第十章:客人
研究所が封鎖された翌日。
私は居間で「ストランド・マガジン」のバックナンバーを読み漁っていた。
研究所が封鎖されてしまった以上、今は飛行理論の論文や機械工学の参考書よりもこちらの方が参考になる。
この雑誌には、名探偵をなんとか出し抜こうとする悪党どもの涙ぐましい努力の記録がたくさん載っている。
今の状況を打開する、何かいいヒントでもどこかに書かれていないだろうか。
父さんは逮捕され、研究所と試作機は封印された。
なのに私だけが自由の身というのは、まるで運命に唆されている気分だ。
こうなったからには常識や節度は二の次にしよう。
今や“解放作戦”の成否は私の肩にかかっている。
そんな最中に、居間に顔を出したばあやに「客が二人来るよ」と言われた。
「お客様って...弁護士とか?」
「違うよ。一人はあのうるさい機械を作ったっていう技師だね。電報が来てるんだけど、どうもあの子の逮捕をまだ知らない様子だよ?」
入れ違いか。
朝から電信局へ行って彼に電報を宛てたのだけれど、その頃にはもうこちらへ向かっていたんだろうか。
だとすると、こちらへの到着は夕方のすこし前ぐらいになる。
でも発動機も完成していない状況で、一体何をしにやってくるんだろう──いや、今はそれよりも気になることがある。
「.....もう一人のお客様って?」
「あんたの母さん。明日の汽車で来るってさ。」
「だと思った!」
もう話が伝わっているとは、さすがに私も頭を抱えてしまう。
最近の母さんからの手紙の中には状況を疑うような文言も増えていたし、私の時間稼ぎも限界だったかもしれない。
でも母さんが来たら私は隣町へ連れ戻されて、空への挑戦もいよいよおしまいだ。
時間が、時間が欲しい。
「ついでだけどね、もっと悪い知らせもあるよ。明日の汽車はあんたの母さんだけでなく、都から飛行機を解体する連中も運んでくるそうだ。」
ばあやの口にかかると、こんな爆弾みたいな言葉も静かに投げ落とされる。
「...そんな情報、どこから──?」
「耳の良い女がいれば、口の軽い女もいるさ。あたしは前者で、“議長の嫁さん”は後者だね。」
ばあやは必要なことだけ言って奥へ引っ込んでしまった。
父さんが逮捕されたというのに、ずいぶんと余裕のあることだ。
しかし、本当にまずいことになっている。
研究所の封鎖はともかく、飛行機の解体はやり過ぎな気がするけれど、昨日議長の口からこぼれた「陸軍省」の一言を考えれば信憑性は十分高い。
母さんか解体班か──いずれが先に来るとしても、その時点ですべてが終わることになる。
何か手を打つならタイムリミットは今夜のうちだけど、それにしたって時間が...。
私は半ば諦めつつも、アイディア探しのために再び雑誌をめくり始めた。
*****
予想よりも少し早めに屋敷を訪れたその人は、私が想像していた「技師」とは少し様子が違っていた。
線の細い長身だけど顔つきがやや幼くて、青年というよりは少年の雰囲気があった。
髪はいささか伸びすぎで、レンチよりも絵筆の方が似合っていそうだ。
この人の手からあの獰猛な鉄の心臓が生まれてきたのかと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。
「あ──はじめましてお嬢さん。お父上にはたいへんお世話になっています。」
先ほどの印象は“しゃぼん玉”に塗り替えられた。
ストローみたいな人間から、ふわふわとした泡のような声が出てくる。
丁寧なんだけど、声に芯がまるでない。
工場の騒音の中で暮らす人の声とは思えなかったけれど、手を見れば小さな傷や火傷の跡が幾つも光っていて、確かに職人ではあるらしい。
「こちらこそ、あなたのおかげでとても助けられています。ずっとお会いしたかった──のだけれど、今はちょっとタイミングが悪かったですね...。」
私は彼に、父の逮捕と研究所封鎖の顛末を説明した。
それから試作機解体計画の噂も。
話すにつれて青年の表情が油の切れた歯車みたいに軋んでいく。
「そんなことになっていたんですか.....じゃあ、新型はどうなりましたか? もう届いたと思いますけど、今は研究所の中に?」
「...新型って?」
「先週の便で発送したんですよ、“102/A” を。その...新しく設計した発動機です。双発プロペラ用に全体の寸法から再設計して──あの、お父上からの仕様変更の依頼を受けていて──」
「仕様変更?! ちょっと待って、私は知らないわよ。101/Aはどうなったの? 完成はさせないの?」
「あちらは振動が大きすぎる、そもそもがもっと重い機体向きだということで、技術検証用に開発体制を変えましたよ。今は28馬力を目標に改良中です。6月の終わりでしたかね...お父上からのお達しでした。ほら、101/Aを送ったすぐ後ですよ。出力はなるべく変えず、可能な限り高回転化した新しい発動機が欲しいと。"誕生日に間に合うか" とも聞かれたので急いで作りましたよ。来週なんでしょう? 自分もあなたの誕生日会に参加するためにこちらへ──いやぁ、バカンスなんて生まれて初めて───実家は小さな─────」
.....勝手に?
