第十八話 決めた!
ハルトークは否定しようとして、一瞬考えた。
単に否定してしまうと、ユーディットと結婚したくない、ユーディットに魅力がない、つまり失礼に当たるのではないか。
「お、おすすめはしないかな! ほら変人ばっかり会っちゃうし疲れるし!」
「仮定の話ですから、お気遣いなく。そういう夢を見たっていいでしょう?」
「あ、夢ね、夢。そうね、見るだけだったらタダだし」
しゅんとハルトークは浮かれた気持ちを沈ませた。すっかりユーディットの手のひらで転がされている。
「そういうことです。箱入り娘の私が大陸中を駆け回るあなたについていくなんて、どうやっても無理です」
「そうかなぁ……吟遊詩人みたいにあちこち行ってさ、ああ、吟遊詩人って最近は新聞社と契約して記者の仕事をやるみたいでさ、そういうのもいいんじゃない?」
提案はしてみたが、無責任ではないだろうかと心配になってきたハルトークは、どきどきしながらユーディットの返答を待つ。
しかし、ユーディットの声は少し、楽しげだ。
「いいですね。吟遊詩人、なってみたいです」
「もし王女じゃなくなったら、就職先の一つに考えとくといいかもしんないね」
扉の向こうで、ふふ、とかすかに笑い声がした。ユーディットがその選択肢を気に入ったようで何よりだ、ハルトークがほっとしたのも束の間。
「えい」
かけ声とともに、扉の穴から手が侵入してきた。
ハルトークは悲鳴を上げる。
「ひえあああ!? 何すんの!?」
すると、ユーディットはあからさまに不機嫌そうな声になる。
「何ですか、その悲鳴は。顔が見えないなら、手を繋げるかと思ったのです。これも女性恐怖症を治す一環ですよ」
「それは先に言って! 心の準備できてない!」
「言ってしまうと嫌がるでしょう」
「そうね多分そうだったと思うよ、でもびっくりした!」
抗議しつつも、ハルトークは差し出されたユーディットの手を見る。
手から肘の途中までだが、すらりと細く白い。この手で斧を振り上げて扉を壊したとは思えない。
いやいや、そうではない。ハルトークは、本来の目的を思い出した。女性恐怖症の克服だ。となれば——せめて、触れるくらいにはなろう、と思った。
「さ、触っていい?」
「もちろんです」
「引っ張らないでね?」
「引っ張りません、約束です」
そう約束したユーディットを信じて、ハルトークは右手をそっと近づける。
分厚い爪と無数の傷とたこだらけの、ごつごつとした筋肉と骨でできた自分の手とは、まるで違う。小さい手、と思ったのは、自分の手よりも二回りは細いからだ。
王女の手とは、こんなものだろうか。だが、前にうっかり姿を見たとき、ユーディットは小柄だった。それを考えると、確かに小さな傷一つない手は似合う。それに比べて母や姉たちは、とてもこの手とは似ても似つかない、武器を持ち戦う手だった。
そろりと、指先と指先が触れ合う。動かないユーディットの手に、ハルトークは右手を乗せる。すっかり覆うほど、大きさが違う。しかし、顔が見えず、動かない女性の手ならそれほど怖くはなく、何とかなることが分かった。
意を決して、ハルトークはユーディットの手を握ってみる。細すぎて、ガラス細工のようで、別の意味で怖い。
「めっちゃ細い」
「そうですか?」
「お袋とか姉ちゃんたちの手がゴツすぎたって初めて実感しました」
「アマゾネス女王国の女性は鍛えてらっしゃると聞きますし」
ユーディットのフォローは、残念ながら効果が薄い。あれは生まれつきだ、とはハルトークは言えなかった。
ユーディットがほんの少し、指先を動かした。びくりとハルトークは驚いたが、手を離さない。
迂闊に咄嗟に、反射的に動くと、ユーディットの手を傷つけてしまうかもしれなかった。我慢して動かないよう努力する。
