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からすヶ丘小史  作者: 煙亭しっぽ


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最終章:グッド・モーニング

産声だ。

私の後ろで飛行機の心臓が産声を上げている。

前の発動機よりは音も振動も控えめだった。

だけどもっと鋭くて、密度が高くて、はるかに挑戦的だ──。


さっきまで孵化の直前だった冷たい鉄の塊が、今は世界を揺らしていた。

威嚇するような唸りに全身が震える。

体の中まで入り込んで、私の心臓と競い合うように響き合っている。


一瞬遅れて風が巻き始めた。

窓を覆っていた布が揺れて、固定の甘かった何枚かは飛んでいってしまった。

あるか無いかの夜明けの光が差し込んで、ほんの少しだけ景色が変わる。

何もかも動き続けているはずなのに、その一瞬だけ世界が静止したように見えた。


青年がロックを外してやると、飛行機を乗せた台車は自らの力でじりじりと前へと進み始める。

空に向かって開かれた研究所の扉へ向かって一歩、また一歩と近づいていく。

出力はまだ低いまま。

慎重に、ゆっくりと上げていこう。

発動機が温まるまでの間にハンドルを引いて舵翼の効き方を確かめてみると、軽くなったせいだろうか、いつもより少し “機嫌がいい” ように感じられた。


研究所の壁の向こうから飛行機とは別の音が聞こえる──これは警察のサイレンだ。

想定よりも対応が早い。

ここまで来るのにどれぐらいかかるだろうか。

5分ぐらい?

いや、路上は無人も同然だから飛ばしに飛ばして3分ちょっとか。


「────! ──────────っ! ──!」


青年が何かを叫んでいる、多分警察のことについてだろう。

だけどね──。


「あなた! 声に()がないのよ! なーんにも聞こえないわ!」


──私の声は届いたようだ。

青年は困り顔でおろおろしてから後ろの方に駆けて行き、尾翼を押して機体を前に進ませようと頑張っている。

少しだけ出力を上げて手伝ってあげよう。

発動機の回転音を一段高く研究所の壁に反射させながら、飛行機はなおもゆっくりと正面の扉を抜けていく。





扉の外には夜と朝が溶け合う幻想が広がっていた。

一番明るい東の方を振り返ると、一羽の鳥が旋回しているのが見えた。

朝の空気を確かめるように翼をゆっくりと傾けている。

地平線からは、今まさに太陽が顔を覗かせようとする寸前だった。

赤い光の先触れが綺麗だ。


警察のサイレンが段々と近づいてくるのがわかる。

左手の町の方を見れば、あちこちの家々が明かりが灯し始めていた。

起こしてしまってごめんなさい?


「町のみなさーん!! おはよぉーございまぁーす!!」


飛行機に負けないように、私からも力いっぱいのモーニングコールを届けよう。

発動機の出力も更にもう一段階上げてやる。

目の前の取り付けられた風速計の目盛りは時速7マイルを超えつつある。

ある程度の目安でいいやと思って付けたものだけど、これ、どこまで当てにできるんだろう?


尾翼を押していた青年は飛行機から離れて走り出しており、坂の端でかがみ込んで懐から出した時計を構えた。

飛行時間を測る気だ。

今は時速およそ10マイル。


出力を小刻みに引き上げながら青年の脇を通り抜けて坂の入り口へ突入して行く。

風速計の目盛りはそこから一気に加速を始めた。

重力にプロペラの推力が加わって、目盛りはあっという間に時速16──もう17マイルだ。

風を受けた翼がぱんと張ってフレームが軋む音が聞こえた。

顔にぶつかる風の音もばたばたと揺れるような音から、耳を切り付けるような鋭い音へと変わっていく。


気づいた時には時速はとっくに20の目盛りを超えていた。

下り坂をまだ半分駆けただけなのに、とても速くて──流石に少し怖い。

初めて経験する速度域に、これまでの試験では感じたことのない危機感を覚えた。

それを振り切るように出力調整ダイヤルを限界まで回し切る。

発動機とプロペラの回転音に絞り出すような高音が混ざり始め、視界の景色が草も土もレールの継ぎ目も、吹き飛ぶように流れていく。


坂を下り切って水平区間に入ったけれど、加速はさらに続いている。

今は時速何マイル?

