君と僕 その13
王城の外塀のはるか向こうに、赤く燃えながら沈む太陽が見える。
鍛練から宿舎へ戻る騎士達から外れ礼拝堂へと向かう僕の前に、いつもと同じ夕焼け空があった。
この時間帯にここら辺りを通りかかるのは、司祭やその従者達など関係者ぐらいのものでしかない。
つまり、心を静めて祈りを捧げるには、うってつけのひとときなのである。時々、自らの行いに深い後悔とやりきれなさを感じている身としては、夕食までの短い時間、よく足が向いてしまう場所であった。
思い返せば、昔は父との確執や不安定な将来に憂いを持ち、最近では我が事ながら呆れてしまうが、主を同じくする侍女長への複雑な心中が主な原因だったりする。
先日聞いたリシェル・ブラネイアの恋人の話は、いまだ胸の中で尾を引いておりくすぶったままだった。
結局、真実はどうだったのか分からないままだが、彼女の態度はどこにも目立った変化はないので、『ヴェンの勘違いだったのでは?』という気がしないでもない。
果たして本当のところはどうなのか、己には全く関係ない話だと言うのにいつまでも気にやんでしまう。そういった雑念やら彼女への未練やらを振り払いに、ここまで足を運んで来たのだった。
汗で蒸れた髪や顔を肌寒く感じる風で乾かしながら、橙色に染まる礼拝堂の外壁を目指して長く続く外廊を歩いていく。
そしてやっと、礼拝堂の入り口が見え足を早めた時、男の声が突然耳へと入ってきた。
「君にこんな話をしなければならなくなる日がこようとは……夢にも思わなかった……」
苦しげな声を上げた男は目の前に佇む礼拝堂の陰から姿を現し、背中を向けて後退するようにこちらへと近づいて来た。男の視線の先には俯く女性が見える。
二人とも自分達にばかり気をとられているようで、進行方向にいる僕の存在にまるで気づいていない。だがこのままでは出くわすのも時間の問題だ。何故なら二人は礼拝堂へは入らず、僕が歩く外廊の方へとそのまま向かって来ているからだった。
おまけに二人は僕のよく知る人物。
リシェル・ブラネイアとその恋人、フェルナンド・ディッケンズだったのだ。
どうしようか、とにかく見つかる訳にはいかないだろう。
取り敢えず身を隠せる場所を探して、外廊から庭へと体を躍らせる。手近にあった草むらへ急いで飛び込むと、息を潜めて彼らが通りすぎるのを待った。
ほどなくして二人がやって来た。それから僕が先ほどまでいた場所に立ち止まり、男は彼女の前でゆっくりと頭を下げた。
「ーー本当に、君にはすまないと思っている」
震えるような低い声で呻いたあと、フェルナンドは何も言えなくなったらしい。長い髪に覆われた肩が、微かに揺らいで感情を表していた。
二人からすぐの草むらの中で、僕は息を飲んでじっとしていた。フェルナンドとリシェル・ブラネイアは、立ち止まったまま暗い顔で沈黙してしまっている。物音一つ立てないで、二人は共に項垂れていた。
彼らが居なくなれば、礼拝堂へ行くのも今日は諦め早々に宿舎へ戻ろうと決めたのだが、二人は目の前から動こうとしなかった。
深刻な話のようで、盗み聞きなどしたくはないのだが、この位置では否が応でも耳に入ってきてしまう。どうすればいいのか。焦る僕の前で身動ぎをする衣ずれの音がした。
音のした方に思わず視線を向けると、彼女が顔を上げ男を見つめていた。穏やかな微笑を浮かべ落ち着いた声を出す。
「わたしなら平気よ。あなたの選んだ道を尊重するわ」
その声を聞いた男は、顔を歪め長い金髪を振り乱しながらすがり付くように彼女へ迫った。
「君のことを嫌いになった訳ではない。それは信じてくれ。今でも愛してるんだ」
リシェル・ブラネイアは何も言わない。優しい、まるで母親のような慈愛に満ちた目で、追いすがる幼子のような男を見守っているだけだ。
「僕は所詮両親には逆らえない、不甲斐ない男だ。君にはもっと似合いの男がいる筈だよ。だって、君はとても素敵な人なのだから」
涙を見せて謝罪を続けるフェルナンドを、僕は睨み付けた。どんな美辞麗句で言葉を飾ろうと、奴のしていることは彼女を切り捨てることだ。
