#5
それから俺は軽音部室どころか、部室棟にすら一切寄りつかなくなった。寄りつけなくなった、の方が正しいか。陸にも奏多にももう合わせる顔がない。
毎日授業の合間の休憩時間はトイレの個室にこもり、お昼ご飯は誰も使わないような屋上近くの薄暗い階段裏でひっそりと済ませ、帰りのホームルームが終わる前に逃げるように校舎を後にする。
今更バンドマンの基本を身に着けたところでもう遅いのだが、そうではなく単純に、誰にも捕まらないように早く帰るためだ。
こうして人から逃げ回る生活をしていると、昔を思い出す。
まだ琴音と仲良しで、毎日一緒にいたあの頃。ある日を境に、俺は琴音と距離を置くことにした。
その時もこうして、あの手この手で逃げ回っていたっけ。琴音は足が速いから、捕まらないためには見つからないようにする以外に方法はなかった。
琴音は最初こそ俺を探し回っていたけれど、しばらくしたら向こうから接触しようとしてくることはなくなった。
会いたくないという俺の気持ちを察してくれたのかもしれないが、それはそれで寂しかったことを今でも覚えている。
だけどそれが当時の俺にとって正しい選択だった。最近になってまた琴音と話すようになったのは、俺にそうする資格ができたからだ。
1/fゆらぎ。その特別が俺と琴音を繋ぐ架け橋だった。
だからそれを喪失した今、俺はもう琴音に会うことはできない。
そうこうしている間に三学期が終わり、春休みも何もしていないうちに過ぎ去り、俺は二年生に進級した。
新クラスでも俺は琴音、陸、奏多の誰とも同じクラスにならずに安堵した。
のも束の間。新学期、さすがに初日からホームルームを抜け出す勇気はなく、先生の話をちゃんと最後まで聞き、終わったらすぐ、帰ろうと玄関までダッシュする。
すると、玄関前に新入生と思われる赤リボンの集団が大きな塊を形成していた。なんだろうと思いそっと覗いてみたら、その中心にいたのは奏多だった。
困ったような顔で頭を掻く奏多の姿に、そういえばと思い出す。
先日の送別ライブ。再び誰かが撮った動画、タイトルは『盲目の天才ドラマー』。それがSNSにアップされ、大バズリしていたのだ。
要するに奏多は今、ファンに囲まれているわけだ。いつかの自分を思い出し惨めになった俺は、足音を潜めてそっとその塊の脇を通り過ぎようとした、その時だった。
「響くん!? 響くんだよね!?」
奏多が突然声を上げた。聞いたこともないほど大きな彼の声に、俺はびくりと肩を揺らした。
「待って! 行かないで! 助けて!」
切羽詰まった言葉に思わず足が止まる。さすがにこの状態で見捨てて逃げるほど、俺は人でなしではなかったらしい。
「はいはい、皆。彼困ってるみたいだから、今日のところは解放してあげて」
俺は交通整理でもするみたいに手で解散を促す。女子生徒たちは「ちぇー」だの「誰あいつ」だの言いながら、少しずつ離れて行った。
そして最後の一人が行ったところで、俺は奏多と二人きりになる。「じゃあ、これで」と逃げようとした俺の手を掴み(見えないのにどうやって!?)、奏多はニヤリと笑った。
「やっと捕まえた」
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「困ってるふりして俺を引き留めたのかよ、お前」
「ふふ。彼女たちには悪いことしちゃったな」
中庭のベンチ。久しぶりに話す奏多は意外にもいつもと変わらない穏やかな雰囲気だった。てっきり、出くわした瞬間怒鳴られるものかと思っていたのに。
それにしても。
「なんで俺だって分かったんだ? 俺、声出してなかっただろ?」
「足音だよ」
「足音!?」
「響くんの足音の色が見えた」
こいつはまた、こんなことを……
「良いよな。お前は特別で」
思わず口からこぼれていた。それが失言だったと気付いたのは、眉間に皺を寄せた奏多の顔を見た時だった。
「ご、ごめん! 奏多! なりたくてそうなったわけじゃないのに、俺は……」
「や、違うよ。大丈夫。怒ってないから」
「でも、」
「単純にびっくりしたんだ。本心から羨ましがられたことなんて、初めてだったから」
そう言って奏多は笑った。そういえば、奏多にいつか聞いてみたいと思っていたことがあったのを思い出した。
「俺が嘘吐いてるって分かってたんだろ? ずっと病院行ってるって話とか、陸と声帯イップスの話してた時とか。あと、琴音と話してた時も。なんで、黙っててくれたんだ?」
