#3
「……お互い、大変なことになっちゃったな」
「何を大袈裟な。私はリハビリすればたぶん元に戻れるし、そっちなんてただの風邪でしょ?」
「ま、まぁ、そうなんだけど……」
三学期。俺と琴音はいつものように並んで渡り廊下を歩き、それぞれの部活に向かう。
いつもと違うのは、琴音が松葉杖をついていること。右脚の腿からかかとまでを包む大きなギプスが彼女の痛みを生々しく主張していて、俺はつい目を背けた。
琴音は一旦選手登録を外れた上で陸上部に残る決断をした。今はタイム計測や練習メニュー作成などマネージャー業務で選手のサポートをしながら、裏では過酷なリハビリの日々を送り始めている。
彼女が泣き言一つ言わず能天気なのは、いつものように何も考えていないだけか、あるいは、脚よりも大切な何かが折れないように守るための強がりか……できれば前者であってほしいと願っている。
一方俺の方は、ライブ後「喉の調子がおかしい」と言い訳し、そのまま学校の近所の寂れた内科医院に向かった。
「うーん……ちょっとだけ喉の奥が赤いですね」
「つまり?」
「風邪ですね」
「……そうですか!」
「? なんで嬉しそうなんです?」
医師から下された「風邪」というなんでもない診断は俺の心を救った。1/fゆらぎが出せなかったのは、風邪のせいだったのだ。すぐさま陸に報告すると、「だから練習の時から声が違ったんだな」と今更なことを言われたが、同時に「お大事にな」と気遣いの言葉も貰えた。
最悪即バンドから解雇されることまで考えていた俺は、そうならず心底安堵した。
ただ、一方で小さな不安の火種も燻っている。今までは「まだ本調子じゃなくて」などとのらりくらりと歌うことから逃げていたが、クリスマスライブからもう三週間。風邪なんてどう見積もっても治った上でお釣りがくる。正直な話、ライブの日と今とで、喉の感覚に大きな違いは感じられない。
もし、何らかの理由で1/fゆらぎが出せなくなっていたとしたら。
……いや、そんなはずはない。と、頭に浮かんだ嫌な考えを打ち消す。
俺は特別なんだ。そして1/fゆらぎは、特別な俺に神様から与えられた贈り物だ。
そのはずなんだけど……
「よーし! 今日もリハビリ頑張るぞぉ!!」
突然の琴音の叫びに、俺はひゃっと声を上げて彼女の方を見る。その目は、メラメラと燃えているように見えた。
すごいなと素直に思った。
大好きな陸上をもう一度するためにすぐさま立ち上がった琴音は美しい。心から尊敬する。そしてきっと、そんな高潔な彼女には神様からの加護が待っているに違いない。
俺も、ようやく手にした1/fゆらぎという特別を失いたくない。
なればこそ、早く歌ってそいつが喉に戻っていることを証明するべきなのだけれど、今は、部室に行くのが少し怖い。
「じゃあ、私はこっちだから」
「ちょ、ちょっと待って!」
「ん?」
「えっと……グラウンドまで送っていくよ。ほら、荷物背負ったまま松葉杖なんて大変だろ?」
咄嗟に口をついたのは優しさの皮を被った、ただの時間稼ぎの言葉。
「えー、別にいいよ。朝だってこれで通学してきたんだもん。もう平気」
「そ、そっか」
「そんなことより、響は歌の練習頑張らなきゃ!」
何気ない琴音の言葉が胸に刺さる。俺は琴音の純粋な応援の視線を受け、とぼとぼと部室に向かった。
部室の前に行くとそこには意外な人物が立っていた。
黒髪短髪の無造作ヘアに、痩せすぎて少し骨ばった頬。異常に真っ白な肌。不健康を絵に描いたような身体で、部室のドアの前を右に左にゆらゆらしている。
手にした白杖で足元を何度も確かめながら。
その危なっかしい姿に、俺は思わず呼びかけた。
「どうかしたのか?」
「うぎゃあーっ! びっくりしたぁ!」
「あ、ごめん。ごめん」
彼は目を閉じたまま口だけをパクパクと動かしている。どうやら相当驚かせてしまったらしい。
目が見えない相手に突然声をかけるなんて軽率だったと反省するが、「こっちこそ、怪しかったですよね。すみません」と逆に謝られてしまった。
俺は少し考えてから口を開く。
「鼓奏多、だよね。三組の」
彼のことは今まで何度も見かけたことがあった。他より目についた、と言った方が適切かもしれない。