飛行機の心臓を?
娘の誕生日に良いサプライズになると思ったのか?
えぇ、えぇ、なるでしょうとも、こんな状況でさえなければね!
とても嬉しいわ!
設計変更の判断も多分正しいわね!
でもね───!
...深呼吸をしよう。
深く吸って、深くため息。
言いたいことが山ほどあるけど、当の本人は留置場だ。
今は他に考えなくちゃいけないことがある。
「母さんもこんな気持ちを味わってたのかなぁ...。」
「なんですって?」
ひとまず気分を切り替えるために青年を居間に案内したところ、積み上げられたマガジンが気になったのか怪訝な顔をされてしまった。
別に現実逃避をしていたわけじゃあないことを青年に説明したけれど、うまく伝わらなかったようだ。
「今の状況をひっくり返すための.....つまりは解放と秘匿の計画ね。そのためのヒントを探偵小説から探していたの。細部は後で考えるとして、おおよその計画はこうよ!」
まず、町のどこかでちょっとした騒ぎを起こす。
すると警察が手薄になる。
その隙をついて父さんを外に連れ出す──これは事故として。
そして研究所へ行って、飛行機をどこかに隠してしまう。
近いし、森の中でいいだろう。
然るのちに父さんには留置場に戻ってもらおう。
なんなら雲隠れしてくれてもいい。
そして私は母さんに連れ戻され、ほとぼりが冷めたら改めて.....。
「──どうかしら?」
「...何を言ってるんですか貴方は。全部事件ですよそれ。」
そんなことはわかっている。
だからバレないようにやる方法を考えているんじゃないの。
興味を惹かれたのか、お茶を淹れたばあやも席に落ち着いてしまった。
「あんたたち面白そうな話をしてるじゃないか。だけど厄介ごとに厄介ごとを重ねようってのは、あんまりスマートじゃあないね。」
「そうですねよねぇ。お嬢さんの計画はちょっと目的が多すぎますよ。全てを満足させようとして、全てが中途半端になりそうなんです。」
この人は声に芯がない割に、意外と遠慮なくものを言ってくるな。
父さんとは気が合ったようだけれど、私はすこし相性が悪いかもしれない。
「ちょっと、言ってくれるじゃないの。あなたの方では何かいいアイディアでもあるのかしら?」
「アイディアとかでなく...まず考え方を変えてみませんか? 何をすればいいかではなく、何をしたいのかを考えてみてくださいよ。」
「何よそれ、同じでしょう?」
「違いますね。要するに、貴方の一番欲しいものを選んでくださいという話ですよ。お父上を助けたいのか、お母上を説得したいのか、研究の続行を認めさせたいのか。全てを捨ててでも絶対にこれだけは──という至上の目的は、一体なんですか? それが基準になって、“何をすればいいか” も自然とわかります。」
「あんた、若い割によく心得てるじゃないか。」
なるほど、言ってることは確かに筋が通ってるように思えた。
でも、私のしたいことですって?
