2.おひめさま
「布団を洗濯するから」って、ぼくは早々に起こされた。土曜日だっていうのに。
こんなに朝早く起きても、やることが無い。
海モン2.5のせいで、他のゲームは面白くないし、放課後の事のせいで友達と遊ぶこともできない。
この土日はどうやって過ごせばいいんだろう。暇だと時間が経つのが遅くなるのはどうにかして欲しい。
ぼくは朝ご飯を食べ終えると、昨日あった不思議な出来事を思い出した。召使いの、変わった男の子ペジタ。
重たい本を引っ張り出して、ページをめくってみる。
「あれ?」
見落としていたページがあったみたいで、お姫様と召使いが並んで何かをしている絵を見つけた。
「こんなページ、あったかな」
絵は相変わらずヘタクソだった。やっぱりこの絵の召使いは、ペジタなんだろうか? 絵がヘタ過ぎて、判別がつかない。
そう思ったケド、ぼくはすぐにビックリ仰天した。
「こいつ、うわばき履いてる?」
ペジタだ。この絵の召使いはペジタなんだ!
じゃあ、やっぱり本から人間がでてきたのは、誰かのイタズラとか、何かの間違いとか、夢じゃなかったんだ!
ぼくはいまさらになって、この本がすごいものなんだと気づいた。
じゃあ、こっちに描いてある、お姫様とかも出てきたりするんだろうか?
いや、でも。ペジタの言うとおりのお姫様だったら、出てきても絶対に良い事が無い。
――ワガママ姫にカエルを呑まされたり、イスにされたりするのはごめんだよ。
「だぁれが、ワガママ姫ですって?」
誰かがぼくに話しかけた。
夢だと思いたかったけど……おあいにく様、布団は洗濯中だ。
振り返ると、ぼくの部屋の真ん中に女の子が居た。
カールした金髪にティアラが乗っている。
ピンクでレースの付いたドレスの腰に手を当て、部屋のあるじであるぼくよりも偉そうだ。背はぼくより高い。
「お姫様?」
「そうよ。どっからどう見てもそうでしょ? 文句ある?」
ペジタの言っていたとおり、面倒くさそうな子だ。いきなり噛みつかれた。
「文句、あるよ」
ぼくはそう言うと、彼女の足元を指さした。
「なに? 靴?」
「そう。部屋の中では脱がなきゃいけないんだよ」
「あら、ごめんあそばせ。わたくしの国じゃ、そういう文化は無くって」
そういうとお姫様は素直に靴を脱いだ。
ぼくは意外だなと思った。靴を脱ぐとお姫様とぼくの背は同じくらいになった。
「なに? 意外そうな顔をして。わたくしはこれでも一国の姫よ。作法知らずだと思われるワケにはいきませんのよ!」
さっきから考えている事が筒抜けのような気がする。
もしかして、本から出てきた人間は、ぼくの心が読めたりするのだろうか?