白杖を使って歩く学生なんてこの学校にはおそらく一人しかいない。そういう意味で彼は有名人であり、俺も一方的に存在を認知していた。
「奏多でいいよ。そういう君は、鳴子響くんだよね?」
「え、なんで俺のこと……」
「そりゃ知ってるよ。有名人だもん。例のバズってる動画も聴いたよ」
「そうじゃなくて、なんで俺が鳴子響だって分かったんだよ。話したことないだろ? それにその、顔も見えないのに」
「動画の歌声と聴き比べたら同じ人だって分かるよ。僕にはね。声から感じる色が同じなんだ」
奏多は得意げになるでもなくさらっと言った。
そういえば聞いたことがある。目が見えなかったりすると、その分を補うように、他の感覚が異常に発達することがあると。
奏多の場合、それが耳なのだろう。自分で言うのもなんだけれど、例の動画の時の自分の声は普段のナヨナヨしたそれとはまるで別人だ。同一人物と気付けるなんて、耳が良いなんてレベルじゃない。
「なんだなんだ? 化け物にでも出会ったみたいな悲鳴が聞こえたけど」
「ああ、陸。それが、」
「うぎゃあーっ! ……なんだ、響か」
「ぶっ飛ばすぞお前」
騒ぎを聞きつけて部室の中から陸が出てきた。俺の顔を見た陸は例の如く遅いぞと言いたげだったが、奏多がいるのを見てそちらに意識を向けてくれたため、俺としては助けられた。
「えっと、鼓くん、だっけ? 軽音部に何か用?」
「はい……単刀直入に、入部希望です」
「え」
俺は失礼ながらも驚いた声を上げてしまった。目が見えないのに軽音部なんて、一体何をするつもりだというのか。ボーカル志望? あ、もしかして聴き専?
「……入部の動機を聞いてもいいかな」
「おい。お前一年生のくせに、部長気取りかよ」
「響は黙ってろ」
陸の妙な迫力に気圧され、俺は言われた通り黙った。奏多は薄い唇の端を柔らかに持ち上げた後、口を開いた。
「響くんの歌声に感動したんです」
「ほう」
「元々、僕は軽音部でバンドをやりたいと思っていたんです。でも目が見えない僕なんかが入ったら迷惑をかけてしまうと思って、諦めていた。そんな時、響くんの例の動画の歌を聴いて、僕も自分の大好きを貫きたいと思った。それで一念発起しまして、今日、ここに」
奏多の言葉に俺は複雑な感情を抱いた。
なんで俺の歌声を聴いて「僕も自分の大好きを貫きたい」なのか、脈略はよく分からないけれど、そう思ってくれたのは素直に嬉しい。
だけど、奏多を突き動かしたのはおそらく1/fゆらぎだ。自分自身では出し方も分からない、砂上の楼閣。
今もそこにあるのかどうか分からない。もしかしたらガッカリされるのではないかと、たった一度の失敗の記憶せいで、根拠もなく不安になる。
陸は少し考え込むように顎に手を当てた後、奏多を部室に招き入れた。
奏多を連れて部室に入ると、すでにほとんど全部員が揃っており、窓を開けられない(開けるとうるさいから)軽音部の宿命上、空気が酷く淀んでいた。
ぐるりと輪を描くように並んでそれぞれの練習に勤しんでいた部員たちの訝しげな視線が、奏多に刺さる。陸は臆せず口を開く。
「入部希望だそうです」
すると、面々は顔を見合わせて苦い顔をした。奏多の目が見えなくて良かったと俺は思った。
「希望の楽器は?」
部長が半笑いで尋ねると、奏多は間髪入れず「ドラムです」と答えた。よりによってドラム? やりたいという気持ちを馬鹿にする気はないけれど、率直に、難しいのではないかと俺は思った。
ギターやベース、キーボードあたりなら目が見える人でもそんなに手元を見ずに演奏しているし、まだなんとかなる可能性がある(それも素人の俺の所感に過ぎないが)にしても、ドラムほどたくさんのパーツを正確に叩く必要がある楽器を務める姿は想像がつかない。
ところが。奏多は「試しに演奏を聴いてから、入部可否を判断していただいて構いません」と信じられないことを宣った。
経験者なのか?と部内はざわつく。そんな中、陸だけが表情一つ変えず、事の顚末を見守っている。
奏多は先輩に手を引かれドラムセットのところに辿り着くと、元々ドラムを叩いていた先輩に席を譲られ、そのまま一人でセッティングを開始した。
