↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/31

第9話 「奥の通路と、大きいトカゲ」

 午前四時半。


 風見晴人は公園に立っていた。


 六日目の朝である。昨日は休みの日だった。老人の田村と話をし、朝の千本の意味を久しぶりに深く考えた。振り返ってみれば、あのこつり、と鳴った杖の音は、彼のこの一週間の中で一番印象に残った音だった。


 夜、家に戻ってから、しばらく素振りノートをただ開いていた。


 書き足すことは特になかった。ただ開いて、閉じて、また開いて、また閉じた。それを数回繰り返して、それから麦茶を注ぎ、静かに眠った。


 今朝、体はいつもより少しだけ軽い。


 樫の枝を握り直した。柄のタオル生地が、日ごとにしっとりと指に馴染んでいる。もう迷わない。


 一。二。三。四。


 振り上げて、振り下ろす。振り上げて、振り下ろす。


 空気の切れる音が、朝の公園に細く鋭く鳴った。



   *



 同時刻。


 日本全国のどこかの部屋で、いつも通り視聴者たちが通知アプリで叩き起こされていた。


 だが今朝の彼らは、いつもと少しだけ違っていた。


 昨日、通行人の投稿した『公園に、神がいた』の一件は、深夜のうちにSNS全域に伝播していた。田村老人との会話の切り抜き動画は、既に二日連続で拡散数の一位を保持していた。「稽古の外にある気持ちに、稽古の側が負けるんです」の一節は、朝までに多くの人の待ち受け画像の壁紙になっていた。


 視聴者たちは静かに画面を開き、静かにコメントを打ち始めた。


『来た』

『今日もフォームが澄んでる』

『昨日の田村さんの話、まだ頭に残ってる』

『わかる』

『あの人、たぶん今日もいつも通り振ってる』

『そこがいい』

『そこがこの人の本質』

『素振り宗、朝の御勤め、開始』


 視聴者数、開始十分で十一万を超えていた。



   *



 千本をいつも通り振り抜いた。


 深く息を吐き、木の枝を軽く振って砂を落とした。


「……悪くないな」


 小さくつぶやいた。


 彼は砂場の隣に置いてあったスマホを拾い、ドローンに着陸の合図を送った。今日はダンジョンに行く。



   *



 駅までの道を歩いた。始発に乗った。


 電車の中は、いつもより若い人が多かった。四、五人、明らかに彼の顔を見ていた。晴人はまた自分の服装を確認したが、特におかしなところはなかった。


 若者たちはそれぞれ、スマホを少しだけこちらに向けた。晴人はそれを目の端で捉えたが、気にしなかった。最近の若い人は、車内でもスマホを色々な方向に向けるものだと思った。


 電車を降り、山道に入った。


 途中、いつものベンチのそばには、今日は誰もいなかった。


 昨日、萩田孝史から受け取った特別冒険者というものの感覚が、まだ彼の中でしっくり来ていなかった。夜、家で貯金ノートを開いた。銀行の口座に、八桁の頭にしっかり数字の入った額が振り込まれていた。


 昨日、それを少しだけ見た。それから静かにアプリを閉じた。


 ……あれは給料なのか、と彼は山道を歩きながら少しだけ考えた。


 考えても、答えは出なかった。萩田は「登録すると、日常の中で活動されている方も複数いらっしゃいます」と言った。晴人は「日常の中で活動する」の意味を細かく聞かなかった。だから、ここまでは日常の中で活動していると思っている。今のところ、それで良い。


 彼は詰所に着いた。



   *



 今日の担当はまた、あの女性職員だった。三日前、詰所で震える手で書類を差し出した、あの人だった。


 女性職員は晴人を見て、少しだけ頬を緩めた。


「お疲れ様です、風見様」


「はい、おはようございます」


「本日は、どちらまで」


「三階層、なのですが、あの、昨日、四階層まで行ってみて」


「はい」


「あの、途中の大きな部屋の入り口で、引き返しました」


「はい」


「今日は三階層に戻って、あの、まだ行っていない別の通路があった気がするので、そちらを少し見てみようかと」


「三階層の別の通路、ですね」


「はい」


 女性職員は書類にペンを走らせた。今日の彼女の手は震えていなかった。三日前より少し大人になった、というよりは、単に慣れたのだった。書類の記入項目が、彼女の中で決まった順番に並ぶようになっていた。