(ばーかばーか。うんこ。ワガママ姫)
お姫様を見ながら、心の中で悪口を言ってみる。
「何よ……? 黙ってひとの顔ばっかり見て」
どうやら心が読めるというわけではないらしい。お姫様は首を傾げてこっちを見ているだけだ。
見れば見るほど、お姫様。
そういえば、こんな服装をした女子がクラスに居る。いっつもヒラヒラの服を着て、他の子を見下すようなことばかりを言う女子。
……そいつのあだ名は「ヒメ」。
ぼくはヒメが嫌いだ。多分クラスのほとんどの子が嫌いだと思う……。
ヒメはイジメられたりはしていない。どちらかと言うと、彼女のほうが他の子を「無視しよう」って言いだすタイプだ。
服が汚れたり汗をかいてる男子を見つけては「きたならしい」とか言ったり、他の子が二日連続同じ服を着てるの見つけて「びんぼうにん」だなんて言ったりする。
それと、自慢話がウザい。
夏休みのあいだに、アメリカに旅行に行っていたらしくて「アメリカでは~」とか「これだから日本は~」とか言いまくるんだ。
ところで、ヒメって名前の子がもう一人居る。
こっちはあだ名じゃなくて本当の名前。漢字で「美姫」って書いてヒメだ。
ぼくと同じで、よく名前を呼び間違えられる。「ミキ」って。
その子も低学年の時はヒラヒラの服を着ていたクチだったんだけど、ヒメとは逆でいつも元気が無かった。
ゆいいつ、元気があったのが名前を呼ばれるときで、「ヒメ」って呼ばれるとカンカンに怒っていた。自分の名前なのに。
それがビックリ。夏休みが終わった後、まるで男子みたいな恰好――シャツとズボンに変わって、髪の毛も短くなったんだ。
今は明るく元気になって、よく男子とも運動場で遊んだり、ゲームの話をしたりしている。
ヒメが「ヒメ」って呼ばれるとややこしいから、彼女は自分から「ミキ」って間違った方ほうか苗字で呼ばせている。
最近は「ヒメ」って呼ばれても平気らしいんだけど、逆に本当の名前のほうで返事ができない時があって困るらしい。
「ちょっと。お留守? 顔が怖いわよ」
お姫様がぼくの顔を覗き込んでいる。
日本人のヒメたちと違って、お姫様の瞳の色は青だ。本物の外国人。それにしては、日本語で喋っているけど……。
「若いクセに、じいやみたいにボケちゃったの? こんな狭くて汚い部屋に居るから、そんな風になっちゃうのよ!」
「ちょっと考え事してた」
「何それ! わたくしの事を呼んでおきながら失礼な奴ね! ペジタ以下!」
お姫様は足を踏み鳴らして怒った。人の部屋を馬鹿にするほうも失礼だケド。
「やっぱりペジタのお姫様なんだ」
「なぁに? “ペジタの”って。むしろペジタが……」
「召使いなんでしょ?」
ぼくは先に言ってやった。
すると、お姫様は人差し指を自分の口の前に持ってきて振った。
「ノンノン。ペジタはわたくしのお友達」
「召使いとか子分って言ってたけど」
「それはちょっと前までの話よ。あいつ、けっこう生意気で、面白いのよ。わたくしに向かって“子分じゃなくてどもだちがええ”だなんて!」
お姫様はペジタの口調を真似て言った。
「あなたもペジタの知り合いなら、わたくしの友達になりなさい!」
「いいけど……」
ぼくは了承した。本物のお姫様と友達だなんて、ヒメ(ミキじゃないほうの)に自慢してやれる。
でも、友達って命令されてなるものだっけ?
「じゃ、こんなところはさっさと出て、外を案内しなさい」
やっぱり、友達ってこういう風じゃないよね?
ぼくはお姫様に文句を言おうと思った。
「カケル、あんたさっきから何をうるさくしてるの?」
お母さんが部屋を覗き込む。
「あら?」
お母さんは目を丸くする。
「お邪魔しております」
ドレスを持ち上げ、会釈するお姫様。
「あら? どうぞごゆっくり……」
お母さんは「あら、あら」と繰り返しながらどっかに行った。
「ふうん。あなた、カケルって名前なのね。良い名前じゃない」
そう言えば、お姫様の名前を知らない。
「キミは、なんて名前?」
「わたくし? これはまた失礼致しましたわ。先に名乗るのが礼儀だったわね」
お姫様はぼくに向き直ると胸に手を当て、息を吸い込んだ。
「私の名前は“ドロシア・モーラ・シーガス・ファートマン・P・オルブライト”よ」
……なんだって? ぼくは首をかしげる。
「長ったらしい名前でしょ。ドロシア・モーラ・シーガス・ファートマン・P・オルブライト!
本当はドロシア・オルブライトで充分なのよ。でも、死んだご先祖様の名前が次々に入っちゃってこうなっちゃうの!
