#6
奏多と話したその足で、俺は約二ヶ月ぶりに部室棟に向かった。
理由はシンプルに、陸に先日のライブのことを謝るため。
というのも奏多に謝罪を済ませた時、自分が少しだけ前に進めたような感覚があったのだ。もちろん元々、友人としていつかは面と向かって謝りたい気持ちはあった。けどそれだけじゃない。
たぶん、ようやく特別じゃない自分と向き合うことができたから。
今まで張ってきた虚勢や、吐いてきた嘘。
それらを謝るということはつまり、自分が特別じゃないと認めることでもある。
凡人である自分を受け入れなければ、俺は永遠に次に進めない。
そう、次に進まなければ。軽音部を辞めて、次の特別を探しにまた部活を転々とするのだ。今までだってずっとそうしてきた。
そのためにも、陸に謝罪しバンドを脱退して、けじめをつけなければならない。
進むんだ、前に。
だけど一方で、そのことを思うと足が鉛のように重くも感じた。
前向きな決断のはずなのに、なぜ。
俺はカタツムリのようにゆっくりとした足取りで、軽音部室の前に辿り着く。久しぶりに対面した部室のドアは、なぜだか前よりも煤けて見えた。
なかなか入る決心ができず、外からそっと中の様子を窺うと、楽器の音がしないかわりに、今までより明らかに人の声が多いことに気付く。
そうか。奏多の動画がバズったから、今年は入部希望者が多かったのだろう。
意を決して震える手でドアを開ける。案の定、元々狭い部室は人でパンパンになっていた。その中心で一年生に説明を行っている黄土色のネクタイが……陸だ。
あんなふざけたやつがちゃんと先輩をやっている姿に、辞めるとはいえ、仮にも軽音部員として後ろめたさを覚える。
「お! 君も入部希ぼ……う……」
俺と目が合った陸は、ゲーム画面のフリーズみたいに数秒固まった。が、突然大股でずんずんと俺に近づき、手首を強く掴む。
「ちょっとこっち来い!!」
あまりの剣幕に呆気にとられた新入生たちを残し、陸は部室のドアを乱暴に閉めた。俺は陸に大人しく引っ張られ、来た道を戻ってゆく。
辿り着いたのは、最近いつもお昼休みにお世話になっていた屋上近くの階段裏。
俺は胸ぐらを陸に締め上げられ、背中から壁に向けて押し付けられた。あまりの勢いに、ウ゛ッとくぐもった声が漏れた。
「てめぇ……今更どの面下げて部室来てんだよ」
「……ごめん」
「何がごめんだ? 皆に迷惑かけて……俺の信用を裏切って」
「……」
正直言って陸がここまで怒っているとは思わず、戸惑った。いや、怒って当然なのだけれど、奏多があまりにいつも通りだったから、それに陸はいつもひょうきんなイメージがあったから、勝手に安心していたのかもしれない。
ここにきてようやく、俺は自分のしでかしたことの重大さを理解した。
陸はチッ、とわざとらしく舌打ちをした。
「お前さぁ、俺が何で怒ってるか分かってんのか?」
「そりゃ、せっかく俺の声を見込んでスカウトしてくれたのに、期待に応えられなくて……」
「ちげぇちげぇちげぇ! お前は全っ然分かってねぇ!」
陸は俺の胸ぐらから手を離した。そして間髪あけず、俺の胸をどんと突き飛ばした。俺はよろけ、尻もちをつく。
「! ……いってぇ……何もそこまでしなくても」
「俺はお前に『バンドは好きか』と聞いた。そしてお前は『もちろんだよ』と言った。俺はそれを信じたんだ。なのに、なのにお前は……」
「え?」
そういえば、そんな会話をした気がする。だけどその時は自分を守る嘘で手一杯で、あまり深く考えずに返事をした記憶がある。
それの何がこんなに陸を怒らせているのか、俺には理解できなかった。
陸の怒りは収まらない。
「1/fゆらぎだかなんだか知らねぇけど、俺にとっちゃそんなもんはどうでもいいんだよ! ただ、お前が大事な初ライブを、バンドを投げ出したことが許せねぇ!」
「どうでもいいって、それがあったからお前は俺を勧誘したんだろ?」
