第五話 わんちゃんと呼ばせてください
「みんな。大したもんに、なりに行ってきます」
熊の形の乗り物で、熊園の柵の間を進む。ハンドルは軽く、教わったとおりに押して、引いて、あとはこう。
柵の上に、黒い熊が4頭、顎をのせて並んでいた。暗がりで、目だけが光っている。
一頭が、柵の隙間から前足を出した。車のお尻を、とん、と押す。
車が、少し前に進んだ。
「あ、ありがとうございます。助かります」
隣の一頭も、今度は横から押した。車がくるりと半回転して、さっきの熊と向かい合う。
【無課金席:これ、乗ってるのは主? 熊?】
【三年推し:主がお客さん。熊はたぶん、スタッフ】
【寝落ち番:いや、主が遊具で、熊がお客さん】
「私、お客さんですよね? 1時間分、払いましたよね?」
向かいの熊が、両方の前足で車をはたいた。
そこから先は、よく覚えていない。
右から押されて、戻ってきたところを、後ろから突かれる。ハンドルを握っていても、それが上なのか下なのか分からない。
空と柵が入れ替わって、そのたびに、違う熊の顔が正面に来る。
「善淵さん」
「ない」
「まだ何も聞いてないです」
「止める方法はない。規則もない。言っただろう」
「慧さん」
「熊園のご相談は、さっきの8,000冥銭で終わってますね」
「みんな、ちょっと、画面、止めて」
止まるわけがない。熊たちは順番を守って、一頭ずつ、楽しそうに私を押した。
最後の一押しで、車は熊園の出口の門を、横向きのままくぐり抜けた。
*
車を降りて、植え込みの陰で吐いた。
タオル地のリストバンドで、口元を拭う。地面が、まだ斜めに見える。
スマホの画面の端に、灰色の小さな文字が溜まっていた。
【寝落ち番:自分も酔ったから、いったん落ちる。主も休んでて】
――寝落ち番さんが退出しました。
その下にも、知らない名前の退出が、3つ、4つと続いている。
コメ欄は、しばらく何も流れなかった。
ベンチの背にもたれて空を見ると、満月が、さっきより西にある気がした。座っている間に動いたのかどうかは、分からない。
誰も喋らない配信は、思っていたより暗い。
【三年推し:主、生きてる?】
「生きてます。たぶん」
【寝落ち番:ただいま。まだ揺れてる】
「おかえりなさい」
声に出してから、少し笑った。
「動けるか」
善淵さんの声が、いつもより近くで聞こえた。
「動けません。あと3分ください」
「待つ」
本当に、待ってくれた。古銭の音もしない画面の向こうで、善淵さんは腕を組んで、私の顔色を見ていた。
*
立ち上がれるようになるまで、もう少しかかった。
次は、狼園だった。
迷っている時間はない。ショップで占いを一つ買うと、残高の表示がまた減った。
「今の、おいくらでした?」
「残高から引いてありますね」
慧さんの答えは、金額を言わなかった。
古銭の音。
「野性を刺激するな。中に、狼男がいるかもしれない」
「狼男って、満月の」
「満月の」
今夜は、満月だった。
金網の向こうに、狼が5、6頭。そのうち一頭が、こちらに鼻先を向けている。
野性を刺激しない方法。考えて、いちばん野性から遠い言葉を選んだ。
「……わんちゃん」
狼が、瞬きをした。
【三年推し:狼。それは狼】
【寝落ち番:狼だよ、主】
「わんちゃん」
狼は返事をしない。
「わんちゃん。お返事」
返事をしない。
私は顔を両手で覆った。
「わんちゃん、お返事してください。しくしく。わんちゃんにまで無視されたら、私、もうどうしたらいいか」
棒読みのまま、指の隙間から見る。
狼が、ものすごく嫌そうな顔をしていた。
「……わん」
【三年推し:言った】
【無課金席:言わせた】
「ありがとう、わんちゃん。いい子、いい子」
狼は、ふいっと顔をそむける。
返事をした狼の足もとに、白い足袋が片方だけ落ちていた。
狼は、それを後ろ足で隠すように座りなおした。
*
遠吠えが、群れの奥から上がった。
一頭、また一頭と、ほかの狼が金網に寄ってくる。わんと言った一頭だけが、後ろへ下がっていった。
「善淵さん。野性、刺激してないですよね」
「あんたが、餌の格好で前を通ってる」
「じゃあ、通りません。座ります」
その場にしゃがみこむ。
「座っても同じだ」
金網が、がしゃりと鳴った。
網の目から、爪の生えた前足が一本、私の顔の前まで伸びてきて止まった。
私は後ろへ這って、金網から離れた。
【三年推し:下がって、もっと】
「何か、お札をください」
「物寄せの札。欲しい物を言えば、出る」
画面にお札が出る。残高が、また減る。
「何でも出るんですか」
「銃と刃物は出ない。規制がある」
「あの世にも、規制」
ボクシンググローブをはめて狼と殴り合う自分を一秒だけ想像して、やめた。
狼の気をそらせるもの。狼が、私より食べたいもの。
「羊は出ますか」
【無課金席:あるよ、普通に】
「言えば出る」
明度を最大にして、お札を金網へ向ける。
「羊が一匹。羊が二匹。羊が三匹……」
暗がりの奥で、めえ、と鳴き声がした。
白いかたまりが一つ、二つと、狼園の芝生に転がり出る。狼の首が、いっせいにそちらを向いた。
「羊が四匹。羊が、五匹」
「もういい。走れ」
「羊が六匹」
「走れ」
【寝落ち番:数えてたら、眠くなってきた】
私は数えるのをやめて、走った。
*
出口の柵につかまって、息を整える。
「狼男、出てこなかったですね」
「出てましたね。『わん』って言ったのが、狼男ですね」
慧さんが、あっさり言った。
「……あれが」
人なら、確かに返事くらいはする。
私は狼園のほうへ、小さく頭を下げた。
「わんちゃん、さっきはすみませんでした。お名前、知らなかったので」
「謝るところ、そこじゃないと思いますね」
善淵さんが、園内地図を画面に映した。
「あと一つ、エリアを抜ければ大通りに出る。どこを通るかは、あんたが選べ」
地図の上で、まだ通っていないエリアは3つ。ガチョウ、兎、アライグマ。
ガチョウは追いかけてきそうで、アライグマは噛みそうだ。どちらも、今の脚で相手にしたくない。
「善淵さんは、どこがいいと思います?」
「あんたが選べと言った」
「ですよね」
【三年推し:主の好きなとこでいい】
「兎にします。あの子たち、臆病ですから」




