第十二章:それぞれの事情
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
都にある陸軍省庁舎の執務室で、書類の山に埋もれた中年の事務官は静かに胃痛と戦っていた。
机の上には《要注意》の赤い判が押された薄い書類が一枚ある。
そこに書かれた文字の始まりはこうだ。
「国内における民間飛行実験に関する現況報告_件名:からすヶ丘飛行研究所」。
事務官は溜め息をついた。
二年前の憔悴の記憶が蘇ってくるようだ。
あの馬鹿馬鹿しいアフリカでの戦争で、前線の兵士達のためにしてやれることを考え続けた日々。
見通しの利かない大地を進み、丘の向こうに何がいるかもわからないまま前進しなければならない彼らの恐怖はどれほどのものだったろうか。
その点で、気球を上げての空からの観測は悪くない成果を挙げていた。
だが移動できない良い的だったこともまた事実だ。
有用であることは証明されたが、同時に限界も露呈していた。
もしあの時に、空の上を自在に動けるような機械があったなら──戦中にも、戦後にも、事務官はそのことを何度も考えた。
自分だけではない、省内には同じ考えに至る人間が月ごとに増えていく。
そこへあの噂が入って来た。
とある田舎の自転車屋兄弟が、人間を乗せた機械で59秒にわたって空を飛んだのだという。
デマであることは当然として、問題なのはそんなデマが出回り始めた世相にある。
技術が日に日に進歩していく。
もはや世界は有人動力飛行の可能性を夢物語として否定できなくなりつつある。
新聞記者どもに便宜を図って足を引っ張らせるのも、そろそろ限界が近いかもしれない。
結局は時間の問題だ。
いざその時がくれば、その瞬間から世界は変わってしまうだろう。
今のところは公式には “未確認” ということにしてあるが、非公式には──あの噂を笑い飛ばせる人間は、もう省内にはほとんどいない。
そして今、手元の書類が告げているのだ。
この国の片田舎で民間人がそれをやろうとしているぞ、と。
添付されたゴシップ紙の切り抜きには「からすヶ丘の空飛ぶ実験室」と書かれている。
大仰な見出しだが、内容は馬鹿にできたものではない。
資産家が私財を投じて研究所を建て、発動機を調達し、試作機を作っている。
操縦するのは十四歳の娘だと?
まともに受け取ればアホの道楽だが、この報告書をまとめた部下は「技術水準は至って現実的」と注記していた。
問題点は二つある。
一つは技術の流出だ。
もしも飛行機械が実現してしまえば国家の安全保障は脅威に晒されることになる。
民間人が勝手に作って勝手に飛ばし、まさか勝手に他国へ売るなどという事態だけは避けねばならない。
もう一つは前例化だ。
これを放置すれば、あちらこちらで同じ真似をする連中が出てくるに決まっている。
民間飛行実験の乱立など、国内には事故を、国境には混乱しか産まないだろう。
この報告書は極めて重大に違いない。
どんなふうに扱うかで予測不能の影響が出かねない。
だから自分は触れたくない。
自分の上司も、そのまた上司も同じだろう。
なぜなら判断した者が責任を負うことになるからだ。
だから結局このようになる。
陸軍省から内務省へ「ご報告申し上げる」という丁重な文書が一枚飛ぶ。
内務省から州議会の当局へ「適切なご対応を賜りたく」という丁重な文書がもう一枚飛ぶ。
州から当該の都市行政地区議会へ「安全確認にご協力を」という丁重な文書がさらにもう一枚。
そして最後に、からすヶ丘とかいう聞いたこともない町の議長がため息をつく──それで終わりだ。
三枚の紙切れで国を守れる。
誰も積極的には動かない。
命令ではなく要請であり、強制ではなく協力のお願い。
しかしそれを無碍にできるような人間は官僚組織の中にはいない。
ペンを手に取った事務官は、抽出しから取り出した封筒に精密極まりない筆運びで署名を入れた。
...よろしい、これでこの件は自分の手を離れた。
封筒に書類を仕舞った事務官は上着を手に取り昼食に出たが、廊下を歩きながらふと思う。
この国で最初に空を飛んで世界をひっくり返すのが田舎の小娘かもしれぬとは、一体どんな冗談だ。
自分が一介の町人だったならば、笑えるジョークになるのだろうが──。
*****
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
からすヶ丘の行政地区議会議長は、自分の机の上に置かれた一枚の通達を眺めてもう二時間だ。
差出人は州議会行政局。
その向こうには内務省がいて、その影にもまだ何かがいる気配だ。
文面はあまりにも柔らかかった。
明確な指示がどこにも書かれていないのだ。
代わりにあるのは「ご確認」「ご協力」「お願い」「適切に」──そんな言葉ばかりだった。
これでは何をやっても自分の意志で動いた形になってしまう。
町の住人たちは自分のことを物分かりのいい議長だと思っているが、実際にはただお人好しなだけだ。
