終話 朝の放送
山を下りてから、報告書を書いた。
見たこと、起きたことを、起きた順に。名前を書いた人間は、全部で5人になる。
祭壇のことも、書いた。
俺が見たとおりに、全部。
様式の最後に、所見を書く欄がある。少し考えてから、一行だけ書いた。
祭壇は、元の形に戻した。
研究所の窓口に出すと、事務の人が書類の束を揃え、受付印を押す。朱肉のケースの角が擦れて、地の色が白く覗いている。
「お預かりします。……大変でしたね」
「よろしくお願いします」
「あの、溝口さんの分の報告は、別に出されますか」
「隊長の分は、隊長が出すと思います」
事務の人は、少しの間、俺の顔を見ていた。それから「そうですね」とだけ言って、書類の束を後ろの棚に入れた。
それきり、誰からも続きの連絡はない。
じいちゃんの葬式は、そのあとでようやく出せた。
小さな式。
「喪主様は、こちらにお立ちください。ご焼香の際は、お一人ずつ前へ」
葬儀社の人に言われたとおりに立ち、言われたとおりに頭を下げた。焼香の列は短く、読経だけが長い。
棺の窓は、最後まで閉じたまま。
骨を拾う。箸の先で、白いかけらが軽い音を立てた。
家に帰って、何日か、何もしないで眠った。
*
目が覚めたのは、朝の早い時間だった。
目覚ましが鳴るより、ずっと前。カーテンの隙間から、白い光が細く差しこんでいる。
外で、雀が鳴いていた。
久しぶりに、頭がすっきりしていた。何日も眠ったせいか、体が軽い。
起き上がって、机の上の箱を引き寄せた。じいちゃんの家から持ち帰った、写真の箱だ。
葬式の間は、蓋を開ける気になれなかった。
一枚ずつ、めくっていく。
学会の集合写真。どこかの発掘現場。
暗室で焼いたらしい、モノクロの山並み。若い頃のじいちゃんが、知らない誰かと肩を組んで笑っている一枚。
前の隊の、出発の朝の写真もあった。林道の終点で、隊員たちがザックを背負って並んでいる。
端のほうに、作業着にダウンの鵜飼さんが、ほかの人間から少し離れて立っていた。
箱の底から、印画紙の酸っぱい匂いが立つ。
その下に、壺の写真があった。
研究所の台帳に貼るために撮ったものだろう。正面から、二行の文字にきっちりとピントが合っている。
指で、なぞった。
「高く懸かる日、直視すべからず」
声に出してから、指が止まった。
読めている。
研究所の誰も、一文字も読めなかった文字だ。対照表も、辞書も、見たことがない。
それなのに、二行とも、意味がそのまま頭に入ってくる。刻んだ人間の手の動きまで、分かる気がした。
もう一度、口の中で転がす。文字の形と音が、何の引っかかりもなく、ぴたりと重なる。
……どうして、読めるんだ。
3つ目の鼻を掻いた。
*
そういえば、ひどい夢を見ていた。
夢の中では、周りの人間がみんな化け物になっていた。
二本の脚で、まっすぐ立って歩く。全身が、白くてつるりとした皮膚に覆われている。
頭のてっぺんにだけ、黒い毛がもじゃもじゃと生えている。
そして顔には、目が二つと、口が一つしかなかった。
連中は、水を飲んでいた。透明で、匂いもしない水を、喉を鳴らして、うまそうに。
空を見上げるときは、決まって手をかざして、顔をしかめていた。
最初は、江崎さんだった。それから、根津さんと吉岡さん。
最後には、鵜飼さんと、隊長まで。
みんな、その顔で俺を見ていた。それで俺は、一人ずつ、片づけるしかなかった。
思い出すと、喉の奥がひりつく。
台所に立って、冷蔵庫から瓶を出した。冷たいままだと、味がしない。
小鍋で少しだけ温めて、カップに注ぐ。
二口、飲んだ。
温かい血が、喉を降りていった。
ようやく、喉のひりつきが引いていく。
携帯を取って、隊長に電話をかけた。報告書を出したことを、まだ伝えていない。
呼び出し音が鳴らない。
「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため――」
切って、画面を見た。発信履歴の一番上に、「隊長」とだけ表示されている。
もう一度かけようとして、やめた。山の中にいるのかもしれない。
隊長は、いつも仕事が残っている人だった。
*
顔を洗って、ベランダに出た。
朝の空気が、まだ少し冷たい。向かいの屋根のアンテナが、斜めの日を返している。
下の通りを、自転車が一台、ブレーキを軋ませて曲がっていった。
物干し竿の下、エアコンの室外機の上に、サングラスが置いてあった。
黒いフレームの、どこにでもある形。
いつからここにあるのか、覚えていない。手に取った。
つるの内側に、小さな金色の刻印がある。どこかで見たことのある、店の名前だった。
レンズを数える。
一枚。二枚。
それで全部だった。
誰のだろう。
少なくとも、俺のじゃない。俺の目は5つある。
二枚では、どうやったってかけられない。
フレームを光にかざして、つるを開いたり閉じたりした。
そういえば、夢の中でも、こういうものを使っていた気がする。
隔てる物がないと怪物が見えないんだっけ。
よく、覚えていない。夢の中のことを、いちいち覚えていてもしかたがない。
サングラスを、室外機の上に戻した。
日差しが、温かかった。
空の高いところに、太陽が懸かっている。雲が一つもない。
こんなにいい天気は、久しぶりだった。
俺は顔を上げて、目を細めた。
何も隔てずに、まっすぐ見る。
無数の触手が、ゆるやかにうねっていた。その表面を、蜂の巣みたいにびっしりと目が覆っている。
ところどころで、濡れた鱗が日を照り返す。全部が、ひとつの体だった。
しばらく、そのまま見上げていた。触手の一本一本が、ほどけては絡み、また別の一本に寄り添っていく。
こんなに美しいものを、どうして見るなと言ったんだろう。
いくら見ていても、飽きなかった。
首の後ろが、日差しで温まってくる。
街のどこかで、屋外スピーカーの入る音がした。
「今日の太陽は美しい。見上げましょう」