白杖を後ろの壁に立てかけ、まずは椅子の高さの調整。背が高く脚も長い奏多が座面を回転させて一気に高さを上げると、さっきまで椅子を使っていた先輩は複雑そうな顔をした。
続いて、俺には名前の分からない太鼓?やシンバルたち。迷うことなく調整用のネジ位置に手を伸ばしては素人目には違いが分からないほど繊細に高さや角度を変えてゆく様は、明らかに手慣れている者のそれだ。
呆けた周りの空気を察知したのか、「盲目者にとってセッティングは命なんですよ」と説明する余裕まで持ち合わせている。
目が見えないとは思えないスピードで一通りセットをいじり終えた奏多は、椅子に深く座り直した後、スティックを右手の中でぐるりと一回転させた。むやみにテクニックを誇示するのとは違う自然なその所作に、確信した。これはただの経験者どころじゃない。
皆もその気配を察知したのか、演奏が始まってもいないのに、もはや奏多を馬鹿にする空気はどこにもなかった。それどころか、期待に満ちた熱い眼差しを彼の手に注いでいる。
いよいよ始まるかという時、奏多が突然提案した。
「響くん。良かったら、演奏に合わせて歌ってくれないかな」
「え」
「文化祭ライブでやってた曲を叩くから。動画で聴いてだいたいの構成は把握してる」
「や、でも、なんで」
「歌があった方がやりやすいし。何より、響くんの歌に合わせて叩いてみたい」
俺は返事に窮する。どうしよう、怖い。だってもし、1/fゆらぎが戻っていなかったら……
「いいね! じゃあ、俺はギターを演奏しよう」
「本当? いいのかい? えっと、」
「弦本陸だ。よろしく」
「あぁ! 君があの超絶ギターの! 道理で!」
「道理で、とは?」
「上手い人特有の色が滲み出てたから。声に」
「そんなことまで分かるのかよ!? すげぇ! じゃあさぁ、」
「う゛ぅんっ!! 三人とも、そろそろ……」
にわかに意気投合し盛り上がり始めた二人を部長が咳払いで止める。それより、三人とも、と言われてしまっては逃げ場がない。
息が苦しくなって、目眩がした。だけどもう、やるしかない。
大丈夫、喉はどこも悪くない。きっと声は戻っている。大丈夫……
俺の不安を他所に、陸と奏多は遊園地の入口に立ったガキンチョみたいな顔で笑い合う。俺は、自分でできないからマイクを先輩に用意してもらい、その前に立つ。足が小刻みに震えていた。
「シングルカウントでいくよ」
奏多が宣言し、陸が「あいよ」短く了承する。
次の瞬間、彼らはスッと入っていった。
それは言うなれば、何かを極めた達人たちにしか許されない神域。周囲の空気までもがこれから始まる演奏に耳を澄ますかのようにピンと張り詰め、唾を飲み込むことすら躊躇われた。
そして不思議な感覚が訪れる。今の今まで感じていたはずの恐怖が、嘘みたいに消えたのだ。
代わりにやってきたのは、ワクワク。
まるで恋にでも落ちたように心音がクレッシェンドしてゆき、今にも爆発してしまいそうだった。早く二人の演奏に合わせて歌ってみたい。歌わせてくれ。早く、早く。
やっと無音を切り裂き、奏多がスティックでカウントをとり始める。ただ二本の棒をぶつけるその仕草すら、凄腕の指揮者のような優美さを放っている。
ついぼけっと眺めていた俺は、陸のギターの音でハッとした。曲が始まっている。耳にタコができるほど聴いたリフはずなのに、初めてみたいに新鮮に聴こえた。
弾むようなギターリフが二回繰り返された後、奏多の力強いドラムが加わる。
すると化学反応が起こった。二つの音が寸分狂わぬリズムで重なり合うと、一つの大きな波風となり、俺の身体をさらった。それはさながら音のジェットコースター。ドレミが部室の空中を縦横無尽に駆け回り、くるりと一回転し、次々と観客を巻き込んでゆく。
「響! 歌、歌!」
陸の声で、すでに歌唱パートに入っていることに気付いた。俺は慌てて声を張り上げる。
その瞬間、直感で俺はそいつが戻っていないことに気付いた。だけど今の一瞬だけは、そんなことどうでもいい。陸と奏多が生み出すメロディーのど真ん中で、いつまでも揺蕩っていたい。下手でもなんでもいいから。
そう感じさせるだけの力が二人の演奏にはあった。音楽の楽しさを体現し、我を忘れさせるほどの魅力。
/