だから、できることなら大した事件もない静かな町であってくれれば一番よかった。
なのにあの旦那がなぁ.....。
彼のことはよく知っている。
まだ自分が駆け出しだった頃から付き合いのある名家だ。
「犬会話なんとか」や「電撃式どうのこうの」といった意味のわからない投資に手を出した時も、苦笑いしながら見守っていた。
からすヶ丘はそれを許す町だった。
少しばかり変わった人間がいても、害がなければ放っておいた。
害があっても、まぁ、大した害でなければ放っておく。
しかしさすがにあの “飛行機” というやつは、放っておいては不味かったのだと遅蒔きながらに思い知った。
都から見物人が来て、ゴシップ紙に載り、中央の目に留まってしまったらしい。
窓の外に目を向ければ、ここからも丘の研究所がよく見える。
時折、鉄の暴れる音が風に乗って降りてくる。
あのうるさい唸り声は最近は一段と太くなった。
最初はおもちゃの延長だと思っていたが、この半年で町の職人たちも巻き込んで、どうにも冗談では済まない規模になっている。
──あれを、止めろ──
通達の中身は、要約すればそういうことだ。
実際には止めろとは書かれていない。
「安全性の確認にご協力をお願い申し上げる」と書いてある。
しかし自分には止める権限はない。
止める根拠になる法令を知らないし、通達にも明記されていない。
ただ “お願い” されているだけだ。
だがそれを無視した場合に何が起きるかは、書かれていないがわかっている。
次はもっと強い書き方で来る。
そしてその次は、もう言葉だけでは済まなくなるのだろう。
議長はもう一度通達を読み返して溜め息をついた。
仮にあの旦那が本当に狂人なら話は簡単だ。
住民の安全を守るために危険な施設を停止した、というだけで済む。
だが実際のところ、旦那は確かに変人なのだがまったく頭は冴えていた。
しかも研究所はこの半年の間に一度も事故を起こしていない。
怪我人もゼロ。
止める理由が見つからない。
なのに止めなければならない。
それがどうにも嫌だった。
お嬢さんのことも気にかかる。
あの日、町での騒ぎを聞いて覗きに行ってみれば、短い髪の娘がけろりとした顔で歩いていた。
あれを見て「父親だけでなくこの子もか」と思ったし、同時に「なんて強い子だろう」とも思った。
もし自分が公職でなかったら、あの親娘を応援していたかもしれない。
しかし議長という立場は個人の都合を許さない。
この小さな町を守るために、時には好ましくない役目も引き受けなければならない。
嫌われ者になることを恐れていては町は回らない。
「ごめんよ旦那...。」
議長はペンを取り、通知の草稿を書き始めた。
言葉を選んで、こちらもあくまで “お願い” でいく。
期限を5日としておこう。
5日もあれば、あの旦那が何か手を打つ時間にはなるだろう──1日で済む話にわざわざ5日を用意するのが自分なりの精一杯だ。
ペンを置いて、出来上がった通知を読み返してみる。
丁重で、正確で、どこにも瑕疵はない。
完璧な文書だ。
誰かの夢を完璧に終わらせるための.....。
どうも自分は、この仕事には向いていないのかもしれない。
*****
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
いや、どうしてと言えば、それは間違いなく自分のせいであるのだが。
あの時あの場で叫んだことは、実は全てがその場での思いつきだった。
即興演説で気が昂ってその流れのまま、つい劇的なことまで叫んでしまった。
あるいはあれが理性の下で眠っていた自分の本音だったんだろうか。
もう少し早い段階で、もう少し落ち着いて、もう少し他の言い方をしていたら...。
あるいはあの朝に、いっそ出かけていなければ.....。
男は留置所の固い寝台に座り込んで延々と考えを巡らせていた。
だが結局は机上の空論でしかない。
今ここにいるという事実こそが、ああいう場で我慢ができない人間だという証明だった。
格子窓から斜めに差し込む月の光が床を白く照らしている。
留置所での二回目の夜を迎えるが、初日と同じく寝付けなかった。
切り取られた風景の中には丘の稜線と研究所が見えている。
あの研究所は、あそこでの飛行機づくりはこれからどうなってしまうんだろう。
しばらく見つめていたところ、男はあることに気がついた。
丘の稜線を何かが動いている───どうやらそれは人影のようだ。
しばらく研究所の周りをうろついていたが、やがて中へと入ったらしい。
中で誰かが何かをやろうとしている...。
真っ先に疑うべきは州か軍の手先だろう。
研究所を封鎖し、資料を押収し、飛行機を解体するつもりかもしれない。
しかし、それなら深夜にこそこそとやることはないはずだ。
正々堂々と日中にやればいい。
となれば、人目を憚って夜中に研究所へ忍び込む人間とは何者か?
