夫は黒崎の顔を見た。表情は変わらない。だが、その一言には、これから向かう場所への緊張が滲んでいた。
「分かりました」
車内アナウンスが、まもなく三島に停車することを告げた。
新幹線はやがて減速を始め、窓の外の景色がゆっくりと流れを緩めていく。
三島で降り、東海道本線に乗り換える。あと二駅で、沼津だった。
忠夫は膝の上のファイルを握り直した。
紙の重さが、今日という日の現実を、静かに手のひらへ伝えていた。




