#4
翌日。
「なにぃ!? 変態ヒップス!?」
「声帯イップスだよ、馬鹿」
楽器の練習音でうるさい軽音部室に、陸の絶叫がこだまし、練習の邪魔をされた部員たちは鬱陶しそうに顔をしかめた。
俺は大事にしたくないので、小声で返した。
「昨日診断されたんだ。実はずっと、歌う時に声が出しにくい感じはしてたんだけど」
思ってもない嘘を平気で吐く。今、奏多はまだ部室に来ていない。
あの陸と奏多との三人でのセッションの後、俺はもう一度病院に訪れた。
せめて部室で吐いた嘘を後付けでも本当にしたかった。診断結果は異常なし。だけど、それでは俺が困る。なんとかもう一度歌えない免罪符を発行してもらわねば。
俺は医師に、自分の声がいかに以前と変わってしまったのかを力説した。
「まぁ、以前は出ていた声が出ないとなると、声帯イップスの可能性はあるかもしれないけど、でもそれにしては……」
医師は首を捻りながらそう言った。
「っしゃー!!」
「だから、なんで嬉しそうなの? 君は」
イップス。重々しげなその言葉を何とか引き出し、俺はガッツポーズをした。これでまたしばらく1/fゆらぎが出せない言い訳ができた。俺が特別な存在である余地が残された。
「医者の話によると、イップスっていうのは失敗のトラウマとか、心因的な原因で起こるらしい。俺の場合、風邪で本領を発揮できなかったクリスマスライブが尾を引いているのかもしれない」
もっともらしい嘘がぽんぽんと出てくる自分の口に呆れる。
だけど筋は通っているはず。
「でも、全く歌えないわけじゃないんだろ? だったらとりあえず今の……」
「それと、歌の練習はしばらく一人でやらせてほしい」
「は? なんで」
「もしかしたら、『人に見られている』っていう状況もイップスの原因じゃないかと思うんだ。だから、回復の目処が立つまでしばらく個人練習にしたい。ちゃんと毎日練習はするから。な、いいだろ?」
「……」
苦しい言い訳だっただろうか。これももちろん嘘だ。本音を言えば、奏多と一緒に練習するのが怖いだけだ。
嘘で塗り固めた本性が暴かれてしまいそうで。
陸は少し悩んだ後、珍しく、真面目な顔で口を開いた。
「響、お前、バンドは好きか?」
急に話が変わった気がして俺は戸惑ったが、「もちろんだよ」と答えた。
すると陸は「じゃあ、お前に任せる」と相好を崩した。良かった。 あとは送別ライブまでの一ヶ月半のうちになんとか、本来の声を取り戻せばいい。それが無理なら、一から創り直せば。
俺は気合いを入れて「じゃあ今日は失礼するよ」と言って部室のドアを開けた。
そこには奏多が立っていた。「うわぁ」と情けない声を上げた俺に対し、全く驚いていない奏多の様子を見るに、外から話を聞かれていたのかもしれない。
途端に緊張が張り詰めて、頬の筋肉が引き攣った。
「響くんかい? 今日は帰るの?」
「ああ」
理由を聞かれたら、なんと答えよう? いや、どう答えようと手詰まりだ。奏多には嘘は通じない。
だけど、奏多は単に「そっか。じゃあ、またね」とさらっと言った。まるで触れられたくないことを知っているかのように、物分かりよく。
ホッとした俺は「また」と答えて、そのまま通学路にあるカラオケ店へと向かった。
カラオケ店など一度も入ったこともなかった俺は、店員さんに「ご希望の機種は?」と聞かれて固まった。すると店員さんは苦笑いしながら、
「どれでも有名どころはだいたい入ってますよ。お悩みのようでしたら、DAMの最新のものでどうでしょう?」
と言うので「それで」と思考放棄気味に答えた。
良く考えたら、初心者で一人カラオケに来る人なんてあまりいないのだろう。俺は心細さに縮こまりながら、ドリンクバーで温かいコーンポタージュを入れ、指定された部屋に入る。
部屋の中はなぜか外より寒く感じた。すぐさまエアコンの電源を入れ、ドリンクを一口啜る。
機械の使い方も案の定よく分からなかった。それでも画面の指示に従いながら、とりあえず人気ランキング上位の曲を入れてみる。
二時間もあるんだ。とりあえず何でも歌ってみよう。
「〜♪」
あぁ、歌うのって気持ちいい。陸や奏多の演奏を知っている分、カラオケ特有のチャチな音が若干気になるけど。
俺は自分で聴き直すためにダウンロードした録音アプリを使うのも忘れ、ひたすら歌い続ける。
