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第18話:街の噂と、異色の常連客

 アニャさんを皮切りに、市場の人々が「カフェ・エトワール」の常連客になり始めた。朝早くから働く彼らにとって、温かいコーヒーと甘いクッキーは、一日の始まりや仕事の合間の貴重な活力源となった。彼らの活気ある声と、魔法士たちの知的な会話が入り混じり、店の中は常に心地よい賑わいに包まれるようになった。俺、ケンジは、カウンターの中で忙しくも充実した日々を送っていた。


 ◆


 街では、俺のカフェがちょっとした噂になっていた。

「なんでも、あそこで飲むと疲れが取れるらしいぞ」

「変なローブの連中が通ってる店か?」

「聞いたか? あの『クロマメ』の香りが街中に漂うって」


 良い噂も、少し奇妙な噂も入り混じりながら、「カフェ・エトワール」の存在は、少しずつ街中に浸透していった。市場の人々が、仕事帰りに知り合いを連れてくることも増え、客層は徐々に広がっていった。最初は戸惑っていた人々も、一度コーヒーとクッキーを口にすれば、その味と香りの虜になるのだった。


 俺は、客一人ひとりの顔を覚え、彼らの好みや日常の些細な話を聞くようになった。市場の出来事、家族のこと、時には些細な悩み。前世では無機質だった「顧客データ」が、ここでは温かい「繋がり」になっていく。


 ◆


 そんなある日の午後、店に新たな客が訪れた。

 カラン、という鈴の音と共に店に入ってきたのは、これまでの客とは全く異なる雰囲気の男だった。


 全身に重厚な鎖帷子くさりかたびらを身に着け、腰には大剣を携えている。筋骨隆々とした体躯に、顔には深い傷跡が走り、無精髭を蓄えている。見るからに戦いをくぐり抜けてきたような、凄みのある男だ。街の自警団、あるいは冒険者といったところだろうか。


 男は、店の中を見回し、少し警戒したような目で俺を見た。その視線は、まるで獲物を探す猛獣のようだ。


「…ここで、奇妙な飲み物とやらが飲めると聞いたが、本当か?」

 低い、野太い声が店内に響いた。


 俺は少し身構えつつも、最高の笑顔で彼を迎えた。

「はい、そうでございます。この『コーヒー』は、この街にはない特別な飲み物です。よろしければ、一杯いかがでしょうか?」


 男は無言でカウンターに座った。重い剣が、椅子の木材に擦れる音がした。

 俺はいつも通り、丁寧に豆を挽き、お湯を注ぎ、香り高いコーヒーを淹れる。焼きたてのクッキーも添えて、男の前に差し出した。


 男は、コーヒーカップから立ち上る湯気を怪訝そうに眺めた。その顔には、甘い香りに戸惑っているような表情が浮かんでいる。彼は、まず一口、クッキーを口にした。


 サクリ、という音。

 次の瞬間、男の表情が、驚きと、信じられないものを見たかのように変化した。


「…これは…!」

 男は、その大きな目をさらに見開いた。


 そして、ゆっくりとコーヒーカップに手を伸ばし、一口。

 その瞬間、男の顔から、これまでの険しい表情がスッと消え去った。代わりに、深い安堵と、どこか遠い過去を懐かしむような、複雑な感情が浮かんだ。


 彼は目を閉じ、深く息を吐いた。

「…ああ…こんな…こんな味が…」


 男の目から、一筋の涙が流れ落ちた。

 俺は何も言わず、ただ静かに彼の隣に立っていた。


 男は、カップをゆっくりと置き、震える声で尋ねた。

「この…この飲み物には…何か名があるのか?」

「はい。『コーヒー』と申します」


 男は何度も頷き、そして、もう一口、コーヒーを味わった。その表情は、まるで何十年もの苦労が一瞬で洗い流されたかのようだった。


「…コーヒー。良い名だ…」

 男は、そう呟くと、静かにカップを空にした。


 その日から、その冒険者風の男は、毎日のように店を訪れるようになった。彼はいつも、店の隅の席に座り、黙ってコーヒーを飲み、クッキーを食べる。多くは語らないが、その表情はいつも穏やかで、店を出る時には、どこか満たされたように見えた。


 やがて、彼は自分のことを、ガゼルという名の元傭兵だと教えてくれた。彼は、この街に定住し、今は用心棒のような仕事をしているという。


「ここのコーヒーを飲むと、あの血生臭い日々を忘れられる…不思議と、心が落ち着くんだ」

 ガゼルは、ある日、そう俺に打ち明けた。


「カフェ・エトワール」は、魔法士たちの知的な好奇心を満たす場であり、市場の人々の憩いの場であり、そして、ガゼルのような戦士の心を癒す場所にもなっていた。


 俺のカフェは、様々な人々の心を繋ぎ、癒す場所になりつつあった。

 その光は、この異世界の街の、もっと深い場所へと届き始めているのかもしれない。

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