「別に。響くん、何か言いたくない事情があるみたいだったから」
少し反り返った前髪の先を弄びながら、奏多は言う。
……ずっと奏多のこと、すべて見透かされているようで苦手だと思っていたけれど、見識が狭かったかもしれない。彼の醸し出す優しい雰囲気に、少しずつ心を開き始めている自分がいた。
「僕からも一つ、聞いていいかい?」
「なんだ?」
「響くんはたぶん、『特別』というものに執着してるよね。異常なほどに。良かったら、その理由を聞かせてくれないかな」
「……やっぱり、全部お見通しなんだな」
「なんとなくだけどね」
フフッと柔らかく笑う奏多に、今なら何でもさらけ出せそうな気がした。いや、どうせ隠しててもバレるんだ。全部話してしまおう。
俺は言葉を選び、ゆっくりと俺の物語を話し始めた。
「俺さ、その、好きな人がいて」
「ああ、四宮さんのこと?」
話始めた途端、出鼻を挫かれた。
「はぁ!? なんでそんなことまで分かるんだよ!」
「僕が四宮さんと話してる時、嫉妬の色がものすごかったから」
恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
さらに奏多から「でも、あれは僕じゃなくても分かったと思うよ」と追撃。本当に火が出る前に、俺は話を先に進める。
「とにかく! 俺は琴音といわゆる幼馴染ってやつで、小さい時はずっと一緒にいた。幼稚園も小学校も、近所の野山の探検も、家族連れのちょっとした遠出も、全部。一緒にいない時間を探す方が難しかったぐらいだ」
「へぇ、それは仲が良ろしいことで」
「うるせぇ……まぁでも、大人になるにつれてだんだん自分の世界って広がっていくだろ。俺たちもそうだった。具体的に言えば、部活。小学四年生から始まって、俺はソフトボール部、琴音は陸上部に入った」
奏多は微笑ましそうに頷いた。
「俺はまぁ、普通の選手だった。ぎりぎりレギュラーには入れるけど、特別見るところはないみたいな。それでもそこそこ満足はしてた。対して琴音は……天才だった」
「そりゃ、僕でも知ってたぐらいだからね。同じ高校になる前から」
「最初は単純に鼻が高かった。『俺の幼馴染はこんなにすごいんだぞ! どうだ!』って。無邪気に琴音の活躍を喜んでた。何より、誰よりも楽しそうに走る琴音の姿が大好きだった」
話しながら蘇る。そうだ、あの頃の俺は琴音が楽しそうにしているのが嬉しくて仕方なかった。帰れるなら、純粋だったあの頃に帰りたい。
だけど現実はそうはいかなかった。
「小学校の頃は問題なかった。俺が琴音と一緒にいても、『あいつら幼馴染だもんな』で済んだ話だったから。でも、中学になったら周りの環境が変わってしまった」
「うん」
「俺は周りから嫉妬されるようになった。『なんで何の取り柄もないあんな奴が、琴音と一緒にいられるんだ』って。きっと男同士とか女同士ならそんな嫉妬もなかっただろうけど、事実、そうなってしまった。琴音は男子人気もすごかったからな。
すぐに結構過激なイジメが始まった。とはいえ、そんなの屁でもなかった。琴音と一緒にいられる時間が、俺にとっては何よりも大切だったから」
ノートをゴミ箱に捨てられようが、上履きを隠されようが、陰でグチグチ言われようが。琴音と話すだけでどんな嫌なことも全て吹き飛んだ。自分で言うのもなんだけど、俺は本当に琴音のことが大好きだった。
「けど、どこかで俺がイジメられていることを察した琴音が、直接イジメの首謀者たちのところに乗り込んで、文句を言ってしまった。それでどうなったかというと、奴らは……琴音のことを悪く言うようになった」
「……」
「『あんな奴の肩を持って、良い奴アピールかよ』って。愕然としたよ。俺が凡人なせいで、俺を守ろうとした琴音まで悪く言われてしまうのかって」
俺と奏多との間に四月とは思えないほど冷たい風が吹き抜けた。
奏多は何も言わなかったが、神妙な表情から続きを促されていると解釈し、俺は話を続ける。
「それで俺は気付いた。特別な存在じゃなければ琴音の隣に立つ資格はないんだ、って」
「なるほど。それから、響くんはどうしたの?」
「まずは琴音と距離を置くようにした。たまに話すことはあっても、いつも一緒にいることはやめた。それで、とりあえず琴音に対する悪口は収まった」
「うん」