面倒くさいし、カケルは友達だから“ドロシー”って呼んでくれていいわよ」
「分かった。ドロシー」
ぼくは「じゅげむ」を思い出していた。
「さ、行きましょ。カケル」
ドロシーと玄関へ行く。
言いなりになるのはなんか違うとは思ったけど、家でやり取りをするよりは、よっぽどマシに違いない。
さっさと外へ行こう。
「大変! カケル! そこに人が倒れてるわ!」
ドロシーが慌ててぼくのシャツを引っ張った。
彼女の指さすほうを見ると、居間で転がっているお父さんが居た。哀れ、お父さんも布団を奪われたんだ。
「あれは大丈夫。いつもの事だから」
「ふ、ふうん……?」
居間の「トド」は、お客の声にちょっと反応をしたけど、そのまま寝ている振りをし続けた。
「カケル、あんた外に出かけるんだったら、ティッシュとハンカチくらい持ったの?」
お母さんが戻ってきた。
ぼくは普段なら、そのまま持たずにでるか、「持った」ってでたらめを言って逃げるんだけど、今日は黙ってタンスにハンカチを取りに行った。
でも、ティッシュはダメだ。ポケットの中でぐちゃぐちゃになるから。それとついでに、財布をポケットに入れておく。
「どこに行こうか」
「どこでも良いわよ。カケルの世界の人がどんな生活をしているか見てみたいわ」
ぼくはドロシーを連れて街に出ることにした。
ところがどっこい、街に出るのにもひと苦労した。ドロシーは事あるごとにぼくを質問攻めにしたんだ。
「カケル、あれは何?」
ドロシーが道の隅にある柱を指さす。
「あれは電柱」
「でんちゅうって何?」
「電線を渡すために使う柱」
「でんせんってなに? 病気? 怖いわ」
「違うよ、中に電気が通ってるんだ」
「でんき?」
ドロシーの世界には電気が無いみたいだ。
ぼくの世界に電気が無かったら、何もかもおしまいだ。
テレビも見れないし、ゲームの充電もできない。夜はロウソクで過ごさなきゃいけない。それからそれから……。
「ねえ、カケル。あの大きいのは何?」
お姫様がぼくの腕に捕まる。ぼくはドロシーの腕を振り払った。
「あれは車」
「車? でも、馬が引いてなかったわ」
「ガソリンや電気で動いてるんだよ」
「ふ、ふうん……?」
街に近づくにつれて車は増える。
ドロシーが車に慣れるまで、ぼくは歩きにくいやら恥ずかしいやらで大変だった。
「ねえ、カケル。あれは?」
「あれは……犬! 犬も知らないの?」
「知ってるわ。カケルが知らないんじゃないかと思って試したのよ」
ぼくと同じくらいの年なだけあって、ガキっぽい。お姫様だったらもっと賢い感じじゃないとダメなのに。
「ねぇ、カケル。あれは?!」
ドロシーがニヤニヤしながら聞いた。彼女の指さす先には「犬の忘れ物」。
「怒るぞ!」
ぼくは答えてやらなかった。訂正。ガキ以下!