   *



「三階層は、通路が三つ、放射状に伸びております」


 晴人は小さく頷いた。


「昨日、風見様が進まれたのは、中央の通路ですね」


「はい」


「本日、その両側の通路のどちらかを選ばれる、ということですね」


 晴人はもう一度頷いた。


「あの、右側の通路は比較的単純な造りですが」


「はい」


「左側の通路は少し長くて、奥に大きな空間があります」


 晴人は続きを待った。


「その大きな空間には時折、その、大きな、羽のある、あの、竜、と、その」


 女性職員は少しだけ言葉を選んだ。


 彼女は朝、萩田からの指示で「風見様には、モンスターの正式名称を直接伝えないように」と言われていた。「本人はモンスターの名前をあまり認識せずに活動されているようなので、その認識をこちらから崩さないように」と。


 女性職員はそれを律儀に守った。


「あの、まあ、大きな飛ぶ生き物が出ます」


「大きな、飛ぶ、生き物」


「はい」


「はい、わかりました」


「無理はなさらないでください」


「はい」


 晴人は頭を下げ、詰所を出た。



   *



 三階層まで下りた。


 一階層と二階層を通り抜けるのは慣れたものだった。一階層の切れかけていた壁の跡は、もう目を凝らしても見つからない程度に修復されていた。二階層の地下森ドームの中央には、今日は甲虫の群れはいなかった。天井の赤みがかった光だけが、静かに揺れていた。


 三階層に着いた。


 昨日の中央の大きな空間は、既に片付けられていた。岩の塊の残骸は綺麗に消えていた。晴人はそれを少し見て、それから左側の通路の入り口に向かった。


 左側の通路は、右側や中央よりも少しだけ暗かった。


 入り口から奥に向かって、少しずつ天井が低くなると思いきや、途中でまた大きく広がる造りだった。天井の高さが細かくうねっていた。晴人はそれを面白く思った。パーティ時代、こういう造りの通路は、あまり見た記憶がなかった。



   *



 通路をしばらく歩いた。


 途中、モンスターは出なかった。


 空気だけが少しずつ変わっていった。三階層の他の通路は、赤みがかった乾いた空気だった。ここは、赤みがかった湿った空気だった。奥に行くほど、湿度が上がった。


 やがて、通路が開けた。


 大きな空間だった。


 天井が見えない。上を見上げても、闇の中に消えていた。壁は両側に遠くまで続いていた。床は乾いた砂のようなもの。あちこちに、大きな白い骨のようなものが転がっていた。


 骨の間に、風が通っていた。


 その風の中に、生き物の匂いが混じっていた。



   *



 空間の奥から、大きな翼の音が聞こえた。


 最初、それは風の音だと晴人は思った。


 だが、その風の音の中に、規則的な、ざ、ざ、という羽ばたきの音が混じっていた。しばらく聞いていて、彼はそれが何かの生き物の翼の音であることに気付いた。


 ……大きな鳥、だろうか。


 彼は少し首を傾げた。


 パーティ時代、こういう地下の開けた空間で、大きな翼のある生き物を見たことがあった。あの時は、あの生き物がパーティの前衛と後衛の間に割り込んで、リラの詠唱を二回飛ばしたのを覚えている。レオンが大きな両手剣を両手で振り上げて、飛んでくるその生き物の首を狙って跳ねる、という戦い方をした。三回目で綺麗に首を落とした。


 あの時の生き物の大きさが、たぶんこれくらいだった。


 ……あれは羽が透けていて、青みがかっていた気がするな、と彼は少しだけ思い出した。


 その時。


 空間の奥の闇から、大きな影がゆっくり近づいてきた。



   *



 影は翼を大きく広げていた。


 翼の幅は、両側の壁の半分近くまで届いていた。頭の位置は、天井の闇の中に消えていた。長い首が、闇の中から下に向かってまっすぐ伸びていた。首の先の大きな頭部が、晴人の方をじっと見ていた。


