♯24 月桂樹
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誰も寄らない時計塔で、子供だけが二人語り合う。
「……でね、神父さまがとがった口でおっしゃるの。七の七十倍ゆるしなさいとは──って。同じことしかおしえてくださらないから、何ど目かも忘れちゃった」
少女は日当たりのいい木箱に座ったまま、つまらなそうに脚をばたつかせては、いつものように愚痴をこぼす。オレもまたいつも通りに、ローリエが持ってきてくれた聖書の節について書かれた本を読みつつ、片耳だけを傾ける。
「へぇ……」
冷たい冬が終わり、高窓からは暖風が入り込む。あれから半年が経った。
その間、ローリエはいつだって、オレの事を気にかけてくれていた。寒くなれば、どこから拾ってきたのかも分からないような厚着だって揃えてくれたし、酷い雪の日だって、昼過ぎには必ず手作りの焼き菓子を届けに来てくれた。彼女が初めて聖句の勉強がつまらないと愚痴をこぼした時にも、オレが持ってきてほしいと頼めば、重たい本だってソリに乗せて引いてきてくれた。
「……ねぇ? それって、そんなにおもしろいの?」
ローリエが横から、不意に顔を覗かせる。心底不思議そうに、ただほんのりと不満そうな面持ちで。集中していたとはいえ、適当にあしらっていたからだろうな。
「うわッ、いきなりなんだよ! ビックリしたじゃねーか……」
「だって──ったら、いっつも本ばかりよんでるんだもん。お勉強ねっ心なのはいいことだけど……」
ローリエは頬を膨らませて、あざとく訴える。敵意なんて、彼女の前では嘘だったように。いつのまにか有耶無耶になっていた。それでも、孤独な心を許してしまいそうになる気持ちを抑えて、オレはまた一度、自分を胸底へ押し殺す。
「……いや、ちっともおもしろくなんかねーよ。これも、あれも、それも。
でも、勉きょうはだいじだ。なぁローリー、コレってどんな意味なんだ?」
十二行目を指でなぞって、ローリエに教えを乞う。机には、今まで読んできた解釈書やらが、山積みになって置いてある。『救いの兜』『黙示録二十章の印』中には、『七の七十倍の赦し』と題を振られた本もあったが……実際のところ、教えなんてどうでもいい。ありがたいなんて、冗談でも思ってたまるかってんだよ。
拙い知識でやり繰りして、普通に振舞えるようになるんだ。ただ、その為に。
「……むぅ」
ローリエは眉をひそめる。しばらくは分からない単語について、こうして彼女に聞いていた。彼女はのせられやすい性格だったからか、教えるのも満更でもなさそうにしていたし、二人だけの勉強会の成果は確かに出ていた。努力の甲斐あってか、初めて会った時に比べると、多少は彼女とも違和感なく話せる。
だが、この日のローリエは余程説教で機嫌を悪くしていたらしく、一歩も譲ろうとしない。明るい声で、こっちの方が楽しいと提案する。
「お勉強はもううんざり。ねっ、今日はお外であそびましょ?
こんな所にずっと引きこもってたら、体中にかびがはえちゃう」
「それは……いやだ」
「どうして? お日様が、こ~んなにお顔をだしてくださっているのに」
ぶっきらぼうに振り払っては、再び机に向かうオレを見て唖然としながらも、ローリエは大きく手を広げてにこやかに訴えかける。外に出るわけにはいかない。まだ、こんなにも明るい時間だ。
もし、他の村人に素性を知られでもしたら……死に物狂いで掴んだこのチャンスですら棒に振ってしまう。そうなれば全部終わりだ。ヤツらの残虐はよく知っている。オレも、ローリエもだ……どうなっちまうかなんて。
右手の震えを半身で覆い隠しながら、オレは語気を強めて言い返す。
「いやだってったらやだね! かびクセぇ位が、オレにはあうって──んッ」
だがローリーは、強引にオレの手を引いて階段へ連れ出そうと試みる。景気のいい返事なんてはなから期待していなかったのか、あるいは聞く気がなかったのかもしれない。
「ちょっ、おい! だから……外はイヤだっつって!」
階段から突き出した木の手すりにしがみついて、オレは必死に抵抗した。彼女は、それを遮るように訴える。
「いいからっ、ついてきて。見せたい場所があるの」
振り向いたローリエの目は、ほんのり潤んでいた。彼女の言うことは本当なのだろうと、当時のオレが切実に思ってしまうくらいには……ローリエからは一切の偽りを感じられない。──いや、違うな。もう既に倚りかかっていたんだ。彼女だけは、悲しませたくなかった。たとえ全てが、オレを騙すためのウソであったとしても。