ダッシュすればすぐな道のりを、たーっぷり時間をかけて到着。
土曜日ということもあって、街は人でごった返している。
ドロシーは通行人を避けるのに大慌てだ。普通は「みんなが避けてくれる」らしい。仕方なくぼくはドロシーと手を繋いでやった。
ぼくはドロシーに建物の役割を説明した。
中にはぼくもよく知らないものとかもあったけど、ドロシーもぼくの説明の半分も理解してないみたいで、知らないと答えても特に文句を言わなかった。
ぼくはドロシーとのやり取りで、人にものを教えてやるのが好きだということに気が付いた。
「カケル、あの人は何をしている人なの?」
綺麗なお姉さんが、男の人に「絵に興味はありませんか?」って言っている。
「あれは、高い絵を騙して売りつける人だよ」
……と、お父さんが言っていた。
「まあ、悪い人! 兵隊に捕まえてもらわなきゃ」
「日本に兵隊は居ないよ」
……と、先生が言っていた。
「居ないの? じゃあ、悪い人が居たらどうするの?」
「警察官が捕まえるんだ」
「けーさつかんってどんな人? どれ?」
「青い制服と帽子の人。ここには……居ないかな」
「居なかったら捕まえられないじゃない」
「居ても、あの人は捕まえられないよ」
犯罪ではないから。でもこれを言うと、またややこしい質問をされる気がした。
「ヘンよ。悪い人なのに捕まえられないのなんて。……でもそうね、そういうこともあるわよね」
勝手に納得するドロシー。
「うちも、じいやの代わりに入ってきた世話係のおばあさんが居るんだけど、それが、悪い人なのよ」
小声で話すドロシー。
「悪い人?」
「そう。魔女なのよ。魔女! お城に入り込んで、国を乗っ取ろうとしてるの」
ドロシーは大真面目な表情だ。
「大変だ!」
一応驚いてあげる。本当だろうか?
「見たのよ。魔女が地下室で壺にカエルやヘビを入れてぐつぐつ煮てるのを!」
「王様や兵隊には教えたの?」
「だめなのよ。“しょーこ”がないから。みんな魔女の事を、ただの世話係のおばあさんだと思ってるの」
「そっか。証拠が無いとダメだね」
ちょっと不安になる話だけど、大丈夫だ。
なぜなら、あの本ではお姫様が剣を持って魔女とドラゴンをやっつけてるページがあるから。
「……カケル、あれはなに?」
ドロシーは魔女の話をしている時よりもいっそう不安そうな顔をしている。
彼女の指差す先には「赤と青と白のシマシマ」。
「ぐるぐる回っているわ。魔女の魔法かもしれない」
「あれは、散髪屋のサインポールだよ。ここではお金を払って髪の毛を切ってもらえるんだ」
ぼくはちょっと得意になった。「サインポール」っていう名前を知ってる奴は学校にそう多くない。
クラスで一番かしこい菅原くんくらいじゃないだろうか。
「ふうん。魔女じゃないなら、良かった」
ドロシーはガラス張りの店内を覗き込む。
髪を切られているおじさんが、お姫様に気づいて居心地悪そうにした。
「髪を切るって、変なの! この人、髪の毛がほとんど無いのに!」
ドロシーはおじさんの頭を指さして笑った。ガラス越しだから何を言っているのか分からないだろうけど、指をさすのはマズい。
急いでドロシーを引っ張って散髪屋から離れた。……ぼくも笑いそうだった。
そのあと、スーパーに連れて行ったけど、それは失敗だった。
ドロシーの国にも「市場」があるらしくて、ずっと行ってみたかったらしくてとても喜んでくれたのだけれど……「買って買って攻撃」をされてしまった。
ぼくは300円しか持ってないのに!