何故、分からないのだろう? 他の男など、誰もお前の代わりになれはしないのに。
「本当に、わたしは大丈夫よ、フェルナンド様。あなたは奥様になられる方を幸せにしてさしあげてね。わたしはあなたの幸せを何処にいても祈っています」
それなのに彼女は笑うんだ。心の中では荒れ狂う嵐のようにざわめく心情を持て余している筈なのに、そんなことはない、こんなこと何でもない、とでも言うかのように笑って見せる。
どうして強がって見せるのか。泣いてあいつを困らせてやればいい。そうすれば男も弱りはて、醜い本心を曝すだろう。もしくは君への想いを捨てきれず、戻ってくるかもしれないではないか。
だが、リシェル・ブラネイアは取り乱さない。聞き分けのいい女を、最後の時まで演じて見せようと笑顔を崩さず男を見ている。
その表情にこちらの方が苛立ってくる。筋違いな腹立ちが生まれてくるほどだ。
それとも何か? 君にとって恋人との別れなど、本当にたいしたことではなかったと言うのか。
「リシェル……」
フェルナンドが放った一言のあと、浮かべた表情に僕は凍りついた。
あいつは、あの男は優雅に笑っていた。一目で女が囚われてしまうであろう、ご自慢の麗しい顔で華麗に微笑んでいたのだ。
「君のことは、忘れない。柔らかな薄い茶色の髪の毛も、深い森のように澄んだ緑の瞳も、笑うと可愛く出来る口元のエクボも、そして、小さな赤い唇も……」
奴は気障ったらしい台詞を吐いて彼女に近づくと、額に軽く口付ける。それから素早く背中を向け、あっという間に走り出して行った。
とても短い逢瀬だった。他人の別れの場面に立ち会うことなど勿論ないが、それにしても呆気ない幕切れだった。
一人残されたリシェル・ブラネイアは、脱け殻のように力なく立っている。
一度も振り返らず消えて行く男を、風に漂う木々のように頼りなく見つめていた。
茫然と立ち尽くす彼女の横を、そっと離れようと僕は体の向きを変えた。反対側へと出て行けば、あの男と落ち合うこともないだろう。彼女が見送るフェルナンドが消えた逆の方角へと、足を踏み出した僕の背中に悲痛な叫びが聞こえてきた。
「……くっ、フェルッ……」
振り向いた先に彼女がいた。
外廊の床に倒れ込むように体を伏せて、泣き声を漏らす彼女がいた。
細い肩を力なく揺らしながら、悲しみに身を任すリシェル・ブラネイアがいた。
「フェル、フェルッ……」
あの男は大馬鹿者だ。
そして僕も大馬鹿者だ。どうして彼女が、恋人との別れに対して淡白などと思えたのか。
嘆き悲しんで愛しい男の名を嗚咽混じりに呼ぶ彼女に付き合い、僕はその場へ静かに腰を下ろした。
リシェル・ブラネイアの抑えの効かなくなった泣き声は、周囲がすっかりと夕闇に溶けて見えなくなるまで、やむこともなくいつまでも続いていた。
***
「はあ〜、退屈ですね。ケインさん」
アーサーが欠伸を噛み殺して呟く。もうじき深夜から続いた護衛の任務が終わる頃だ。じきに交代も姿を現すだろう。
「早く寝床に入りたいな。飯を食って体も洗いたいしなあ……」
「静かにしろ。誰かに聞かれたらどうする。弛んでると言われるぞ」
「だって眠くなるんですよ、話してないと。ケインさんだって眠いんでしょう」
「まあな」
「ほら、やっぱり。気取っていても分かるんですよ」
アーサーは僕をからかうように笑い声を上げた。兜の下でしかめてみせても目の前の男には通じない。仕方がないので僕も軽く笑った。それでなくても春は眠いのだ。
「それにしても今朝は静かですね、殿下の部屋。いつもは早くから煩い音がして騒がしいのに」
アーサーがそう話した時だった。大きな声が外まで漏れてくる。
「ーーあなたたちね、エミリアナ様は、本日ではなくても、いつでも桃色をお召しになりたいのよ。それを全部聞いてたら、そのご衣装だけ早く傷んでしまうでしょう?」
凛と張りのあるリシェル・ブラネイアの声であった。
「な、なんですか?」
アーサーが驚いたように辺りをキョロキョロと窺う。
「侍女長殿の声だ」
僕が笑いながら彼に答えると「ああ……」とため息をついて頷いた。
「始まったんですね」
「そのようだ」