風速計の目盛りは右端の方に見えている──痛いほどに風が強くて目を開けているのも難しい。


レールの終端は近いはずだ。

このまままっすぐ走り切れば、地面を掘り下げたレール端からそのまま空中に放り出されることになる。


───でも、地面が途切れるから仕方なく飛ぶ鳥なんて居たかな...?


翼の震え方が変わった気がした。

揚力が飽和している。

速度は、ただ速い...それだけしかわからない。

レールの終わり待つことなく、私は意識せずハンドルを引いていた。



**



一瞬だけ感じた体の重さ。

そしてそれに続いた喪失感。

背中を通って自分の重さが抜け落ちたように感じられた。


思わず自分の存在を確かめたくなって、腕から腰へ、脚へ、爪先へと視線を滑らせて行く。

その視線の先で、台車だけがレールの端から飛び出して地面に突き刺さるのが見えた。

私は、レールの途切れた丘の上を飛んでいる...。


風速計に目をやると、目盛りはじりじりと数値を更新し続けていた。

顔を撫でて吹き抜けていく風は、地上のそれとは違って不思議と柔らかい。

視界が広い。

上から見下ろす丘の草原には、すでにところどころに朝陽の欠片が落ちている。


高度は11フィートぐらいだろうか。

たったそれだけの差だというのに、見える全てがまるで違う。

この感覚はなんだろう。

見える世界だけじゃない、まるで自分が人間以外の別の何かに変わったような。

飛ぶって、こういうこと──。


そう理解した瞬間に頭の中を何かが突き抜けていった。

ハンドルを握る両手に自分でも信じられないほどの力が入る。

空中に固定された両脚が、地面を踏み鳴らしたい衝動で暴れそうだ。

ベルトで固定された体の中から何かが湧き上がってくる。


歓喜が声になって爆発しかけた寸前に、刺すような光と熱を感じた。



***



頭の後ろでの轟音と衝撃。

何かが高速で体の脇を掠めていった感覚がある。

耳鳴りと焦点の不在。

自分の状態がわからない。

じゃあ機体は?


力一杯首を捻ると、隙間から火を漏らす発動機が見えた──あちこちが黒い煤に塗れた疲れた姿。

バックファイア?

わからない。

ただ間違いなく止まっている。


遅れて右主翼とプロペラの破損に気づいた。

右翼につながっていたチェーンもない。

今の爆発で断裂して、主翼を巻き込んでいったのか。

翼の表面が大きく裂けて中の翼骨も折れている。

プロペラは目で追えるほどの回転数に落ちていた。


速度が下がってる。

右翼が空気抵抗になって引きずられている。

進行方向はそのままに、機首が右へと滑っていく──風の受け方が変わる。

こんな飛び方は想定にない。


考える余裕もないままに横からの向かい風で左の上反翼が跳ね上げられた。

世界が斜めに傾く。

下がった右翼が地面に──反射的に両ハンドルを引いて全力で機首を上げる。

機体ごと右翼を地面から引き離す斜め上昇。

だけど今度は振り回されるような急激な右旋回へ。

レールの延長線とはまるで違う方向に向かって弧を描く。

腕が重い。

体がシートに沈み込む。

飛行機ってこんな動きができるものなの?


一瞬だけ高度が上がった──とても高い。

だけど速度が無くなりかけている。

世界が傾いたまま旋回しながら下がっていく。

左のハンドルだけを全力で引いた。

翼が応えようとして骨格が軋んだのが聞こえた。


だけど足りない。

姿勢が戻らない。

下降も止まらない。

私は何秒飛んだんだろう?

わからない。

あとどれだけ.....


ゆっくりと地面が近づいてくる。

視線の先で翼の先端が丘に触れた。

機体が滑るようにスピンして、いろんな音が───






****






──暗い


───風がない


飛んでるにしてはずいぶん静かだ.....