そして一時間経過。
「やばっ! 練習、練習!」
俺は壁についた電話機でフロントに一時間延長の連絡をし、文化祭で歌った曲を予約する。こんなマイナー気味の曲まで入っているなんて、カラオケってやつはすごいんだなと感心した。
息をそっと吸い、やはり陸のそれよりチープなリフの終わりを合図に、丁寧に歌い出す。ピッチは取れている。ブレスも、文化祭の時どうだったかは覚えてないけれど、きっと上手くコントロールできている。技術は比べるまでもなく上がっている。
あとは1/fゆらぎが戻ってくるだけ。それで全てが解決する。
送別ライブは大熱狂に包まれ、卒業生は感動のあまり号泣し、在校生は俺のことを褒め称える。
俺は特別な俺に戻れる。めでたし、めでたし。
曲が終わり、祈るような気持ちで録音した音源を再生する。と、俺は絶望に突き落とされた。
下手ではない。決して。けれど人の心を揺さぶる声だとは到底思えなかった。単調すぎるし、ただ音程バーをなぞるだけのロボットのようだ。
文化祭ライブの時はもっと、破裂しそうな危うさというか、荒々しくもなぜか心地良いゆれがあった。一人の人間が必死に絞り出した魂の震え?みたいな。
それがきっと俺の1/fゆらぎだ。今はそんなもの、影も形もない。
だめだ。もっと声をゆらがさないと。
だけどそうやって無理に声を変えてみたところ、不自然にピッチが乱れたり、汚いビブラートが長々と尾を引いたり、むしろ気持ちの悪い歌声になってしまった。
1/fゆらぎは、例えば川のせせらぎの音など、自然界にも多数存在するらしい。ということは、歌における1/fゆらぎも『自然な』というのがキーになるような気がする。
少なくともこんな、無理くり捻り出したようなガタガタなブレのことではないのは確かだ。
じゃあ逆に、と、今度は技術を意識せずに思い切り感情を込めて歌ってみた。もし魂の震えが1/fゆらぎなら、それを込めに込めれば自然なゆらぎが起きるかもしれない。
しかし結果は、ちょっと抑揚のついた凡庸な声になっただけだった。
早速の手詰まり感に俺はマイクを握ったまま立ち尽くす。
普通に歌ってはゆらがない。ゆらがそうとすれば、変になる。感情を込めても意味がない。
それから俺はいろいろと発声方法を変え歌い続けたが、歌えば歌うほど後戻りできないほどまずい方向に向かっているのではないかと、だんだん声を出すのが怖くなっていった。
これじゃまるで本当にイップスだ。
ここに来るまでは、まだなんとなく希望があった。一ヶ月半もあればなんとかなるんじゃないか。いろんな歌い方を試せば、きっかけぐらいすぐに掴めるんじゃないか。
俺はどうやら、歌を舐めていたらしい。
そうだった。俺は歌の「う」の字も知らないド素人だった。
あっというまに三時間が過ぎ、その間に何十回と同じ歌を歌っては録音して聴き続けたけれど、1/fゆらぎは尻尾も拝ませてくれなかった。
俺は意気消沈してカラオケ店を後にした。
/
それからは焦燥と落胆の毎日だった。
もう二月も末。迫りくる送別ライブに、家出したままの1/fゆらぎ。軽音部にも丸一ヶ月近く顔を出していない。
俺の精神は限界まで削られていた。
「よぉ、響」
ある日、隣のクラスから陸がやって来た。「やだ、弦本くんだ」と教室のドア近くにいた女子たちが色めき立つ。
俺は重い足を引きずって彼の元に向かう。
「どうだ、歌の調子は」
「……あぁ。ちょっとずつだけど、良くなっている感覚があるよ」
俺はいつからこんな嘘吐きになってしまったのだろう。自分で自分が嫌になる。
陸は「そうか」と安堵した表情を浮かべた。そりゃそうだろう。彼からしたら、1/fゆらぎを認めてボーカルにスカウトしたのに、それを失くされたなんて詐欺にあったみたいな話だ。
「どうだ? そろそろ合わせ練習でも……」
「もうちょっと! もうちょっとだけ時間をくれ。もうすぐなんだ、本当に」
時期も時期だ。そろそろ合わせ練習を始めないと本番に間に合わないということで、わざわざ教室にまで足を運んでくれたのだろう。
だけど俺はそれを拒んだ。今歌えば、これまでの嘘が全てバレる。だからそうするしかなかった。
「そうか。分かった」
陸はあっさりそう言って、自身の教室に戻って行った。その後ろ姿を見ながら俺は今更ながら不思議に思った。
陸って、こんなにあっさりした奴だっけ?