「でも俺はやっぱり諦めきれなかった。琴音と一緒にいたい。だったら、俺が特別になるしかない。さしあたって、当時入ってた野球部を退部した。頑張っても未だにレギュラー当落線上みたいなレベルだったから、見切りをつけた」
奏多はようやく事情が飲み込めてきたようで、深く頷いた。それが俺の行動への肯定を示すのかは分からないけど。
「それからはいろんな部活を転々としたよ。サッカー、バスケ、吹奏楽、水泳……琴音の真似して陸上にも手を出したり。高校ではテニスも始めた。だけど、全部ダメだった」
「なるほど……でも、才能があるかないかなんて、そんなすぐに分かるもんじゃないんじゃ」
奏多の言うことはもっともだ。だけど問題は、才能以前のところに落とし穴を広げていた。
「その……琴音に見られると、ダメなんだ」
「え?」
「俺がどんな部活に入っても、琴音は応援してくれた。あいつ的には、俺がずっと『好きなこと探し』をしていると思っていたみたいだけど」
「うん」
「琴音は自分の部活と日程さえ被らなければ、毎回俺の試合や大会の応援に駆けつけてくれた。それがいけなかった」
「え?」
「その、琴音に見られていると思うと緊張して……頭が真っ白になって、身体の芯から震えてきて……練習ではできていたことが全くできなくなって、いつも取り返しのつかない大失敗をしてしまったんだ」
「なんと」
「で、なんとなく部内に居辛くなって、結果転々とせざるを得なかったって話」
「お、おおう……」
奏多は今までと違った意味で絶句したようだった。しかしそれは俺にとって正真正銘大問題だった。
「琴音と一緒に居るために特別になりたいのに、琴音がいると失敗してしまう。特別になれない。俺はどうすればいいか分からなかった……そんな時に出会ったのが、バンドだった」
俺は遠い昔でも思い出すように目を細めた。
「あの日……奏多も動画で聴いたって言ってた、文化祭ライブの日。琴音もその場にいたんだ。客席の中に琴音の姿を見つけた俺は、いつも通り頭が真っ白になって、今回も失敗するんだと思った。結果は、奏多も知っての通り」
「そっか。それで響くんは、四宮さんが観ていても成功できたバンドと、1/fゆらぎという特別に執着していた」
「ああ」
「けど、その特別は一度きりの偶然だった」
「……やっぱりバレてたか。さすがだな」
俺はがっくりと項垂れた。今、はっきりと確定した。怖くて今まで聞けなかったけれど、奏多の耳が「一度きりの偶然」というなら、やはりそういうことだったのだろう。
俺の声は最初から特別なんかじゃなかった。
琴音の隣に立つ資格を得たと思ったのは、幻だった。
「あーあ。何やってたんだろうな、俺は」
独り言のように呟く。返事を求めたわけじゃなかったけど、奏多は静かに口を開いた。
「ねぇ。響くんは、バンドは好き?」
「へ?」
「あ、もういいや。分かった。大丈夫」
奏多は突拍子もない質問をしたと思えば、一人納得顔をしている。俺は首をひねって尋ねる。
「分かったって、何が?」
黙ったままニヤニヤする奏多。どうやら、説明してくれる気はないらしい。
……いや、意味が分からない。何が「分かった」?
あぁ、俺が本当はバンドを好きじゃないってことだろうか。
正直な話、自分の声が特別じゃないと分かった今、バンドに執着する理由はもうない。軽音部も、辞めるつもりだ。奏多は今のやりとりだけでそれを確信したのだろうか。
そうだとしたら、嬉しそうな顔をされるのはさすがにちょっと悲しい。
「響くんはさ、ごちゃごちゃと考えすぎなんだよ。捻くれてるっていうか。もっと、シンプルに物事を考えていいと思うよ」
「は、急に悪口?」
また俺の問いには答えず、奏多は「よっこいしょ」と言って立ち上がった。もう行ってしまうらしい。久しぶりの穏やかな時間の終わりが、少し寂しかった。
奏多はいつものように白杖で行く先を確認しながら数歩、急に立ち止まり、俺の方を振り返った。
「そうそう。言い忘れてたけど、もう一つだけ伝えたいことがあったんだった」
「? なんだ?」
「四宮さんは逃しちゃダメだよ。あんな素直でまっすぐな声の人、めったにいないから」
俺は自分の頬がボッと熱くなるのを感じた。「余計なお世話だ!」と返すと、奏多はあははと朗らかに笑って背を向けた。
俺はその背中に向けて、大声で叫んだ。
「奏多! この間のライブの時は、本当にごめん!」
奏多はまた何も言わず、ただ白杖を持っていない左手をひらひらと振り、今度こそ去って行った。