その違和感に重たい瞼を持ち上げると、最初に見えたのは大きく歪んだ鉄の格子。

そしてその向こうの青白い空。

朝日はまだ半分も顔を覗かせていないから、眠っていたのは数秒程度か。

世界は相変わらず傾いていて、自分が横倒しの姿勢になっていると理解するのに少し時間がかかった。


遠くで何かが燃えている.....脱落した発動機かな。

たまごは潰れかけ、尾翼に伸びる梁は折れ曲がっている。

左の翼は根本で折れて、かろうじてつながったまま頭上に寄りかかっていた。


体を確かめてみると、左肩が重たい痛みを訴えている。

右腕が少し熱い。

でも指は動く。

首も回るし足も動いた。

私は生きている。

ただ、体にうまく力が入らない──頭がぼんやりとしてる。


はっきりしない意識の中で、体を縛るベルトを一つずつ外していく。

地面に両手をついて膝をつくと、朝露で濡れた草原の冷たさが手のひらに沁みた。

歪んだたまごの隙間から這う様にして体を引きずり出していく。

シートに座っていただけにしては、体がとても疲れていた。


その時、何かの視線に気がついた。

横を見ると、そこに一羽のからすがいた。

まだ若い。

黒い羽が朝の光を受けて紫や深い緑色に光っていて、なかなかの美形だ。

もしかして、飛び立つ前に東の空を旋回していたあの鳥だろうか?


「あなた.....見ていてくれたの──?」


人間を怖がる気配がまるでない。

それどころか、こちらを見る丸い目はむしろ凛としている。


「ねぇ...私、飛んだのよ.....少しだけだったけどね...だけど本当に───」


からすは私の言葉を無視した。

私から視線を外して壊れた飛行機に近づいて行く。

ぴょんと跳ぶのでなく、あの大儀そうな歩き方でゆっくりと。

そして折れた翼やちぎれたワイヤーを一つ一つじっくりと眺めている──あたかも飛行機の仕組みについて真面目に考えてるみたいに。

あっちを見て、こっちを見て、首を傾げて、最後に鉄骨を嘴の先でカツンと鳴らす。


...それから真っすぐこちらに向き直ると、嘴をくいっと持ち上げた。

挑むように、そのままじっと私を見ている──



調子に乗るな



──?

