#8
それからは厳しい特訓の日々。
「奥下先輩」
「あんだよ、鳴子」
「俺に歌を教えてください」
「……は?」
「先輩は俺より歌が上手い。そして陸や奏多と一緒にステージに立つなら、俺はもっと上手くならなきゃならない。だから、教えてください」
「……分かった。死ぬほどしごいてやるから、覚悟しろよ」
奥下先輩とも少し仲良く?なった。彼としては自分の鬱憤をぶつけてきただけなのかもしれないけれど、俺は彼の地獄のしごきを受けてちょっとずつ、でも確実に歌が上達していくのを感じた。
「ばっきゃろう! 全部地声で歌おうとするから高音が汚くなるんだ! ミックスボイスを使え!」
「ミックスボイス?」
「簡単に言えば、地声と裏声の中間の声だ。ちょっと見てろ……ねーい、ねねい、ねいねいねいねいねいねいねねーい♪」
「……何やってんすか、先輩……」
「ドン引きしてんじゃねぇ! これがミックスボイスの練習なんだよ」
そう言うと先輩は、「ねい」だけで俺が歌う予定の歌を歌い切った。最高音まで突き抜けるように高らかに響き、余計なブレも一切ない。圧巻のパフォーマンスだった。「すげぇ……」と心の底から漏れた。
「意識としては、あえて鼻にかけるような声で歌うイメージだ。お前もやってみろ、ほら」
「は、はい。えーと……ねーい、ねねい〜♪」
言われるがままにねいねいやってみると、今まで苦しかったサビの高音がすっと自然に出てきた。そしてその瞬間、今まで経験したどんなそれとも違う快感が、身体を駆け抜けた。
パッと先輩の方を見ると、何か考え込むように俯いていた。
「あの、ダメでしたか?」
「……いや、いいんじゃねぇの。初めてでこんだけできりゃ上出来だ」
「本当ですか!?」
「あぁ……ったく、だからお前はムカつくんだよ」
「え? 今なんて?」
「何でもねぇよ! ほら、さっさともう一回!」
「は、はい! ねーい、ねねい……」
三年生という自分の身の振り方を考える時期でありながら、理由はどうあれ、先輩は俺の特訓にずっと付き合ってくれた。何より、歌うということの本当の楽しさを教えてくれた。
だから感謝している。
それと、長谷川沙優さん。
部室のドアがガラガラと開き、彼女はひょっこりと顔を出した。
「あ、練習のお邪魔でしたか?」
「大丈夫。どうしたの?」
「鳴子くんや皆さんに差し入れを。はい、どうぞ」
「いつもありがとう、沙優さん」
黒髪ロング和風美人の名前だ。あれからたまに軽音部に差し入れを持ってきてくれるようになり、名前を知った。
今日の差し入れはクッキーだ。それもハート型の。
「あの、大丈夫? 俺にこんなに差し入れしてると、彼氏が怒ったりは……」
「ラブラブなので心配ご無用です! 彼氏も元々鳴子くんのファンで、それで意気投合して付き合ったので! しっかり差し入れしてこい、って言われてます」
「あ、そう」
彼女の存在にも俺は支えられた。
俺の歌い方が好きだと言ってくれた沙優さん。彼女にもう一度最高の歌を聴いてもらいたいというのも、今の俺の大きなモチベーションの一つだ。
そうして毎日特訓を繰り返すうち、あっというまに時間は流れ……
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「うわー、めっちゃ客いるじゃん。緊張するわこんなん」
六月。新歓ライブ当日。舞台袖。
いつもの何ら変わらぬテンションで、嬉しそうに陸が言う。俺は一つ大きく息を吐く。が、手足は小刻みに震えていた。
「大丈夫」
俺の不安を察知したように、奏多が優しく言った。思えば彼は最初からずっと俺の味方で、ファンで居続けてくれた。
本当に感謝してもしきれない。
陸も近づいてきて、そっと俺の肩に手を置いた。
俺をバンドに誘ってくれた陸。全ての始まり。俺は彼の期待に、今度こそ応えたい。
「1/fゆらぎは失くなったけど、今のお前の歌なら、響くさ」
陸の言葉に俺は頷く。
結局あの日俺が下した決断は、1/fゆらぎの幻影を追うことをやめ、今の声のままより上手く歌える方法を模索することだった。
だって、1/fゆらぎがなくたって心に響く歌手はごまんといる。むしろそっちが大半。だったら、俺もそうなればいいだけの話だ。
そう、俺は練習を積んできた。
一ヶ月半。きっと陸や奏多がこれまで積み上げてきたものには遠く及ばない。今なら分かる。彼らは最初から特別だったわけじゃない。音楽が好きで、誰よりも練習したからこそあんなにも心を打つ演奏ができるんだ。
今の俺にそれと同じことができるとは思ってない。だけど、たかが一ヶ月半とはいえ歌と真剣に向き合ってきた自負が、俺の身体から震えをゆっくりと取り去った。