……ローリーの言葉には不思議な力があった。華奢な体に、病がちなのかあまり血色の良くない白い肌。それでも、彼女はいつだって明るさを持て余している。ダメだと分かっていた。あの時、どれだけ苦しくとも、彼女の手を拒むべきだった。
今や、それは叶わない。結局、オレはローリエについていく。枯れかけたヒマワリが最後の力を振り絞ってまでして、より明るい方に体を向けてしまったんだ。
背高のヒマワリが……オマエのせいで、隠れてしまう者には目もくれずに。
* * *
常に周囲へ注意を向けながら歩いていたからか、着いた事に気づきもしない。気疲れで、終いには何も見えていなかったオレの背中を、ローリエがそれとなく人差し指で軽くつつく。
「どう? 綺れいでしょ」
僅かな振動でオレは平常を取り戻す。息を整え、何ともなかったかのように振舞おうと顔を上げた瞬間だった。オレは未だ、信じられないモノを目にした。
「……こんな場所が、まだのこってたなんて」
魂が抜けたように呟く。小高い丘から見下ろす景色は、さながら昔話でしか聞かされたことのない世界の原風景で……小川のせせらぎ、流れる水も透明に近い。遠目だが、魚だって泳いでいる。所々禿げてはいたが、一帯に広がる緑の絨毯に花畑まで。低山の頂上らしく、下にはあの集落が見える。
焼き尽くされた灰色の大地に、黒く濁った汚水。河の跡に群がる死体の山に、冷めた狂乱。生温い血糊の味ですらだ。ここではその何もかもが、酷い夢幻だったかの如く忘れられている。
呆気に取られていたオレを余所に、ローリエは河原に程近い小さな花畑へと向かって、ジグザグと駆け降りていく。
「ほらっ、早くおいでっ」
「……いつの間に、ちょっとは待てよ!」
一直線に降るオレを見て、彼女は楽しそうに笑ってみせる。久しぶりに、あれだけ笑顔なローリエを見た気がした。オレだって嬉しかったんだ。本当はずっと、その顔が見ていたかったんだって、初めて気づかされた。オレはその姿に見惚れて、急な坂に脚を取られ下までゴロゴロと転がり落ちてしまう。
「うわッ! ぐッ!」
「──っ!」
ローリエの、オレを呼ぶ声に叫び声がしたかと思えば、視界が緑で埋め尽くされる。どうやら、顔面から原っぱに突っ込んだらしい。
「……大じょう夫?」
小刻みに足音がして、頭上でローリエの声がする。息を切らして、恐る恐る様子を伺う彼女には申し訳ないが、生まれてこの方頑丈さだけには自信があった。オレは大きく頭を振り上げて、顔に付いた草を落とそうと左右に振り払う。
「たいへん……血がでてる」
ローリエは顔を覗きこんできては、深刻そうに話す。大して痛みもしなかったが、言われてみれば何かが垂れてくるような感触が、額の上を沿うように滴る。
「ッこのくらい、ツバでもつけときゃ治るって」
強がりを見せたのも束の間に、手を頬に当てるローリエに驚いて、オレは咄嗟に右腕で払いのける。
「でも……もし、ばいきんが入ってしまったら」
ローリエは肩を落とす。あいかわらずの酷い心配性で、その上自分が招いてしまったと思っているのだからキリがない。これ以上、小犬の様な困り眉で顔を覗かれるのに耐えられなかったオレは、急ぎ足で小川に向かい、バシャバシャと顔を浸す。腕で水を拭って、再びローリエの元へと戻った。
「……へへっ、これで文句ねーだろ。もう痛くもかゆくも──!」
鼻下を指で擦りながら、目を泳がせて話すオレ。その間、ローリエはゴソゴソと何かを探していたかと思えば、ポケットから取り出したガーゼを額の傷へと押し当ててくる。
「このまま、ちょっとだけおさえるね。そうじゃないと、血がとまらないから……」
彼女は銘一杯背伸びをしながら、オレの額に添えた手を退かそうとはしない。出会った時もそうだった。朗らかでも真剣な表情で、何としてでも治そうと懸命に。
「──ッそ! それくらいッ、じっ自分でおさえれるってんだ!」
思考が固まる。数秒だけそうやって見つめ合った後、オレは慌てて、ローリエからガーゼを奪い取る。
「……そう? はなしちゃだめだからね、絶対!」
ローリエは指切をしたかと思えば、疑いのまなざしを向けながら2、3歩後ろ歩きする。
振り返った後には、一番最初に目についた黄色い大きな花へと向かった。オレもまた声をかけながら、駆け足で後を追った。