順番なんてつけられるものなんだろうか。
まずは父さんを助けたいし、母さんも説得して研究を続けたい。
そして、飛行機を完成させて───
..........。
最初はただ、飛びたいだけだった。
今は安全に飛び立って、無事に戻って来れる翼を目指している。
みんなと一緒に飛びたかった。
でも、全てが駄目になりかけているこの状況に立つと、私は───
「.....私は、飛びたいのよ。」
それ以外になかった。
結局のところ、ただ飛びたいというのが私の本心だ。
一度は捨てた考え方だったのだけれども、飛べるなら、やっぱり他に何もいらないとさえ思えてしまう。
私の言葉を聞いた青年は、ぱん──と手を叩いて話をまとめた。
「結構です。ではこういうのはどうでしょう。まず、お母上が明日やってくると──こちらを真のタイムリミットと考えませんか? 解体については、協力者を募れば駅で足止めできる可能性だってありますよ。でも、お母上をこれ以上謀るのは止めた方がいいでしょう。貴方の名誉のためにも。」
へぇ、そういう考え方があるのか。
なかなか柔軟な状況の見方をするものだ。
「お父上については...この際、もういいんじゃないですか? 多分どうにもならないので。こだわっても手間が増えますし、計画からは除外しましょう。」
うわぁ、一転してパトロン相手に思い切った判断だこと。
本当に遠慮がない人だ。
思わずばあやと顔を見合わせるけど、お互いに “なるほど?” と思っている。
「飛行機を隠すというのも、大きさを考えると現実的とは言えませんね───飛びたいのなら、もうその場で飛んでしまえばいいのでは?」
さて、これには流石に少し戸惑った。
逃げも隠れもせず、ぶっつけ本番でやられる前にやってしまえと?
だけど...まぁ.....確かに材料は揃っているわけだ。
実際この考えを受け入れるとすれば、状況はかなりシンプルに捉え直せる。
試しにちょっと整理してみよう。
私は飛びたい───これが目的だ。
明日、飛行機が解体される───期限だ。
飛行機は研究所の中で、新型発動機もおそらく一緒───手段と場所。
人目さえ避ければ───成功条件。
要点はこれだけ。
ずいぶんと、見通しが良くなってしまった。
設計ってこういう風にやるのかなと、少し感心してしまう。
これなら探偵小説からトリックのアイディアを探す必要だってない。
道が開けたかと思うと、気持ちも前向きになってきた。
「.....なかなか見事な考え方ね。おかげで話が簡単になったわ。つまり、今夜のうちに研究所に忍び込んで、発動機を載せ替えてそのまま飛べばいいわけね。それなら確かに現実的な計画と言えるわ。ぜひやりましょう!」
「いえ、今のは “思考法” の話であって別に、不法行為を推奨しているわけでは──」
「なんなのよ貴方!」
ばあやはため息を一つついて、夕飯を準備するために席を立った。
去り際にこぼした「こりゃあ長くなりそうだね」という小さなぼやきが、私の耳に不吉な予言のようにへばりついた。
***** A Short History of Crow Hill /
食卓の上に、こんがりと焼けたコテージパイが乗っている。
青い耐熱皿と大きく盛られたマッシュポテトの見慣れたコンビネーションだ。
いつもと違うのはフォークで刻んだ飾り模様の密度が二倍に、表面の艶が三倍に。
上にはまぶされた粉チーズが溶けていて、切り分ければ具の層に混ざったワインの香りが立ち上がってくる。
ばあやがたまに作ってくれる卵黄・バター・チーズ・ワインをたっぷり使った特別版だけど、肉と玉葱をじゃがいもで包んだ素朴な家庭料理のはずが、ちょっとした一手間でずいぶんと化ける。
「へぇ、若い頃はそんなにあちらこちらを?」
「まぁね。毎日が忙しかったけど、楽しかったよ。もう随分とご無沙汰だけど、最近の都の方はどんな感じだい? あたしも一時期ね───」
青年は美味しい料理とばあやの昔話を楽しんでいる様子だ。
私としても興味深い話題ではあるのだけれど、今はそれよりも今夜の計画で頭がいっぱいだった。
二人は──特にこの青年の方は、研究所の存続には興味はないのだろうか?