僕らは顔を見合わせて噴き出す。
「は……あ」
キャリーとルィーズの間の抜けた相槌も聞こえてきた。侍女長の長いお小言を覚悟して、首をすくませる二人が目に浮かぶようだ。
「それに比べて他のお色、特に青とか緑は何故かお嫌いで、全くと言ってご自分からはご所望されないわ。だから、まだピカピカの新品のような物ばかり。勿体ないと思わない?」
リシェル・ブラネイアの真骨頂とも言える、他者に口を挟ませぬ早口の説教が始まった。キャリーとルィーズのあんぐりと大きく空いた口を想像する。きっと二人は、そんな顔をして彼女を見つめているに決まってる。
「そこで! わたし達侍女の出番なのよ! 何とか王女の気持ちを盛り上げて惹き付けて、ご興味を持っていただくという訳! 分かる?」
僕の前に鼻息も荒く宣言をする君が見えた気がした。頬を紅潮させて、満足げに頷いていることだろう。
それとも大きくなりすぎた自らの声に、密かに慌てているかもしれない。
「プッ」
気がつくと、僕は腹を抱えて笑っていた。思いの外大きな声が出て、アーサーがたしなめてくる。
だが、止まらなかった。
リシェル殿、君はなんて素敵な人なんだ。
あの酷い悲しみを経験してからまだ数日しか経ってないのに、愁いを微塵も感じさせず、益々光輝く貴石のように芯の強さを発揮するとは。
だがあの涙が、そんなに早く乾く筈がないことを僕は知っている。そんな鋼のように強い女性ではないことを。
君のような人はどこにもいない。そうさ、君のような女性はどこにもーー。
「いったい何の騒ぎですか、ケイン様?」
突然、扉を全開して君が怒鳴り出て来た。僕のはしゃぐ声が聞こえてしまったのだろう、酷く険しい顔付きをしている。悪かった。すぐに笑いの虫をおさめるから、待っていてくれ。
君はアーサーの存在に気がつき、目を白黒させたかと思うと質問してきた。お陰で僕への怒りを忘れ、怪訝な表情をアーサーに向けている。
「……それと、そこのあなた?……えっとお名前は何て仰るの?」
全てが愛しい。
君が纏う空気の全てがーー。
この気持ちは一生胸に秘め、せめて影から君を支えていこう。
「朝から失礼した。騒がせてすまない、リシェル殿。あまりにも楽しげな会話が聞こえ、……いや失敬した」
兜を外して君の手に口付けをすると、嫌そうに不満を露にしている。
「おはようございますっ。プリンス!」
背後から飛び出してきたキャリーとルィーズの二人の手にも、同じように軽く唇を落として尋ねた。
「プリンス?」
僕の問いかけに君は呆れたように教えてくれた。
「つまり、一部の王城務めの侍女達から、あなたは『プリンス』と言われ慕われているのですよ」
「僕が? プリンスだって? 弱ったな、……王太子殿下のお立場が、ねえ?」
横に並ぶアーサーへ笑いかけた僕に、君は胡乱な眼差しを隠しもせず不機嫌な様子で言い切った。
「慕っているのはあくまでも一部の年若い者のみです! 後のたしなみを持った侍女の殆どは、あなたの軟派で残念な性格を哀れんで、逆の意味でプリンスと陰で笑っているのです!」
相変わらず君は手厳しい指摘を投げかけてくる。だが、こんなに生き生きとした姿が見られるのなら、目の敵にされるのも悪くないかもしれない。
まずいな、随分自分を卑下する癖がついてしまっている。そんなつもりはないのだが、まあいいか。
「ふうん、年若い侍女か……、では、リシェル殿は? ……どちらに、入るのかな?」
君が僕を道化だと思うなら、いくらでもそう振る舞おう。
それで君の心が一日でも早く立ち直ることが出来るなら、一日でも早く悲しみを忘れてしまえるのなら。
構わないだろう、ケイン・アナベル?
僕は口元を緩め、朝日の中揺れるリシェル・ブラネイアのほつれ毛を目で追って、胡散臭いと評された得意の笑顔を浮かべながら、いつものように君へと軽口を叩いていった。
最終話です。
これにて気まぐれプリンス番外編は終わりです。
お付き合い下さり、ありがとうございました。
番外編は終わりましたが、別主人公でスピンオフをいつか書きたいなと思っています。
またお会い出来ましたらよろしくお願いします。