 目が金色に光っていた。


 瞳の中に、縦に細い線が走っていた。


 その影が口を少し開いた。牙が白く光った。長く細い牙が二本、上顎から下に伸びていた。


 ……あの時の生き物より少し大きいな、と晴人は思った。


 パーティ時代のあの生き物より、翼の幅は二倍。頭の位置は三倍高い。首の長さは四倍。


 ……大きい、と素直に思った。



   *



 視聴者たちの画面は、その時、真っ黒に近かった。


 空間の奥の闇と、上の天井の闇と、飛竜の大きな影が、画面のほとんどを占めていた。ドローンの下向きカメラの感度を目一杯上げても、辛うじて金色の目と白い牙と翼の輪郭だけが映っていた。


『は?』

『え』

『いや、待って』

『三階層の左通路の奥って、そういうこと?』

『そういうこと』

『えー、なんで、こんな奥に』

『え、これSS級指定の、シャドウ・ドラゴン、じゃない?』

『SS級』

『SS級です、はい』

『SS級を三階層で見た記録、過去にない』

『翠嵐、階層バランス絶対壊れてる』

『管理側の悲鳴が聞こえる』

『毎日、階層バランスが崩れる』

『いや、崩れてるのはあの人が来てからだ』

『あの人が来てから、上位モンスターが迷い出てくる』

『そういう理論もある』

『いや、たまたまそのタイミングで、翠嵐の封印が緩んでるだけ、って説もある』

『どっちにしろ、あの人の朝ごはんの時間帯』

『朝の素振りの延長』


 視聴者数、その時十九万八千。



   *



 晴人は木の枝を持ち直した。


 目の前の大きな飛ぶ生き物は、確かに大きかった。だが、大きいというだけで、彼は特に慌てなかった。


 パーティ時代、レオンがこれに似た少し小さめの生き物を、両手剣で跳ねながら首を狙って倒したのを思い出した。あの時、レオンの剣の届く範囲は、上下およそ三メートルだった。今、目の前の生き物の首の付け根までの高さは、およそ八メートルある。


 両手剣では届かない。


 だが、木の枝の届く範囲は、実は両手剣より広い、と晴人は経験上知っていた。木の枝は、体全体の動きを乗せるのに、両手剣より素直に応じる。腕の伸ばし方と、腰の回転の掛け方と、足の踏み込みの深さで、届く範囲は思いのほか伸ばせる。


