第二十二話 すごく嫌な予感
地響きと轟音、王宮の居住区の端にある倉庫に父である国王と数人の親族とともに隠れていたユーディットは、何となくだが胸のざわつきを感じていた。そのせいで魔神エキドナが迫っていても妙に恐怖はなく、しかし落ち着かないという感覚だ。
「すごく嫌な予感」
ユーディットは言い表してみたが、やはりざわつきは収まらない。
メイドのリディアも門番のバルトスも、アーセナル騎士団の指示で避難を余儀なくされた。できるだけ少ない人数のほうが面倒がなく、守りやすい、という理由からだ。
最後までリディアは渋っていたが、ユーディットは「ハルトーク様がいらっしゃるのだから、むしろこちらは安全よ。リディアとバルトスのほうこそ気を付けて」と説得し、王宮から送り出した。心細くないとは言えないが——スメルナ王家の人間が、元はと言えば今回の魔物の侵攻、魔神の襲来の原因だ。
やはり、ユーディットにはその負い目があった。
隣に座っていた国王が、娘の異変に気付く。
「どうした、ユーディット」
「ええと……ハルトーク様が心配で」
ユーディットは咄嗟にそう言ってしまったが、それも嘘ではない。
国王は、娘を励まそうとする。
「大丈夫だ。最強の騎士が負けることはない」
「そう思います、思いますが、怪我の一つもしないということはないでしょう?」
「まあ、そうかもしれぬが」
「王宮からものすごい音がしていますし」
そう言った矢先のことだ。
倉庫の屋根が、吹き飛んでいった。ばらばらと崩れ落ちてくるレンガの破片に、ユーディットたちはそれぞれ頭を守り、何があったのかを把握しようとする。
すっかりなくなって、空が広がる倉庫の上に、女の顔があった。瞳孔が縦に割れた目を爛々と輝かせ、口は耳まで裂けている。
そのあまりの異形に、ユーディットも国王も、動けない。恐ろしい生き物が、自分たちを見ている。蛇に睨まれた蛙のごとく、立ちすくむ。
魔神エキドナは、喜色に顔を綻ばせた。
「いた、いたぁ! 美味しいものが! ああ腹が減った!」
ずるりと巨大な腕が伸びる。人間の腕をしていながら、その長さは胴体よりもあり、蛇の体のようにうねっていた。
より栄養のある人間を、若くて柔らかい女を、と魔神エキドナは狙いを定める。逃げられまいと素早くユーディットの体を握って、持ち上げる。
滑りのある指先、力強く握られた手の中に収められ、ユーディットはやっと金縛りが解けたように、悲鳴を上げる。
「きゃあああ!」
魔神エキドナは恍惚の表情を浮かべていた。美味しいだろうそれを、早く食べたいと体が欲してたまらないのだ。飢えた蝮の女は、ただただそればかりを望んでいる。
魔神エキドナが口を大きく開き、ユーディットを握る手ごと口へ運ぼうとしたそのときだ。
「ユーディ!」
魔神エキドナの背に、袈裟斬りの一撃が届いた。その断面ごと凍り、しかし体の大きさのせいか、それとも——ハルトークが万全ではないせいか、傷はどうにも浅かった。
倉庫の壁の上に降り立ったハルトークへと、魔神エキドナはその手にあるユーディットを握りしめ、自分の体に引き寄せて訴える。
「こ、こいつを食われたくなければ、動くな!」
人質、などという手段を取らなければならないほどに、魔神エキドナは追い詰められていた。
人類は食糧だ。人類は滅ぼし、魔神は勝たなければならない。
その使命とも言える思想を、理念を、魔神エキドナは忘れ去っていた。それほどまでに、魔神エキドナは自らの命を惜しみ、己の助かる道を模索するほどに、魔神であるその誇りを、立場を、戦意を、すっかり失ってしまっていた。
とはいえだ。
ハルトークは動けない。
理由は二つある、ユーディットを人質に取られていること、そして何より、魔神エキドナがハルトークにとっての恐怖の象徴である女性の姿をしていることだ。
どうにかユーディットを助けなければならない、おそらくハルトークの剣撃であればユーディットを傷つけられる前に魔神エキドナを仕留めることができる。
しかしそれは、全力を出せる状態でのことだ。
一歩間違えれば、ユーディットが危ない。指先の震え一つで、まるで結果が変わってしまう。
戦場での躊躇など、ハルトークは初めてだった。
その力で、剣で、すべてをねじ伏せてきた青年は、非常に——困っていた。そうとしか言えない状態だった。