「ハルトーク様の手は、傷だらけですね」
「ああ、うん、戦ってるからね」
「感触が違いますが、ここは?」
「火傷跡です。あー、けっこう昔のやつだわこれ」
「こちらは爛れていますね。ちょっとでこぼこです」
「ヒュドラの毒を被ったとこかな。そのうち治るらしいよ」
言われてみると、ハルトークは自分の手が随分と傷つき、今までの戦いの数々を表していると思えた。問題なく動く間は気にもしなかった、怪我をすれば適当に包帯を巻いて、痺れて武器が持てなければ剣の柄を縛りつけて戦った。次から次へと魔物の討伐の要請はやってきて、最前線での応急処置以外の治療はここ最近やっていない。でこぼこの不恰好な手になってもおかしくはないほど酷使していた。
そろそろ労わってやらなければ、としみじみしていたハルトークへ、意外な言葉がかけられた。
「すごいですね。人々を救ってきた、英雄の手です」
どこにいても、感謝の声はあった。労わる声もあった。恐れられる声もあった。
「そんなこと言われたの初めてかもしんない」
小さなつぶやきだったが、ユーディットには聞こえていたようだ。ハルトークの右手のひらを、ゆっくりと撫でる。
不快ではないし、柔らかいユーディットの手は敵意もなく、穏やかで、むしろ心地いい。
こんなふうに思えるのは、母でも姉でも迫ってきた女性でもなく、気遣ってくれるユーディットだからこそだろう。感動は、ハルトークの思考と心を温かくさせる。
なのだが、聞き覚えのある声がやってきた。
「何事だ、これは」
「アーセナル? ちょっ、待って」
ハルトークは急いでユーディットの手を離す。アーセナルの来訪により、ユーディットの手は引っ込められた。
もうちょっと空気を読んでくれればよかったのに、と惜しむ。
そう思う自分に、ハルトークは衝撃を受けた。生まれてこのかた、そんなことを思ったことなどあっただろうか。
ハルトークが自身の気持ちを上手く消化できないでいても、アーセナルは話を止めない。
「ちょうどよかった。ユーディット王女にも、お伝えしなくてはならないことがあります」
「私、ですか?」
「ええ、少々お時間をいただけますか?」
「もちろん、お聞きします」
扉の向こうではさっさと話が進んでいた。ハルトークは気持ちを切り替える。
アーセナルは状況など気にせず、速やかに本題を切り出した。
「ハルトーク、魔神エキドナの目的は、おそらくスメルナ王家だ。初めから王家の人間を真っ先に狙わなかったのは、下調べをして少しでも多く確保しようとしたんだろう」
それを聞いた瞬間、扉の両側で、緊迫した空気が生まれた。
ユーディットが動揺を隠しきれない声を出す。
「どういう……話、ですか?」
よりによって、とハルトークはアーセナルを責めたい気持ちに駆られた。ユーディットがそんな話を知らなくてもいいのに、と。
いや、ユーディットもスメルナ王国の王女だ。それも、報酬として自分の身を差し出すことを厭わないほどに、責任感が強い。スメルナ王国が魔物の侵攻に晒された真の理由を知りたいと願うだろう。
ならば、ハルトークの気遣いは、ユーディットを侮ることに繋がる。
それにしても、魔神エキドナがスメルナ王家の人間を狙う理由は——先ほどユーディットから聞いた、伝説の中にあるのだろう、とハルトークはすぐに察した。
「伝承によれば、魔神エキドナは魔物を産み出すためか、人間の血肉を非常に好む。しかし、その中でも特に栄養のあるものは、おそらく」
「神様の生贄にされるほどの人間の血族を狙った、ってことか」
「そうだ。お前も知っていたのか」
「うんまあ、ちょっとね」
そこは問題ではない。ハルトークは今すぐにでも、扉を開けて外へ出たかったが、体が強張っている。