曲が終わると、全員がスタンディングオベーションで二人を讃えた。見たことないほど恍惚とした表情の陸と、少し照れた様子の奏多。入部可否の結果など火を見るよりも明らかだ。
真っ先に奏多に声をかけたのは陸だった。
「お前、すげぇよ! ここまでなるのに一体どれだけ……」
「天才だよ奏多! 目が見えないのに、なんでこんなことできるんだ!」
俺は気付けば陸の言葉を遮っていた。奏多には音が見えている。そう思えてしまうほど、ハイレベルな演奏だった。
俺に続いて皆もすげぇ!天才!陸も神!の大合唱。部室は異様な興奮に包まれていた。
「うん。まぁ、いっぱい練習したから」
事も無げに言う奏多を見ながら俺は理解した。奏多は特別なんだ。琴音や陸と同じく。
すると急に、すっかり忘れていた薄ら寒い恐怖に、足をがしと掴まれた。
このバンドの中で今、俺だけが特別じゃない。
あんなにすごいすごい騒がれていた俺の声に、今や誰も耳を傾けない。触れもしない。それが証拠だ。
いやむしろ、触れないことが優しさにすら思える。
この大歓声の中、俺だけが除け者だ。クリスマスライブの時の会場のため息がフラッシュバックする。
その瞬間、
「いやさぁ、実は最近ずっと喉の調子が悪くて、病院に通ってて」
誰にも聞かれてないのに、そんな嘘が口をついていた。病院に行ったのなんてクリスマスライブの日の一度きりだ。
にわかに静まる部室。あまりのダサさに、言った直後消えてしまいたいほどの後悔に襲われた。
そんな俺の言葉を拾ったのは奏多だった。
「そうだったんだね。確かに、前とはちょっと雰囲気が違ったかも」
そして陸。
「なんだ、まだ風邪治ってなかったのかよ。それなら無理することなかったのに」
二人の反応があり、やっと俺を弄ってもいい空気が醸造されたのか、「別に下手じゃないけど、この二人に挟まれるとちょっとなぁ」とか「もっと練習しろよ鳴子」とか皆笑って軽口を投げた。
俺のちっぽけなプライドは一時的に救われた。
だけどそれは同時に、後戻りできない袋小路に飛び込んだようなもの。
さらに追い討ちをかけるように、陸が口を開く。
「奏多、俺と響と一緒にバンド組まねぇか? ちょうどドラマーも募集してたところなんだ」
「え」
「頼む! 俺はお前と一緒にバンドがしたい!」
陸の言葉に皆が驚愕した。
「まじか! あの弦本から誘ったぞ」
「鳴子の勧誘の時よりも熱心なんじゃねぇか?」
周りからの聞こえてくるそんな声に、俺は奏多に対し、尊敬だけではないねっとりとした感情が脳髄から溢れ出すのを感じた。
「もちろんだよ!」
「ほんとか!」
「そもそも僕は、響くんとバンドがやりたくてここに来たんだから。もちろん、陸くんも」
「俺はついでかよ! この野郎!」
言葉とは裏腹に陸はテンションMAXだ。俺は、嫌味かと反吐をはきそうになりながら「光栄だよ」と虚勢を張った。
そこに、ゆっくりと近づいてくる影があった。奥下先輩だ。
「おめでとう、鼓」
「君は?」
「俺は奥下大輝。二年一組。ここではギターボーカルをやってる」
「あっ、先輩だったんですね。すみません。よろしくお願いします」
「あぁ。お前みたいなすごいやつが部に入ってくれて、俺も嬉しいよ」
奥下先輩は意外にも殊勝な態度で奏多に挨拶をした。まぁ、嫌われているのは俺だけだから当然か……と思っていたら、先輩が去った後、奏多は苦い顔で舌を出した。
「やっぱり、歓迎してくれている人ばかりじゃないみたいだね」
「え?」
「今の奥下先輩、嘘吐いてたから」
「? なんで、そんなこと」
「声を聴けばだいたい、分かるから」
奏多の顔がゆっくりとこちらを振り向くと、ずっと閉じていた瞼が薄っすらと開き、色素の薄い黒目と確かに目が合った。
気の利いた返しもできず、背筋にじんわり汗が滲む。
奏多は、声を聞くだけで相手の嘘まで見抜くのか?
だったらさっきの俺の、通院中という嘘は。今の奏多に対する俺の気持ちは。
見えていないはずの奏多の目に、全て見抜かれているような気がした。怖い。奏多と一緒にいるのが。本当の自分がバレるのが。
そんな俺の気持ちを知るはずもなく、陸は意気揚々と言った。
「よっしゃ! これから三人で、次の『三年生送別ライブ』に向けて特訓だ!」