もっと強引で、自分の意見は曲げない頑固な奴じゃなかったか?
おまけにいつもみたいに変なことも言わないし。
しかし頭をもたげた疑問を考える余裕は今の俺にはない。もう時間がない。
声をゆらがさなきゃ。でも、どうすれば。
ゆらがさなきゃ。どうすれば。
ゆらがさなきゃ……
放課後。いつものようにカラオケ店に向かうため廊下を足早に歩いていると、琴音とばったり出くわした。
少し会わない間に、足のギプスが取れている。松葉杖もない。ひょこひょことしたぎこちない歩きだが、確かに自分の足で歩き、まっすぐ俺に近づいてくる。
琴音は確実に前に進んでいる。その事実は、嬉しいだけじゃない複雑な感情をもたらした。
それは自分一人が立ち止まったままだという後ろめたさのせいか。
「久しぶりだね」
「そ、そう?」
「やだ、バンドに夢中で私のことなんて眼中になくなっちゃった? 酷いなぁ。やっとまた響と仲良くなれたと思ってたのに」
冗談めかした言葉に仄暗い感情が顔を出す。俺は琴音を意識的に避けていた。今の俺は、隣に立つ資格を失効中だから。
「あ、琴音ちゃん!」その時偶然、通りかかった女子生徒が琴音に声をかけた。
「リハビリ頑張ってね! 陰ながら、ずっと応援してるから!」
「うん、ありがとう!」
琴音は笑顔で女子生徒に手を振った。
そういえば、俺が最後にファンから声をかけられたのはいつだっけ。
「ねぇ、なんか元気なくない? もしかしてバンド、上手くいってないの?」
普段は馬鹿な琴音だが、こういう時だけは鋭い。
「そんなことないよ、全然」
「本当? なんか無理してるように見えるけど」
「別に、全然」
「やっと見つけた好きなことなんだから、もっと楽しまなきゃ!」
「だから、別に……」
「もしかして、陸くんと何かあったの? それなら……」
思えば昔からそうだった。琴音はいつも俺を心配しては、余計なお節介を焼こうとする。
俺はそんな琴音が好きで、大嫌いだった。
「しつこいな! 何でもないって言ってるだろ!」
気付けば叫んでいた。一瞬の静寂の後、周りの生徒たちからヒソヒソ声が聞こえる。それは以前のように気持ちの良いものとは違う。ただただ、煩わしい。
それよりなにより、目の前の琴音の怯えたような表情が辛い。あぁもう、そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「おや? その声は響くんだね?」
気まずい空気を破り呑気な声がした。カツ、カツという廊下を叩く白杖の音に心臓が縮こまる。
奏多だ。
「えっと、鼓奏多くん、だよね? 響、知り合いだったの?」
「……うちのバンドのドラマーなんだ。陸が勧誘した」
「ドラマー! へぇ!」
こころなし、琴音のテンションが回復する。
「響がいつもお世話になっております!」
「いえいえ。こちらこそ、響くんにはお世話になっていて」
「迷惑かけていませんか? 響、何かバンドのことで悩んでるみたいで」
余計なこと言うなと止める間もなかった。奏多は「迷惑なんてとんでもない!」と大袈裟に手振りで伝える。
実際のところ、奏多はどう思っているのだろう。イップスなどと言って部室から逃げ回る俺のことを。
なんだか彼には、全部バレているような気がする。
「ところで、今更なんですけど、あなたは?」
「あ! すみません、申し遅れました! 四宮琴音と申します! 六組です!」
「あぁ、君が四宮さん! 陸上部の! お噂はかねがね……」
「まぁ今は、リハビリ中の身ですけど」
「それも聞いています。大変でしたね。陸上は小さい頃から?」
「はい! 小学生の頃から! 鼓くんは、ドラムはいつから?」
「僕も小学生の時に、偶然母が聴いていたCDのドラ厶の音に心を奪われまして」
「それで、目が見えないのに叩けるようになるなんて、きっと相当練習したんですよね」
「四宮さんも、事故に遭われても陸上を諦めずにリハビリを続けるなんて、尊敬を……」
盛り上がる二人を尻目に、俺は勝手に疎外感を感じていた。
特別な二人は根っこの部分で通じ合っているように見えて、話に入れない俺は、特別じゃないんだと突きつけられているようで。