「ねぇ見て、きれいなお花。名前は分からないけど……毎年、月桂樹が咲くこの時期になると、同じ黄色い花を咲かせるんだ」
ローリエは声を弾ませながら、自慢のコレクションでも見せるかのようにして伝える。花、破滅してしまった自然の顕れ。オレなんかが詳しいわけがない。それでも、ラッパ口の様な見た目……細く鋭い葉に、濃く鮮やかな黄色。オレは……この花を知っている。これは──。
「……ラッパスイセン。見るのは初めてだけど、きっと、そうだ」
母さんが好きだったあの花。そして、オレの……。
「わたしがローリエなら、あなたは……ねっ、わたしたちやっぱり──」
嬉々として何かを伝えようとしていたローリエの横を素通り、オレは花の茎を根元から千切ってそれとなく差し出す。──お願いだ、その言葉だけは口にしないでくれ。
「……やるよ、ガーゼの礼だ」
初めて見せる突飛な行動にローリエは驚いた様子だったが、千切られて頭を下げる花を見ても、はっきりと嬉しいとは言わなかった。
「これを……わたしに? ありがとう……」
彼女はその長いベージュの髪に、摘まれたラッパスイセンを刺す。その姿は、河のほとりで遊ぶ妖精に見紛うほど美しい。それでも、表情は曇ったまま……ローリエは氷の針で刺すように諭す。普段の彼女からは思いつかない程、冷たく……憐れむような声色で。
「……でも、わたしなんかの為に、価値あるイノチを摘まないであげて」
「えっ、ご……ごめん」
思ってもいない返事に、オレはたじたじになりながら謝ることしか出来ない。──あたかも、その対義が存在するかのような言い草……ああ、そうだったな。ローリーはとても、自己評価が低かった。そうした顔を見せるようになったのはある程度月日が経ってからのことで……日に日に増して、酷くなっていく。どうにもしてやれなかった。知った時には、すべてが後の祭りだった。
* * *
走り回って疲れ切った二人は、丘の上にそびえる一本の大きな月桂樹の木の下で寝転がる。
大の字になって見上げた先の景色は、月桂樹の葉に遮られた空模様。緑青に輝く景色の下で、先に口を開いたのはローリエの方だった。
「ここ、わたしのお気に入りの場所なんだ」
「へぇ……ここで寝っ転がるのとっても、気もちいいもんな」
隙間から差し込む日差しが、体を丁度良く温める。季節を感じるそよ風が体を包みこむように、二人の右手側から吹き抜ける。
「誰かにおしえてもらったのか? ……それこそ、例の神父さんとかに」
「うん。お兄さまが、わたしに教えてくれたんだよ」
「でも……他のだれかに教えるのは、これが初めて」
ローリエは少し恥ずかしそうに声をすぼめながら話す。
「……さい初に見せるのが、オレなんかで良かったのかよ」
オレはやさぐれた風体で尋ねる。今日という今日まで碌に彼女と話せていなかったからこそ、正直自信がなかった。だが不安に対し、ローリエは確信して答える。
「あなたなら、この景色を見てよろこんでくれると思ってた。
だから、今日はきてくれてありがと……わたし、とてもうれしい」
ローリエが喋って間もなく、鳥が高い声で囀る。この時ばかりは、あのクモの巣だらけのボロい小屋から、無理にでも連れ出してくれたことを感謝していた。どうしてかまでは分からないが、ここでは空を見上げようと、あの忌々しいジェットを見ることもない。
ゆったりとした時間が流れ、尚もあっという間に過ぎ去っていく。小さく咳込んだ後、ローリエは一呼吸だけ置いて口を開いた。
「わたし、夢があるんだ」
「ユメ……だって?」
得体の知れない単語を前に、オレはようやく思い知らされる。──ローリーはオレと違っていた。終わってしまったこの世界で、アイツは遥か未来を描く。これまで想像だにもしない。それが意味する旨すら、考えたこともなかったのに。
夢に未来、真っ暗で先の見えない暗黒……クソくらえだ、未だにそう思う。
「わたし……ここから見える景色が好き」
樹の幹に腰掛けるように座り直して、ローリエは吐露する。緑の大地を右から左へ見回した後、その先に広がるソラへと目線を移して続ける。
「いつか、この風景みたいに……世界を、緑でいっぱいにしたい」
「もしもそうなったら……お日さまがこんなに気持ちいいから、もう二度とだれも争わないんじゃないかな」
