第四話 六両分のお客様
飴が溶けきるころには、腕が上がるようになっていた。
ベンチから立って、観光列車の運転席をのぞきこむ。ハンドルとレバーが二本、屋根の上には色あせた動物のイラスト。
「善淵さん。これ、運転していいですか」
「乗るのは構わない。あんたの金が通じないだけだ」
「じゃあ、払わなければいいんですね」
善淵さんは、額に指を当てた。
「……今は、誰も見てない」
【三年推し:登録者100万人の旅行系、無賃乗車】
【無課金席:切り抜かれるやつ】
運転席に座ると、鍵は挿さったままだった。
レバーを倒す。小さな機関車が、のろのろ動き出した。
二つ目のカーブで、急に重くなった。
アクセルを踏んでも、坂でもない道で速度が落ちていく。
「善淵さん、なんか重いです」
「客が乗ってきた」
「何人くらいですか」
「6両、満席だ」
後ろは見なかった。首筋が、すうっと冷えていく。
運転席の横の小物入れに、さっきまでなかった紙の束がのっていた。
6つの銭の模様が刷られた、見たことのないお札。輪ゴムでくくってあって、ずしりと厚い。
「運賃だ。受け取れ」
「受け取らないって選択肢は」
「冥銭の受け取り拒否は、こっちじゃ違法だ」
「こっちって、どっちですか」
返事はなかった。札束を鞄に押しこむと、ファスナーが二回引っかかった。
「受け取った以上、ちゃんと運べ。運転中にスマホを見るな。キリンを轢くな。客は神様だ」
【寝落ち番:安全運転で】
スマホを、胸ポケットに入れた。画面が見えなくなると、急に、音だけの世界になる。
*
列車は、キリンの通路に入った。
高い柵の上で、キリンたちが首を伸ばして葉を食べている。見上げるほどの高さで、口だけがもぐもぐ動いていた。
道の真ん中に、何か大きなものが横たわっていた。
キリンが一頭、寝転がっている。長い首を地面に投げ出して、片目だけでこちらを見ていた。
「当たり屋……?」
キリンにも、いるらしい。
背中の客車が、ざわついた。
「構うな、轢いちまえ」
「お客様は神様だぞ。言うことを聞け」
私はハンドルを切った。道の端ぎりぎりを、投げ出された脚をよけて回りこむ。
後ろの空気が変わった。生臭い、鉄の匂いが、背中から流れてくる。
「轢けって言ってるだろうが」
「聞こえてんのか、運転手」
ブレーキを踏んだ。両手でハンドルを握ったまま、私は声を作った。
「すみません。すみません。轢けません。妹が、車にはねられて亡くなっていて。私が、目を離したせいで。しくしく」
棒読みだった。自分でも分かる。
それでも、後ろが静かになった。
「……悪かった。もう一回死んで詫びるべきだな」
誰かが、ぼそりと言った。
「お嬢さん、もう謝らなくていい」
しわがれた声が、すぐ後ろの席からした。
「謝るのは、あっちのほうじゃ。わしらが寄ってたかって、若い人を困らせた」
「いえ、私が、運転が下手で」
「詫びのしるしに、わしの首を外して預けよう。ボールにでもしてくれ」
ハンドルの上で、指が止まった。
「いりません」
「……そうか」
それきり、後ろの客車は誰も何も言わなかった。
私はブレーキを戻す。通路を抜けるまで、一度もスマホに触らなかった。
キリンの柵が途切れたところで、しわがれた声がもう一度だけした。
「わしは、ちゃんと運んでもらえれば十分じゃ。ここまで乗せてもらった。ありがとう」
列車が、ふっと軽くなった。
アクセルの手応えが、乗る前に戻っている。6両分の重さが、まとめてどこかへ降りていった。
胸ポケットから、善淵さんの声。
「降りた」
列車を止めて、スマホを出す。運転していた間のコメントが、まとめて流れてきた。
【三年推し:主、無事?】
【無課金席:妹の話、初耳なんだけど】
【寝落ち番:泣き方、管理人さんのときと同じ】
【三年推し:おじいさん、いい人だった】
【無課金席:で、運賃っていくらあったの】
「数えてないです。数えたくないです」
*
列車を降りると、すぐ先がマレーグマ園だった。
まだ先は長いから、もう一台、乗り物が欲しい。見回すと、切符売り場の窓口に明かりがついていた。
窓の向こうに、何かがいる。輪郭のはっきりしない、黒くて丸いもの。
私は来た道を、半歩戻った。
「こっち、空いてるよ。乗っていかない?」
窓口から飛び出してきたのは、マレーグマだった。後ろ足で立って前足を振る、その胸に黄色い三日月の模様。
人が着ぐるみを着ているにしては、首の回り方が自然すぎた。
「大人は30分で5,000冥銭。1時間なら10,000冥銭だよ」
「高くないですか」
「相場だよ」
あの世の相場を、私は知らない。
台の上の薄黄色の紙コップを、熊さんは前足で横へよけた。差し出された乗車券に、「30分 5,000冥銭」と印刷してある。
「1時間でお願いします、熊さん」
鞄の札束から、言われた額を数えて渡す。熊さんは丁寧に二回数えて、うなずいた。
裏手から出てきたのは、デパートの屋上にありそうな、熊の形の小さな乗り物だった。
【三年推し:屋上の、小銭入れると動くやつ】
【寝落ち番:あれで1時間は、確実に酔う】
【無課金席:あれ昔、3分100円だった。1時間だと2,000円。冥銭のほうが高い】
「動かし方は、僕が教えるから。ここを押して、こっちを引いて、あとはこう」
「こう」
「そう。上手」
「ありがとうございます。熊さん、教えるのうまいですね」
「よく言われる」
熊さんは最後に、奥の暗がりを前足で指した。
「向こうの熊は、僕みたいにはいかないよ。気をつけてね」
*
「善淵さん。この先、熊園なんですけど」
答えたのは、しばらく声のしなかった慧さんだった。
「返金の人、相談料8,000冥銭ですね」
「今までどこ行ってたんですか。声に恨みがこもってますけど」
「慧は、札を描かされてた。100枚」
善淵さんが淡々と言うと、ショップの画面が切り替わった。新作護符100枚入荷、右上の欄には今夜の売上。
100万円。
【無課金席:一晩で100万】
【三年推し:主が猿と頭下げてる間に】
【寝落ち番:主、顔色やばい】
画面の数字から目を離して、8,000冥銭を払う。
「熊園の規則は」
「ない」
「ないんですか」
「ない」
慧さんが、画面の端で吹き出した。
「出られたら、大したもんですね!」