ドロシーはたっぷりぼくを「ばとう」した。ケチだとか貧乏人だとか。「ヒメ」みたいだ。
ドロシーはお姫様で、ぼくとは色々と違うってことは良く分かってる。文句を言われることは平気だ。予想済み。
だけど、「騒ぐ子供の親の気持ち」というものをたっぷり勉強するハメになったのはつらかった。
「ねえ、カケル。わたくし、疲れちゃった。地面が硬くて足も痛い!」
スーパーのフードコートのイスを借りて休憩うぃする。お昼前になっていたから、席はそこそこ埋まっていた。
「いいなあ」
ドロシーが遠くの席を見ながら言った。
その席では若い夫婦と小さい子供がソフトクリームを食べていた。外は日が登って暑くなり始めている。雲ひとつ無い青い空。
そういえば、ぼくはシャツとズボンで、店のエアコンがちょっと寒いくらいだけど、ドロシーは立派なドレスだ。髪の毛も長いし、手袋もはめている。
「ちょっと待ってて」
ぼくはドロシーを待たせて、ソフトクリームを二つ買った。
126円×2=252円。300-252=48円。チャリーン。
「ドロシー、これあげる。ソフトクリーム」
「……! ありがとう!」
ドロシーはにっこり笑って白いソフトクリームを受け取った。本当は「おごり」はやっちゃダメって言われてるんだケド。
「冷たい……! 甘くて美味しい!」
ドロシーはソフトクリームを口に付けたまま、頬に手を当てて喜んだ。
「良かった」
「でもね、そういう事じゃないのよねー」
お姫様は口の周りが真っ白になってる。
「どういうこと?」
ぼくは「しゅっぴ」が無駄になった気がしてドキリとした。
「カケル、口の周りが白くなってるわよ。じいやみたい」
ドロシーが笑う。
「ドロシーもおばあさんになってるよ」
「あらやだ」
ぼくはハンカチをドロシーに貸した。どうせぼくは使わないから構わない。
お姫様はソフトクリームで回復して、再び歩けるようになった。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
ぼくは家に帰らなきゃいけない。もうすぐ12時だ。お昼は12時には帰らなきゃ。
「帰るってどこに?」
「家だよ。ぼくの家。お昼ご飯食べないと」
「私も食べる!」
どうしよう……。家に帰ってもドロシーの分は無い。
というか、友達の家でご飯を食べる時とかは、あらかじめ「そういうこと」になってないと無理だ。
「ダメだよ。ドロシーは自分のお城に帰らないと」
「いいじゃない」
「ドロシーの分、用意してないと思うし」
「カケルのぶんを分けてよ!」
お姫様はさらっと言ってのける。ぼくも別にちょっとくらいご飯を分けるのは嫌じゃない。ソフトクリームを食べたし、たぶん大丈夫だ。
でも、問題はそこじゃない。
「うちのお父さんとお母さんがダメっていうよ」
ぼくはこのセリフが好きだった。断るのに困った時の切り札。最近はちょっと恥ずかしくて使ってなかったケド。
でも、ドロシーには逆効果だった。
ドロシーは顔を真っ赤にして大声で「カケルのバカ!」と言うと走り出して行ってしまった。
困った。よく考えたら、ドロシーが帰るにしたって、あの本が必要なんだ。
どっちにしろぼくの家に戻らなきゃいけない。あのまま放って置くわけにもいかないし……。
でも、あまりもたもたしてると、お母さんに怒られる。お昼ご飯を食べてからじゃ、ダメ?
……なんてことを考えてしまったせいで、ドロシーを見失ってしまった。
「ちょっと! キミ! 何もたもたしてるの? 追いかけてやんなさいよ!」
知らないおねえさんにも文句を言われる。関係ないクセに。
「おばさんには関係ないでしょ!」
「おねえさんって言ったでしょ! いいから! 男なら早く追いかける!」
おねえさんはこぶしを振り上げて怒った。他の席の人が注目する。
ぼくは駆け出した。
スーパーを出てドロシーの姿を探す。遠くに、ピンクのドレスと金髪の目立つ姿を見つける。通行人がみんな彼女を見ている。
よくよく考えると、ぼくはあんなのと一緒に街をうろついていたのか。思い出して顔が赤くなる。
……また余計な事を考えてしまった。