扉の向こうにはユーディットがいる。ひどく心配でたまらないが、ハルトークの手はドアノブへと動かそうとしても、止まったままだ。一歩を踏み出そうとする足も、自覚できるほど竦んでいる。
ここまで前に進まなければならないのに怖いと思ったのは、いつぶりだろうか。
もどかしく、しかしハルトークには扉を開ける勇気がまだない。ギガンテスがいようとヒュドラがいようとヴィーヴルが群れをなそうと、一度だって恐怖を感じたことはなかった。突撃を躊躇うことさえなかった。
なのに、今は立ち止まったままだ。
そうこうしている間にも、ユーディットの悲痛な声が聞こえる。
「わ、私たちのせいで、この国は、魔物に襲われたということですか」
声を震わせるユーディットへ、アーセナルは答えない。話題を変える。
「現在、スメルナ王家の血を引く人間は、直系の国王とユーディット王女、それから遠縁の数人だけだ。彼らを王宮へ避難させて、魔神エキドナから守る体制を整える。これは国王も了承済みだ、ユーディット王女はしばらくは王宮から出ないよう」
アーセナルは、必要な情報を事務的に伝える。それは重要なことだ、どんな状況でも冷静に、客観的事実を捉え、情報を伝達する。
だが、それは最前線で戦う人々にだけ必要なことで、ここにいるユーディットに必ずしもその姿勢は正しいとは、ハルトークは思えなかった。
ただただ、ハルトークは心配だった。自分を気遣ってくれた人間がショックを受け、おそらくは自分の責任を——決してユーディットのせいではないのに——感じているのに、扉を隔てているだけで何もしてやれないのは、嫌だった。
その思いを抑えきれないハルトークの口から、無意識に言葉が飛び出る。
「アーセナル。俺、王宮に行くよ。守らなきゃ」
そう言ってから、ハルトークは自分の言葉の意味に気付き、言い訳がましく付け足す。
「あっ! えっと、今からユーディと一緒に行くわけじゃないけど! でもほら魔神エキドナ来るらしいじゃん? じゃあ近くにいないとほら! ね!」
扉の向こうから、アーセナルのため息が聞こえた。こんなときまでしょうもないやつだ、と言いたいのだろう。
むぐぐ、と反論できないハルトークが無音で地団駄を踏んでいると、アーセナルではなく、ユーディットがこう言った。
「ハルトーク様」
「な、何?」
「魔神がどれだけの存在かなど、世間知らずの私でも分かります。危なくなったら、逃げてくださってけっこうです。決して、恨みはしませんから」
その言葉は、ハルトークの心に火を着けた。
自身の両頬を叩いてから、ハルトークは声を張る。
「ユーディ!」
「はい」
「大丈夫! 守る! 魔神エキドナなんか、ばーっとやってパーっと倒すからさ!」
何だか子供っぽい表現になってしまった。言っておきながら、ハルトークは赤面する。
それでも、言いたいことは言おう。言えなくなってしまう前に、この勢いで。
「終わったら、また話をしてくれないと、えっと、困るっていうか、女性恐怖症、治ってないし」
だんだんと勢いは尻すぼみに消えていく。最後まで言い切りはしたが、締まりが悪い。
恥ずかしさに独りで悶絶しているハルトークの姿は見えなくても、ユーディットは意を汲んでか、声が弾んでいた。
「そうですね、分かりました。治しましょう、きっと」
たった一言、それだけで、ハルトークの顔は赤みを残して明るくなる。
そうと決まれば、やることはまだまだある。
アーセナルに付き添われてユーディットが帰ったあと、ハルトークは手紙を書くことにした。たんまり書いて、それを持って外でクーリエをやっと探し出して、チップと一緒に渡す。
あとは、死骸馬アーデンスの持ち帰ってくるであろう剣、『アルグムドの杖』。それさえあれば、魔神だろうが何だろうが問題ないだろう。
ハルトークは決めた。
魔神を討伐する。
この国と、ユーディットのために。