「あぁーもう!!」
陸はイライラがピークを越したように頭を掻きむしる。
「あのライブの後、四宮が俺のところに来たんだよ」
急に琴音の名前が出てきて、どきりと心臓が跳ねた。
「それであいつなんて言ったと思う? 『響をバンドから解雇しないであげて』とか、『やっと見つけた好きなことなの』とか、『きっと何か理由があったはず』とか」
嫌な予感がした。
「こんな逃げ腰野郎の肩持つとか、馬鹿じゃねぇの! 良い人アピールでもしてるつもり……!」
陸が言い切る前に、俺は弾かれたように立ち上がり、渾身の右ストレートを陸の左頬に叩き込んでいた。陸は身体ごと後ろに吹っ飛び、背中から地面に勢いよく打ち付けられ、声にならない声で喘ぐ。
じんじんと痛む拳骨を気にも留めず、俺は仰向けに転がった陸を睨む。
許せない。陸ではなく、自分が。
俺が不甲斐ないせいで、また琴音のことを悪く言われてしまった。言わせてしまった。
だけど今俺はその怒りを自分ではなく、目の前の相手に理不尽にぶつけたかった。腹が立つ。どうしようもなく。琴音という免罪符を手に、俺はもう一度拳を固く握り締めた。
陸はゆらりと立ち上がり、「やりやがったな!」と俺に向かってきた。ギターを弾くためにある陸の綺麗な指先が、乱暴に俺の髪の毛を引っ掴む。
「いってぇな! やめろ! ハゲるだろうが!」
「ハゲちまえこのボケ! 俺がどんな気持ちでお前をバンドに誘って……」
「知るか! てめぇこそ、なんてことを言おうと……」
陸の腹に蹴りを入れ、怯んだところでもう一発殴りかかる。が、今度は躱され、カウンターを右頬に食らい吹っ飛ぶ。口から飛んだ血が床を汚す。
すぐさま飛び起き、頭から陸の鳩尾に向けて突進する。ゴフッ、と陸は唾を飛ばしながら仰け反るが、回転を利用して左腕を鞭のようにしならす。陸の左拳がアゴ先を掠めると、脳が揺れた俺は膝から崩れ落ちる。
膝をついた体勢から、覚束ない右足で陸の両足を払う。陸はすっ転ぶが、落下の勢いで肘鉄を俺の脇腹にお見舞いする。俺は痛みにもがきながら陸の腕を取り、見様見真似でプロレス技みたいに締め上げる。
もうお互いがむしゃらだった。
いくら人目のない階段裏といってもやりすぎたのか、騒ぎを聞きつけた体育の先生がやってきて、俺たちは無理やり引き剥がされた。その頃には二人ともボロボロだったけれど。
その後、俺たちは職員室に連行されこっ酷く叱られた。並んで叱られていたのに、その間俺たちの目が合うことは一度もなかった。
保健室でも並んでベッドに座らされた。保健室の先生は熱い青春のワンシーンの目撃者でも気取るように「女の子の取り合い? 良いわねぇ」なんて言ってきたが、俺たちはお互い無視を決め込んだ。
「はぁ、つまんない」先生は消毒液の染み込んだ綿を傷口に強く押し当てた。あまりの痛さに悲鳴を上げそうになったが、陸の手前意地を張って最後まで歯を食いしばって耐えた。
治療が終わり、お互い無言のまま保健室を出る。俺は左に、陸は右に歩き出す。
「おい、響」
後ろから声がした。俺は振り返らずに立ち止まった。
「俺がお前をバンドに誘ったのは、お前が特別だったからじゃない。お前となら、最高のバンドが作れると思ったからだ。だけど、俺の見込み違いだったみたいだな。残念だよ」
それだけ言い残し、寂しげな足音を鳴らし始めた陸。俺はその言葉の意味を考える気力も無く、しばらくその場に立ち尽くした。
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その後、顔や手足に絆創膏だらけのみっともない格好で、俺は学校の屋上に寝そべっていた。
別にやることなんてないから帰るべきなんだけど、こんななりだと母から何があったかしつこく聞かれそうで、なんとなく帰る気になれなかった。
つまるところただの現実逃避だ。
「こーんなところにいたか。もう、こっちは探し回るのも大変なんだからね」