せっかくのご馳走なのに、私だけ味に集中できていないみたいだった。
食後のお茶はいつもより少し渋めに淹れられていたけど、ボリュームのあるご飯の後にはちょうどいい。
ばあやが食後の片付けをしてくれている間に、舌に残るお茶の苦味に乗せて “計画” の続きを切り出した。
「ねぇ、あなたはこのままで納得できるわけ? ここまで頑張ってきたのに、もうあと一歩だけなのに、役所の都合で中止だなんてあんまりじゃない。」
「納得はしてませんけど...だからといって不確実な賭けに出るのも、同じくらいには納得できないことですよ。」
「──私は絶対にイヤよ、このまま解体を待っているだけだなんて。そんなことなら駄目とわかっていても、やり切った上で駄目になる方がマシよ。」
実際、今夜実行する計画には変更なんてないだろう。
他の誰かが一緒じゃなくても、たとえ一人でも私はやる気だ。
明日には飛行機が解体されてしまうというのだから、“もうやるしかない” と言う状況が、ただ目の前にある。
「.....やるにしたって、現実的にどうするんですか? まずは研究所へ行かなければいけませんけど、このお屋敷から抜け出すだけでも大変じゃあないですか。」
そうなのだ。
門の見張りは巡査一人なのだけれど、外へ出ればこの屋敷に近い辺りでばかり、他の巡査たちが妙にたくさん目についた。
電信局へ出かけた時も遠巻きにずっとこちらを窺っていたから、明らかに警戒されている。
真夜中を待ったところで町は夜警が見回っているし、これじゃあ丘の研究所までこっそり行くのも難しそうだ。
「やっぱりそこなのよね。向こうまで行ければ、なんとかなるとは思うのよ。なんといってもあの研究所には屋根が半分しかないんだから。必要な道具はハシゴぐらいよ。」
「せめて、秘密の抜け道なんかがあれば話は変わってくるんですがね。あの研究所を作るときに用意しなかったんですか、そういうものは?」
「あるよ。」
そんなもの──と言おうとしていた矢先に、洗い物を終えたばあやが手を拭きながら戻ってきた。
「あるって──え、何が?」
「隧道だよ。昔、丘の上にまだお城があった頃にご先祖が作った逃げ道だ。丘の麓の岩蔵まではつながってるんだってさ。今どうなってるかは知らないけどね。なんせ、話を聞いたのは20年も前のことだから。」
「そんなものが? なんでずっと秘密に...。」
「あんたねぇ、あの子に教えるわけがないだろう? そんなものを知ったが最後、碌でもないことに使うのは火を見るより明らかじゃあないか。あんただってそうさ。今聞いて、目をきらりと光らせたね。」
そりゃあ秘密の抜け道なんて聞いたら.....ねぇ?
実際私の使用目的は、世間的には “碌でもないこと” に分類されるのは間違いないだろうし。
だけど、これでいよいよピースが揃ってしまったことになる。
風向きが私に味方してくれているのを信じざるを得ない。
空に憧れたこと、この時代だったこと、この家に生まれたこと、この町だったこと。
その全てに宿命を感じてしまう。
「中は崩れかけてるって聞いていたし、どうせ使うこともないだろうし、墓まで持って行くつもりだったんだけどねぇ...。」
「そうですよ、危ないですよそんなもの。封鎖を破ること自体も法的にですね──」
相変わらずムードの読めない青年技師がおずおずと口を開いた。
この後に及んで煮え切らない人だ。
「じゃあ来なくていいわ。」
「──いや、どうせやるなら行きますよ...発動機に責任がありますし...。」
突き放すつもりで言ったのだけれど、なんとなくわかってきた。
この人は、反射的に反発する人なんじゃないだろうか。
やろうと誘えばやらないし、駄目だと言われればこっそりやろうとする。
なんて面倒くさい.....。
でも、それさえ当たりがつけばこっちのものだ。
今夜一晩、手綱を握るぐらいはできるだろう。
それに私も、父さんも、空に憧れる人間というのはみんな同じなのかもしれない。
そうじゃなかったら、どうして万有引力への反抗なんて夢想するだろう。
「食べ物とお茶は用意してあげるよ。ま、あんたたちが向こうで何をしようがあたしゃ知らないけどね。ばあやはきっと何にも知らなかったのさ。」
***** 続く *****