ローリエは、自分が無辜であるかのように言い切って見せる。──こればかりは、オレも納得がいかなかった。一度、薬室で火のついた銃弾を止めることなんて、誰にも出来やしない。まして、自ら撃鉄を落としたのだから、どうしてそんな空言を話せるんだと、利己にぶちまけてしまいたかった。
だがオレは、ローリーを責め立てる気にもなれなかった。彼女は無関係なのだと、自分自身を言い聞かせて……今、この瞬間だけは、忘れてしまってもいいじゃないかと。何も見えない、盲人のフリをして。
「……ムリだ」
オレは葛藤の中で、絞るように吐く。記憶は、それを許してはくれない。結局、頭ごなしに否定してしまう。最低なクズ野郎だと思う。過去に今……色は違えども、そのどちらもが無下に出来ない誓いであって、代えがたい日々だったから。
「そんなの、やってみないとわからないよ」
訳も分からずに落ち込むオレへ、一筋の光が投げかけられる。彼女の声は、それこそ月桂樹の花のように淡く黄色い。ローリーは、この程度でへこたれる人間じゃなかった。
「なんで、そんな風に言いきれるんだよ……!」
オレは歯ぎしりをしながら、顔だけは見られないように銘一杯顎を引いて、それでも隠し切れない憎悪と共に言い放つ。正直、オレは思い違いをしていた。ローリーの事を、何も知らない拙い少女としか見ていなかった。
彼女は、この時ばかりはオレの顔を覗きこもうとはしなかった。そして、石碑に刻み込むように、一字一句を重々しく話す。
「この月桂樹にスイセンも、さい初から咲いていたわけじゃない。
はじめは一粒の小さな種だったの、それが芽吹いて……あきらめなかったから、ここまで立派に育ったんだよ」
「ははっ、バカみてーだな。
ならよ、お願いすれば誰だって空をとべるようになるっての?」
オレは小馬鹿にした口調で、笑いながら言い返す。それでも、心は一切笑えなかった。三角座りに膝を手繰り寄せて、情けなさから空いた穴へと顔を埋める。
尚もローリエは至って真剣に、ベージュの髪を揺らしながら、いつにも増して通る声で話す。
「うん。たとえ途中で、翼が燃え尽きてしまったとしても、向かうのを止めないなら……飛べるの。昔、おじい様が教えてくれたんだ……わたしも、そう信じてる」
「……翼までなくしちゃったなら、飛べるわけねーじゃんか」
「いいえ。なくしちゃったときにこそ、止まっちゃいけないの。
何も見えなくなったときこそ、未来へすすめる。もがいて、もっと、とおくに」
ローリエは指揮者がやるそれのように、空を片手でなぞりながら話す。はっきり言って、彼女の言うことは支離滅裂で、到底理解を示せるものではなかった……その筈だった。
同い年の彼女の事が、この瞬間はとても遠い存在に見えた。
オレには、ローリーという名の星を見上げることしか出来ない。並び立つことは出来ない。でも、日の光が当たるこの場所で、彼女の周りを回っていてもいいんじゃないかと、生まれて初めて心変わりした。
「やっぱり、ローリーはバカだよ。何言ってんのかわかんないし」
オレはようやく脚を解いて、伏せていた顔を上げる。
「……でも、バカみてーな話だけど……もうちょっとだけ、その先を聞きたい気がする」
ローリーの話は荒唐無稽で、理想を行き過ぎている。まったくの非現実……それなのに、ただ聖書を読むより、断然心地が良かった。この快楽に浸れるなら、それだけでも幸福だった。
「あはっ、これであなたもおばかの仲間入りね?」
満面の笑みで振り向き、あどけない声で話す。──ああ、オレも嬉しかったさ……オレは……このまま見えないフリをして、目を背けていたかっただけなんだ。そんなの、消えて無くなる筈もないじゃないか。
「ッ! うっせぇやい!」
照れているのを隠したいから、オレは強く言い放つ。しばらくすると町の方から、次の時課を告げる鐘の音が聞こえてくる。ローリエは何かを思い出したのか、伸ばしていた脚を急いで畳み立ち上がる。
「ははっ、でもごめんなさい。今から、お兄さまと庭の手入れのお手伝いをしなくちゃだから……
今日はここまで。つづきは次に話すねっ、また明日!」
ローリエは心底嬉しそうに片手を振りながら、速足で、木々の中へと姿を消す。
オレはこの日この瞬間から、過去を忘れようと決意する。
これよりローリーは、オレの新たな導きとなった。砕け散ってしまった、旧い陽に代わって。
それで終われば、どれほどまでに幸福だったのだろうか。
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