急に後ろから声がした。上半身だけ起き上がって振り返ると、屋上ドアを開けた琴音が腰に手を当てて立っていた。風でスカートが翻っており、俺は慌てて目を逸らす。一瞬だけ、右太ももに生々しい傷痕が見えた。
琴音の影はのそのそと俺に近づき、俺の左隣で立ち止まる。
「少し話、いい?」
琴音は右脚を庇うようにゆっくり腰を下ろすが、途中、よろめいて俺の肘と肘がぶつかった。心臓のBPMが一気に高まる。
こんな時にも恋愛脳か、と自分で自分にうんざりした。
「聞いたよ。陸くんと喧嘩したんだって?」
「……陸から聞いたのか? 仲がよろしいことで。それに、ライブの後にも陸に余計なこと言っただろ。お節介なんだよ」
攻撃的な言葉が口をついて、ますます自分が情けなくなる。
だけど、さっきまで大喧嘩していたやつの肩を持たれているようで、気に食わないのは事実だ。
「違う違う。喧嘩のことは噂で聞いただけだよ? ライブの後のことは、ごめん」
そう言って琴音はフッと力なく笑った。
その後、しばしの無言が訪れる。先に沈黙を破ったのは琴音だった。
「バカ響」
一言、そう吐き捨てられた。それだけで、琴音が今の俺にどんな感情を抱いているのか手に取るように分かった。奏多的に言えば『失望の色』ってやつだ。
琴音は話を続ける。
「陸くんが、どうして響をバンドに誘ったか分かる?」
「……俺が1/fゆらぎを持った特別な声だったから」
「違うよ。そこが響の勘違いしているところ」
琴音はそう言うと、足を前に投げ出し、両手を身体の後ろでつく楽な体勢に切り替えた。話が長くなるということだろうか。
「あのね、私、中二の時陸くんと同じクラスで、別に仲が良いわけでもなんでもなかったんだけど、」
そういえばそうだったなと思い出す。そもそも、俺と陸が友人になったのは中学三年生で同じクラスになった時で、それ以前の陸のことはあまり知らない。
ただ、有名人だったから琴音と一緒のクラスなことだけは認識していた。
「ある時、二人で日直になったことがあって、放課後の教室でいろいろ話したんだ。ほら、私たちってお互いいろいろあってさ、注目されて嫌なこととか。それで愚痴を吐き出し合うような感じで」
そんなことがあったなんて知らなかった。きっと俺には分からない、特別な人間同士だけで分かち合える苦悩みたいなものがあったのだろうか。
「その時に聞いてみたんだ。『ねぇ、陸くんが固定のメンバーでバンド組まないのはどうして?』って。当時から、それは結構有名だったじゃない? だからほんの興味本位で。そうしたら、『絶対他の人には言うなよ』って言って教えてくれたんだけど」
「それ俺に言っていいの?」
「バカには言わないと分からないから仕方ないの! いいから黙って聞いてて!」
真っ当な指摘をしたはずなのに怒られた俺は、シュンとして言われたとおり黙る。しかも、よりによって琴音に馬鹿呼ばわりって。
琴音は少し躊躇うような様子で長い睫毛を伏せた後、フゥと一つ罪悪感混じりのため息を吐き、口を開いた。
「陸くんのお父さん、ほら、あの有名なプロギタリストの人ね? その人は、昔からすごい音楽一筋な人だったんだって。何かあるたびにギターが〜音楽が〜って言って、陸くんも、元々はギターなんて興味なかったのに、物心ついた時には子供用ギターを握らされてたって」
「ふぅん」
「でもね、陸くんが小学校高学年ぐらいの頃って言ってたかな、陸くんのお父さん、突然バンドを解散しちゃったんだって」
「あぁ」
それは知っていた。テレビでニュースにもなっていたから。
「方向性の違い」なんていうよくある言葉で報道されたその一件は、円満解散だとも伝えられ、世間的な注目もすぐに別の不倫だのなんだのの話題に取って代わられていた気がする。
そもそもバンドの解散なんてよくある話すぎて、一々覚えちゃいられないけど。
「でね、その解散の理由が、」
だから、方向性の違いだろ?