ドロシーは角を曲がってどこかへ消えてしまった。随分と距離が離れてしまっている。
でも、大丈夫。ぼくは足が速い。
ドロシーはドロシーで一生懸命逃げたらしく、追い付くのに少し時間が掛かってしまった。
ぼくがドロシーを捕まえたのは河川敷だった。彼女は河の前で座り込んでいる。
「ドロシー。帰るよ」
「……ヤダ」
彼女はぼくの腕を振りほどいた。それから二、三歩歩いてつんのめった。
「逃げても無駄だよ。ぼくは足が速いんだ」
「……そうね。靴も壊れちゃった」
彼女の履いていた靴のヒールが折れてしまっている。
「じいやはね。わたくしがイタズラして逃げると、走って追いかけてくるのよ。姫様、姫様、お待ちください~って。腰が悪いクセにね」
ぼくはさっさと帰りたかったけど、とりあえずお姫様の話を聞く。
「でも、じいや。ボケちゃった。昔はこういう河原にサンドイッチを持って、一緒にお昼ご飯を食べたんだけどね……」
ドロシーは石を拾うと川に向かって放り投げた。「ボチャン」と音がする。水面に大きな波紋が広がった。
「お父さんとかお母さんと、行けばいいよ」
「ふたりは忙しいから。おばあさんも魔女だし」
「じゃ、じゃあペジタ……」
波紋が消えてなくなる。
「そうね。今度、誘ってみるわ。あの子食べ物ならなんでも喜ぶから。きっと楽しい」
「うん。そう思う」
「あの子ね、カエルだけじゃなくて、トカゲやイモリも丸のみにするの!」
「ええ……。ドロシー、そういうの良くないよ」
いじめっ子でもやらないぞ。
「違うのよ。ナマのカエルは嫌いだけど、トカゲは好きで食べてるんだって」
「ええ……。ヘンなの」
「ヘンよね。だから、カエルやトカゲを食べなくていいようにサンドイッチを持って行ってやらなきゃ」
「そうだね」
「できたらいいな」
「できるよ。ペジタとは友達なんでしょ?」
「うん。でもね、わたくし、死んじゃうかもしれないの」
死ぬ。急に怖い言葉が出てきた。
「どうして?」
「“しょーこ”が無くても、魔女をやっつけなきゃいけないから。魔女は悪い魔法の薬を完成させたの。もうあまり時間がないわ」
「大丈夫だよ」
ぼくは自信満々に答えた。
本の結末は知っている。魔女はドロシーとペジタがやっつけるんだ。
「自信満々ね? わたくしは武器も持ってないのに。武器が無いと魔女には勝てないわ」
武器! ピンと来た。
「剣だよ。剣を探すんだ。それがあれば魔女をやっつけられる!」
あの本のお姫様は剣を持っていたはずだ。
「剣? 分かったわ、ペジタと探してみるわね」
「うん、大丈夫。ドロシーとペジタならできるよ」
ぼくはちょっとニヤニヤしてしまう。ドロシーは不思議そうにぼくを見た。
「……じゃ、私、帰るわね」
ドロシーはふらふらと立ち上がった。かかとが折れた靴では歩き辛そうだ。
「カケル、追いかけてくれてありがとう」
お姫様はキレイな笑顔を向けてきた。ぼくは、頬が熱くなって目を逸らす。
「じゃあ、行こう。本が無いと、帰れないんでしょ?」
……返事が無い。
振り返ると、誰も居なかった。辺りを探しても、ドロシーの姿は見当たらない。
まさか「じゅげむ」みたいに川に落ちたんじゃないかと川を覗き込んだけど、居なかった。そもそも人が落ちるような大きな音は聞いていないし。
ぼくはけっきょく、首を傾げてひとりで家に戻った。
帰ると午後1時を回っていた。お母さんから大目玉を貰って、半泣きで再び首を傾げた。
お昼から本に向かってドロシーやペジタを呼んでみたけど、偉そうな本はウンともスンとも言わなかった。
ぼくはいつふたりが出てきてもいいように、机の上に本を置いて、午後は宿題をして過ごした。
宿題を終わらせるのにはたっぷりと時間が掛かった。量はそんなに多くなかったんだけど、途中で「やる気ゲージ」がゼロになったからだ。
宿題をしているときとか、しようと思っているときに「宿題はやったの?」と聞くのはやめて欲しい。
けっきょく、その日は本から何かが出てくることは無かった。
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