──そうか、やる気か。
男の顔に笑みが浮かんだ。
あの子は黙って壊されるのを待つような人間ではないだろうと、その一点には確信がある。
中で何をしているのだろう。
もしかして、“サプライズ” がもう届いていたのだろうか。
あれが間に合っていれば──いや、たとえ間に合わなくてもあの子はきっとやるのだろう。
自分だって同じ状況なら同じことをするはずだ。
夜はゆっくりと更けていった。
遠くで犬が吠えている。
男は寝台に座り込み、格子窓の向こうの夜をじっと見つめ続けていた。
あちらに向かって送れるものなど今の自分には何もない。
手も届かない。
声も届かない。
まったく──あの時もう少しまともな言い方ができていれば、自分もあそこに一緒に居られたかもしれないのにな。
決してその瞬間を見逃すまいと、男は一睡もせずに夜明けを待っていた。
*****
本当に、どうしてこんなことになってしまったんだろう。
元夫が逮捕されたという知らせを受けた。
一日遅れの情報だった。
あの人が法に触れずに生きてこられたこと自体が奇跡のようなものだけど、しかし逮捕の理由が爆発物法違反とは──さすがに目眩を覚えた。
あの人は何も変わっていないのか。
夜が明けたらすぐにでも娘のもとに行こうと思っていた。
だが寝付けずに寝台の上で天井を見つめているうちに、じっとしていることに耐えられなくなってしまった。
結局は起き出して準備を整え、こうして夜明けも前に馬車を走らせている。
揺れる車台の中で少しだけうたた寝できたが、目を閉じる前に最後に考えたのは娘からの手紙のことだった。
あの子は私が遺産のことを諦めつつあると思っている。
とんだ思い違いだ。
確かに諦めかけてはいるが、それは遺産ではなく娘の将来のことだ。
なんとか真っ当な娘に育てようと頑張ってはみた。
教養、裁縫、料理、社交の心得、礼儀作法。
女としてまともに生きていくために必要なことを一つ一つ教えてきたつもりだ。
だけどあの子の空狂いだけは父親譲りの生まれつきだ。
あれは後からどうにかできるものではなかった。
二歳の頃から、空を見上げるたびにあの目をしていた。
鳥を追って庭を走り回り、木に登り、屋根に登り、何度落ちても懲りなかった。
あれは躾の問題ではない──呪いだ。
あの父親から受け継いだ、どうしようもない血の呪い。
それでも母として最後まで抵抗はした。
「事故を起こしてきます」などと言って意気揚々とからすヶ丘に向かう娘を止めなかったのは、別の意味で信じていたからだ。
きっとこれで目が覚めると。
飛行なんておとぎ話───現実の壁にぶつかって、自分の限界を知って、諦めて帰ってくるだろうと。
そうしたらその時は何も言わずに迎えてあげよう。
お茶を淹れて、痛んだ髪を梳いてあげ、泣きたいだけ泣かせてやろう。
それでひと段落するんじゃないかと、そう思っていた。
なのに何ヶ月経っても帰ってこない。
相変わらずの拙い嘘で塗りたくった二重底の手紙を寄越すばかりだ。
私を騙すつもりで書いているのだろうけど、行間から滲み出る興奮と充実をちっとも隠しきれていない。
あの子は楽しんでいるのだ、本気で──心から。
それが何よりも怖かった。
馬車に揺られて目が覚めると、気づいた時には外の景色は見覚えのあるものになっていた。
かつて暮らしたからすヶ丘。
今はちょうど夜明け前の頃だった。
小さな町で、目立つものといえば教会の尖塔ぐらい。
数年を過ごした町一番の屋敷でさえも景観に溶け込むほど地味な町。
どちらかといえば、町の北にある丘のほうが存在感があるかもしれない。
その丘の上に、見慣れない建物がある。
妙に大きな納屋のような印象だけど、あれが件の研究所か。
父娘揃っていったい何をやっているんだか。
──その時、遠雷が聞こえた。
空は雲一つなく晴れているのにだ。
さらに不思議なことに、その雷は途切れることなく鳴り続けている。
低く鋭い空気の唸りが頭上から降りてきて、馬車の床板まで震えていた。
御者が馬を止める。
町角の犬が怯えている。
この音は丘の方角から聞こえてくるようだ。
今、この町で眠っていなかった全ての者が丘を見ていた。
.....その丘の建物の影から何かが姿を現した。
あれは、なに?
薄明の空に刻まれたそのシルエットは、まるで大きな鳥のような───
***** 続く *****