「それより、」と陸が再び口を開く。
「本当に四宮を呼ばなくて良かったのか?」
「ああ。琴音には、このライブがちゃんと成功してから伝えようと思ってる」
バンドのことが大好きだって。俺はもう二度と歌うことから逃げないって、胸を張って言えるように。
俺は今日、絶対にこのライブを成功させる。また会場を一つにしてみせる。俺たちが持つ音楽の力で。
だから、琴音も……
奏多が俺の決意を後押しするように、ふふと和やかな笑みを浮かべた。
「おい、お前ら」
前の出番だった奥下先輩が、ステージから堂々と下りてくる。お前ら、と言いながらその目はまっすぐに俺だけを射る。
「俺様たちが前座で盛り上げといてやったんだ。白けさせたら承知しねぇぞ」
「はい」
俺は自信を持って答えた。
ステージに上がると、文化祭ほどじゃないけど、クリスマスライブぐらいの人数が客席に詰めかけている。新歓ライブでここまで人数が多いのは、先輩たちによると異例のことらしい。
おそらくその多くは、陸と奏多のセッションを観に来たのだろう。
そんな空気に、風穴を開けてやるぜ。
俺たちのバンドは演奏で全てを語る。余計なMCはしない。
……というのはどうだろうと本番前に陸に伝えたが、却下されたので、仕方なく俺は喋る。バンド名の由来、新入生に対する形式張った入学祝いの挨拶。一番どうでもいい奴の話を、皆退屈そうに聞いている。
少し話していたら、すぐにその時はやって来た。
右、異常なし。左、異常なし。
前方もたぶん、異常なし。
そして、後方。
ばちこぉん!と血走ったウインクをする陸。と、目を瞑ったまま頷く奏多。
異常なし。よし、行くぞ!
奏多の嵐のようなフィルインを合図に、陸がギターをかき鳴らし始める。
まずは陸のターン。中毒性のあるリフが狭い体育館内をピロピロとリズミカルに往復し、いきなり客席を席巻する。
誘惑するようなチョーキングとともに沸き上がる黄色い歓声。普段の陸を知ってると、あまりのギャップに笑ってしまいそうなほどセクシーだ。
続いて奏多。8ビートで刻むグルーヴィーな音の粒が空気中でパンッと弾け、キラキラと舞い落ちる。
ハイハットも、スネアも、バスドラムも、タムも、シンバルも。全てが奏多の代弁者となり、大声で音楽への「大好き」を叫んでいる。
ジャスト150BPMで生き生きと脈打つギターとドラム。これでベースが打ち込みじゃなく生音ならもっと凄いんだろうけど、二人だけでも十分、ぶっ飛びそうなサウンドだ。
でも酔いしれはしない。緊張もない。ちゃんと音を聴く余裕がある。その土台はこの一ヶ月半で培った自信と覚悟。俺もこのバンドの一員として、これだけの人の前で歌う資格がある。
いや、そんなもんなくたって、歌ってやるさ。
奏多のドラムという風は勢いを増し、さらに陸の奏でるギターの波が加わり、その唸りを強く激しくする。
さぁ。次はいよいよ、俺の番。身構える必要はない。ただ素直な歌声を、その波風に乗せてやるだけでいい。
静かに呼吸を整え、歌い出しのタイミングを見計らっていた、その時だった。
「響ー! 頑張れー!」
大歓声を割り、凛とした声が俺の名を呼んだ。
琴音!? 来てるのか、この会場に!? そんな……
俺の大好きな、でも今は、一番聞きたくなかった声。
瞬間、これまで積み上げてきた自信や覚悟、その他諸々が全て崩壊し、頭が真っ白になった。
いつもそうだ。ガキの頃からずっと、俺は失敗ばかり繰り返してきた。
彼女の前でだけは緊張せずにいられないのだ。
野球も。サッカーも。バスケも。吹奏楽も。水泳も。陸上も。テニスも。
琴音が見ている前では、カッコ悪いところを見せたくないという感情が冷静な思考の邪魔をし、結果、大失敗に終わってしまう。
いつも、今回も。
俺は何も変わっていない。でも嫌だ。嫌だ! 今日だけは失敗したくない! あぁでも、そう思うだけで……
無慈悲にもイントロは終わりへと向かう。
もうマイクを握る手の感覚が無い。口が渇き、汗が吹き出し、足元から震えが迫る。
震えはふくらはぎから太ももを伝い、腰を駆け上がり、肩を強張らせ、そしてとうとう、喉奥にまで到達した。
もうダメだ。絶望という無風に煽られながら、喘ぐみたいに息を吸う。喉を支える筋肉がピクピクと痙攣し、吐き出された第一声は……ゆらいでいた。
会場全体が息を呑むのが分かる。刹那、あんなに探しても見つからなかった1/fゆらぎの正体に、俺は唐突に思い至った。
新歓ライブ。その日、体育館は文化祭ライブの時以上の大歓声に包まれた。