幻聴が聞こえた。

からすが何を伝えたかったのかなんて、本当はわかるはずがない。

でもその眼差しは、私にはそう伝わった。

まだ揺れている頭の中にはっきりと響いた。

わざわざ地面に降りてきて、こっちの目線に合わせてまで、それだけのことを伝えに来たのか。


「..........。」


なんだか私は急に恥ずかしくなってしまった。

私は、いったい何になったつもりでいたんだろう。

からすを真似て、たった数秒だけ飛んで、それから落ちた。

何百年も前から空で生きてきた大先輩の目の前で──。


顔が熱かった。

どんくさい奴だと思われている。

きっと耳のあたりまで赤くなっているんだ。

からすを相手に赤面している。

自分でも意味がわからないけど、恥ずかしいものは恥ずかしかった。


何かを言おうと口を開いたけど、言葉が何も思いつかない。

どんな顔をすればいいかもわからない私をよそに、からすはふらりと背中を見せた。

手本を見せてやる、そう言わんばかりに身振りをひとつ。

助走もなく、力みもなく、羽を一度だけ柔らかく打って、ふわりと空へ上がっていった。


...なんなの、その飛び方は。

驕りもない。

衒いもない。

きっとあれこれと考えもしない。

ただ風を掴んで、当たり前のように飛んでいる。


ずるい。

ずるすぎる。

そんなに簡単に飛ぶなんて。

立ちあがろうとしたけれども膝に力が入らない。


草の上にへたり込んだまま、飛び去るからすをずっと目で追っていた。

ゆったりと旋回してから町の方角へ遠ざかっていく。

嫌なやつだったな。

だけど、飛んでいく姿はやっぱり綺麗だった。

軽々と──あの軽さが本物の正義だ。


悔しいけれど、まだ全然敵わなかった。

たった数秒しか飛べなかった。

でもその数秒間だけは私も空の一部だった。

それだけは本当のことだ。


からすの姿は空へと高く消えて行く。

実際に飛んだ後になると、到底届きそうにない──そんな風にも思えてしまう。

なのにまったく諦める気にはなれないでいる。

いつか絶対、私もそこまで登っていってやるからね、と。


青年がこちらへ駆けつけてくる。

何か叫んでいるけど、何を言ってるのかはよく聞き取れない。

サイレンの音も近づいてきた。

朝の光は丘の全体に広がっていて、草の上には長い影が幾つも幾つも伸びていた。


もういちど空を見上げてみても、もう何も見えない。

からすヶ丘の空は何事もなかったかのように澄み渡っていた。


なんだろう。

嬉しくて、恥ずかしくて、悔しくて、とても清々しかった。



***** A Short History of Crow Hill /



20xx年。

からすヶ丘の駅前通りには、百年前と同じ石畳がまだ残っている。

角のパン屋は電気竈を導入したし、向かいの青物屋はいつの間にか有機野菜の専門店になっていたが、通りを吹き抜ける風だけは昔と変わる所がない──古い住人たちはみなそう言う。


その町が今、降って湧いた企業誘致の話で持ちきりだ。

二度の大戦をも災禍なくやり過ごしてきた田舎町に、都からでっかい企業が乗り込んでくる。


企業の名前はCrow Hill Laboratoryという。

戦後間もなく立ち上げられた機械メーカーだが、15年ほど前からは航空機用の飛行制御システム開発で頭角を現していた。

世間的な知名度はないが、業界では名の通った存在らしい。


それが今度は、飛行機そのものを作るんだとか。

完全電動の小型飛行機メーカーとして新規事業を立ち上げて、その研究開発の本部拠点をからすヶ丘に置こうとしている。


「迷惑な話だ。」

「同じ名前の町なんて他にいくらだってあるだろうに。」

「よりにもよって、なんで()()からすヶ丘なんだ。」


町の住人たちの態度は好意的とは言い難かった。

働き口は地元で十分足りているし、住人たちも落ち着いた現状を気に入っていた。

急な人口流入で町の暮らしがどう変わるのか、みんなそれが不安だった。


週末に開かれた「第一回 からすヶ丘開発計画に関する地域協議説明会」には、想定以上の住人たちが押し寄せている。

町役場の大会議室に用意された二百の席はすぐに埋まり、急遽小学校の体育館に会場が移された。

それでも足りずに立ち見客が溢れ、人だかりが更に人を呼ぶ。


体育館の天井にざわめきが響く中、やがて企業側のスタッフたちが壇上に姿を現した。

いよいよ説明会が始まるかと思いきや──その顔ぶれを見て、住人たちの少なからずが困惑した。

企業側のスタッフに混じって、何人かの町の住人が壇上に上がっていた。


ひと塊りで並んでいるのは古い市場通りの連中だった。

パン屋の主人、肉屋の旦那、青物屋のおかみ。

向こうには金物屋がいるし、端の方でそわそわしているのは家具屋の社長だ。

年齢も性別も立場もてんでバラバラな面々で、共通点がよくわからない。

強いて言うなら、代々家業を継いできた "古い家" に属する者同士というぐらいだろうか。


いったい何が始まるんだ。

ざわめきが大きくなる一方で、壇上の彼らはどこか楽しそうな様子だった。

何か秘密を共有しているかの様な、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。


困惑を続ける住人たちの前に、壇上で一人の女性が進み出る。

いかにも都会的なスーツをそつなく着こなした敏腕のキャリアウーマン──には程遠い、ずいぶん小柄でラフな格好の女性だった。

短い髪が印象的で、インターンの学生にしか見えない。

進行の初手は深々としたお辞儀(ボゥ)を一つ、顔を上げて咳払いも一つ。


「からすヶ丘のみなさん───()()()()()()()()()!」


みながそれぞれに時計の表示を確かめた。

午後の2時である。

壇上から咳払いがまた一つ。


「えー...本日はお忙しい中を本当にありがとうございます。まずは弊社と事業計画のご紹介をさせていただきたいと思うのですが、これが実際...ちょっと込み合った話でして、いったいどこから説明したものやら──というのも、話の始まりが今から100年以上も前のことで.....。」


彼女の口から出る言葉は明瞭で、とても聞き取りやすい。

なのに不思議と頭に入ってこない。

風に舞い散る羽根のように、一つ一つは綺麗なのに掴みどころがなかった。

それでも彼女は言葉を紡いでいく──小鳥が空へ飛び立とうと羽ばたき続けるかのように。


「それは、1904年の春のことでした───」



***** おしまい *****

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