そう。俺はもしかしたら、特別なんかじゃなかったのかもしれない。
あの日、文化祭ライブで1/fゆらぎが出せたのは、音響のせいか、あるいは体育館のコンディションのせいか、何にせよ、偶然が生み出した産物に過ぎなかったのじゃないかと。
ずっと考えないようにしていたことが、二人を見ていると自然と脳裏に浮かんできて、打ち消せる根拠などどこにもなくて。
「俺、そろそろ行くから」
俺は一方的に告げ、その場を後にしようとした。
「あ、待って! 響!」
琴音が俺を呼び止める。無理にそうしたような、明るい声だった。
「送別ライブ、頑張ってね! 楽しみにしてるから!」
俺は何も答えず踵を返した。
その日は初めて、毎日すると陸と約束した個人練習をサボった。
三年生送別ライブは、三年生の進路が大方決まり落ち着いた三月中旬の土曜に行われる。場所は当然いつもの体育館。
送別とは言っても、三年生の参加は自由だから軽音部の面々と縁のある人ぐらいしか来ないし、逆に一、二年生でも来たい人は勝手に観に来てくれ、というスタンスだ。要するにいつものライブと変わらない。
ただ、体裁上卒業ソングや応援ソングを演奏するバンドが多い。俺たちのバンドもその予定だ。ギターは陸。ドラムは奏多。ボーカルは俺。ベースは今回機械での打ち込み音源を流すため、本格的に固定メンバーのみでライブをする初めての機会となる。
「よっしゃ! 会場をどかんと沸かせてやるぜ! 俺の一発ギャグで」
「演奏でじゃないんかい!」
「あははは!」
陸のジョークに俺がツッコみ、奏多が笑う。本番を前にして、俺たちは意外なほどにリラックスしていた。
きっとさっき行った合わせが、思いの外上出来だったせいかもしれない。本番当日に初めての合わせなんて綱渡りにもほどがあるが、上手くいくなら結果オーライだ。
前のバンドの演奏が終わり、俺たちはステージに上がる。俺の立ち位置は当然センターマイクの前。
マイクの高さ以外に調整することもない俺が、持て余した暇でバンド名の由来や形式張った送辞の言葉を話す間に、陸と奏多は超速で楽器のセッティングを終える。
初MCに苦戦する間もないスピード感に心強さを覚える。
「聴いてください。―――」
演奏は静かに始まり、徐々にその勢いを増してゆく。
荒波のように激しくも色っぽい陸のギターと、突風のように爽やかで力強い奏多のドラムが、ボロい体育館をきらびやかなコンサート会場へと変貌させる。油断すると、聴き惚れて歌い出しが遅れてしまいそうだが、同じ失敗はしまい。
俺は息を思い切り吸い、そして歌い始める。
声はゆらがない。が、不思議なほどに会場は熱狂する。俺たちが奏でる音楽に何十人、下手したら百人以上の人が一つの塊となり、酔いしれる。
あぁ、気持ち良い。これがバンド……これが、音楽……
/
「……っは! ゆ、夢……?」
けたたましいケータイの着信音で俺は目を覚ました。
枕元の時計を見ると、すでに本番開始一五分前。高校までは自宅から最寄り駅まで五分、電車で二〇分、高校の最寄りから校門までさらに一〇分。
もうどうやったって間に合わない。
おそるおそるケータイを手に取ると、着信履歴には弦本陸の名前。それも何個も連続で。
胸の血管がぎゅっと縮こまり、動悸がした。
俺は陸を裏切ったのだ。それに奏多も。楽しみにしてると言ってくれた琴音も。
結局、俺は1/fゆらぎを取り戻すことができなかった。こんな俺があの特別な二人と一緒にステージに立つ資格なんてあるはずがない。
ごめん、ごめんと何度も頭の中で繰り返す。
時刻は一四時三〇分。俺たちの出番予定の時間だ。
わずか三分前まで鳴り続けていたケータイが鳴り止んだ。おそらくライブが始まったのだろう。
代わりは誰が務めているだろう。やはり奥下先輩だろうか。そうだったら、彼は喜んでいるだろうな。
まぁもう、どうでもいいや。
不貞寝しようと身体をベッドに投げ出した瞬間、またケータイが鳴った。着信じゃなくて、LINEの受信音だ。
【大丈夫?】
琴音からだった。急に自分が情けなくて仕方なくなって、涙がこぼれた。俺は既読無視したまま、今度こそケータイを枕元に放り投げて身を丸めた。