「陸くんのお父さんが、音楽に対する情熱を失くしちゃったからなんだって」
「え」
掠れた声が喉から漏れた。
「最初はちょっとした作曲に対する行き詰まりだったんだって。でもそれが日に日に負担になっていって、ある日、全部を投げ出してしまった。
毎日毎日音楽の話ばかりしていたお父さんが、突然、熱が冷めたみたいに何も話さなくなって、陸くんがギターのことを教えてもらおうと尋ねても『そんなもん、さっさとやめちまえ』って」
「……」
「陸くん、それが相当きつかったみたい。大好きだったお父さんが変わってしまって、おまけに、奥さんとの仲も険悪になっちゃって。今、陸くんの家にはお母さんしかいなくて、お父さんとは別居状態みたい」
そんな話、テレビでは一切報道されていなかった。それどころか、今だって陸のお父さんは個人で音楽活動を続けているもんだと。
今度は黙れと言われたわけでもないのに、黙らざるをえなかった。音楽を投げ出したという陸のお父さんと、ライブを投げ出した自分が重なってしまったから。
「だから陸くんは決めたって言ってた。自分がバンドを作る時は、どんなことがあっても絶対に音楽を諦めない本当の音楽好きだけを集めた最高のバンドを作りたいんだって。
ねぇ、もう一度聞くよ。なんで陸くんが、響をバンドメンバーに選んだか分かる?」
……つまり、陸が俺をボーカルに勧誘したのは、俺が特別な声を持っているからじゃなかった。
陸は、俺が本当の音楽好きだと思ったんだ。なぜそう思ってくれたのかは分からないけど、とにかく、俺の音楽への情熱に期待して最初のメンバーに選んでくれた。
『お前、バンドは好きか?』
かつて陸に言われ、さっきも持ち出された言葉を、もう一度思い出す。陸は俺が「もちろんだよ」と答えたから、個人練習も任せてくれたし、ライブ当日も最後まで信じて待ち続けていてくれたんだ。
そうであるならば、俺はただ迷惑をかけただけじゃなく、陸の心に対して酷い裏切りをしていたことになる。
ちょっとだけ、さっきの陸とのやり取りを後悔した。
「私、知ってるよ」畳み掛けるように琴音が続ける。
「響はずっと私のために、特別になろうとしてくれてたんだよね?」
喉からひゅっと変な音が漏れたが、なんで知ってるんだとは言わなかった。薄々バレていると思っていたから。琴音は馬鹿のくせに、こういう時だけは鋭いんだ。
そしてそれは同時に、琴音が俺の好意に気付いていたことが確定した瞬間でもある。不思議なことに、照れや浮ついた気持ちは微塵も湧いてこなかった。
「私はね、響。陸くんが響をバンドメンバーに選んだって聞いた時、すごく嬉しかったんだよ? 響にもようやく本当に好きなものが見つかったんだって。響も自分で言ってたじゃん、『バンドは楽しい』って」
「それは……」
俺は言葉に詰まる。
あの時バンドが楽しいと言ったのは、ただ、そこにいれば特別な自分になれたから。そして特別になりたかったのは全部、琴音の隣にいたかったから。の、はず。
だけど自分自身、それだけでは納得できない何かがある気もしている。
なんなんだこのモヤモヤは。
「ねぇ、響」琴音は懇願するように言う。
「私は走ることが好き。そこに理由なんてないの。もしかしたら、最初はたまたま足が速かったから始めただけかもしれない。
だけど今はただ、もう一度走りたい。遅くてもいい。前と同じじゃなくたっていい。身体が風と一体になるあの感覚を、もう一度感じたいだけ」
「琴音……」
「だから響も、特別とか私のこととか全部取っ払って、好きなことと本気で向き合ってみて」
「好きなことと、本気で……」
俺は考える。「好きなこと」と琴音は言うけれど、俺は本当にバンドが好きなのだろうか?
俺がバンドを始めたのはさっきも考えたように、そこでなら特別になれたからだ。でもそれは、自分も同じなのだと琴音は言う。
じゃあ、その先は?
1/fゆらぎを失った後、一度でもバンドを楽しいと思わなかったか?
前と同じじゃなくても、もう一度得たい感覚はないか?
俺は今バンドを、音楽を、どう思っている?
「じゃあ、もう行くね。今日もリハビリあるから」
琴音はゆっくりと立ち上がり、歩き始めた。
ずりずりと引きずられる右脚は意志を持たない肉塊のようで、以前会った時から全く回復しているように見えない。
それでも彼女は俺に助けを求めなかった。
ドアが閉まる音を聞いた後、俺はもう一度仰向けに寝転がり、鬱陶しいほど晴れ渡った春の空を眺める。
ひこうき雲が三本と、飛んでゆくツバメが数羽見える。なんだか五線譜と音符みたいなぁなんてふと思っている時点で、答えはもう胸の内にあったのかもしれない。