 朝の素振りで、時々変則で突きの練習をすることがあった。


 突きは、振り下ろしよりも届く範囲が遠い。腕を伸ばしきるその一瞬に、体の芯を乗せると、枝の先端は思いのほか遠くに届く。


 ……あれで、いいか。


 彼はそう決めた。



   *



 大きな影が翼を大きく閉じた。


 閉じた瞬間、影はまるで大きな槍のように細く鋭く、真下に向かって落ちてきた。目標は晴人の頭部だった。長い首がまっすぐに伸びていた。牙が開いていた。


 落下速度は速かった。


 だが、晴人は慌てなかった。


 右足を大きく前に踏み込んだ。左足を後ろにしっかり残した。腰を少しだけ落とした。木の枝を右手一本で、順手に持ち直した。左手を右手の後ろに添えた。


 朝の素振りで、九百八十本目に時々やる突きのフォームだった。


 息を細く吐きながら、腕を伸ばした。


 腕を伸ばしきるその瞬間、腰の回転を細く掛けた。細く細く掛けたその回転が、腕の伸びの最後の数センチに乗った。乗った回転が、木の枝の先端に集まった。


 枝の先端が細く鋭く、上に伸びた。


 伸びたその先端が、落ちてくる影の首の下側に触れた。


 触れた、瞬間。



   *



 空間の上の闇の中で、影が静止した。


 次の瞬間、影の頭部と首が、上下に真っ二つに割れた。長い首の途中で、水平に細く細く線が走り、そこから上と下が静かに離れた。


 頭部は翼と切り離されて、上の闇の中に消えた。


 残った翼だけの大きな影が、二秒ほど宙で静止した。その大きな影は、翼の動きを失うと、そのまま真下にゆっくり崩れて落ちてきた。


 どがっ、と地響きがした。


 空間の床の砂と白い骨と、風の匂いが大きく揺れた。


 晴人は体を起こした。


 彼はしばらく木の枝の先端を、じっと見た。


「……大きい、トカゲ、柔らかかったな」


 小さく、つぶやいた。


 枝を軽く振って、羽の粉を落とした。



   *



 視聴者たちの画面は、その瞬間また静止した。


 止まっていたのは、五秒。


 五秒経ったあと、コメント欄はこれまでで一番静かに、一番深く爆発した。


『いや』

『いや、待って』

『SS級を、木の枝の突きで』

『突きで』

『首を、真っ二つ』

『真っ二つ』

『大きい、トカゲ、柔らかかった』

『「大きい、トカゲ、柔らかかった」』

『名台詞、更新』

『これは殿堂入り、二日連続』

『あの人、SS級を、大きいトカゲって呼んだ』

『それも、柔らかかった、って』

『レオンが三回頑張って首を落とした、あの生き物の上位種を』

『木の枝で一突きで』

『階層バランスが崩れる、じゃなくて、あの人が階層バランスそのもの、なんだ』

『新ジャンル』

『突き系、無自覚、無双』

『毎日、新ジャンル』

『師匠!』

『師匠!』

『師匠!』


 視聴者数、その時、二十三万を超えた。



   *



 晴人は崩れた大きな影の翼の脇を、静かに歩いた。


 空間の奥の闇の中に、四階層への降り口が微かに見えた。緑がかった光が下から漏れていた。晴人はそこまで歩いて、少しだけ覗き込んだ。


 昨日、途中まで行った四階層の続きだった。


 ……次はここから、と彼は静かに決めた。


 だが、今日は三階層の奥まで、と詰所で言った。律儀な性格の晴人は、その言葉を守った。三階層の左通路の奥まで来た。奥の大きな影も片付けた。それで、今日は十分だった。


 彼は静かに背を向け、通路を戻り始めた。



   *



 通路を戻る途中、ふと彼は立ち止まった。


 空間の床に、大きな白い骨のようなものが、あちこちに転がっていた。


 その骨のうちいくつかは、明らかにあの大きな影の羽の根元の骨の形をしていた。同じ形の骨が複数あった。数を数えた。少なくとも四つ。あの大きな影と同じような生き物の翼の骨が、この空間の中に少なくとも四つ転がっていた。


「……この場所は少し賑やかだったのだな」


 小さく、つぶやいた。


 パーティ時代、レオンがあの翼の生き物を倒した後、その翼を素材として持ち帰ろうとして、重すぎて諦めた、という話を思い出した。あの時、レオンは「絵面的には、いい感じの素材だが、持って帰れなきゃ意味がない」と笑っていた。


 あの翼を四体分、ということは、この場所には以前四体いたのだ、と晴人は考えた。


 どこかから来た四体が、それぞれ命を終えた場所。


 ……悪くない場所だな、と彼は少しだけ思った。


 骨を避けて、通路の方に歩いた。



   *



 三階層の中央の大きな部屋を通り抜け、二階層の地下森ドームを通り抜け、一階層の通路を通り抜けた。


 ダンジョンの入り口を出た。ドローンを回収した。スマホの青いところを押した。今日は幸か不幸か、また青の方に指が当たった。ただ、それは既に朝から続いていた配信の終了を意味していた。


 配信が終わった。


 詰所に戻った。



   *



「お帰りなさい、風見様」


「はい」


「三階層の左通路は」


「はい、あの、奥まで行きました」


 女性職員はペンを止めた。


「あの、大きな飛ぶ生き物が、いました」


「……はい」


「あの、少しその、落としてしまいまして」


 女性職員の手が、書類の上で少しだけ震えた。


「あと、あの、床に白い骨のようなものが複数ありました。以前の、その、他の、そういう生き物の翼の骨のようで」


 女性職員はしばらく、書類を書いていた手を止めた。


「……以前の翼の骨、ですか」


「はい、あの、四つほど」


「……四、つ」


「はい」


 女性職員はしばらく書類を見た。それから深呼吸を一度した。


「はい、書類には記載します。ありがとうございます」


「あの、以前のは、あの、私ではないので」


「はい、はい、承知しております」


「はい、失礼しました」


「いえ、いえ」


 晴人は頭を下げて、詰所を出た。



   *



 山道を下り、電車に乗り、街に戻った。


 スーパーで、鶏むね肉の特売とキャベツと、明日の朝の分の食パンを買った。冷蔵庫の中身と相談を済ませ、明日の夕飯の献立を頭の中で決めた。


 バスに乗って、家に戻った。


 昼食を食べ、洗濯物を干し、素振りノートを開いた。


 今日の欄に、書き足した。


『三階層、左通路の奥。大きな飛ぶ生き物。突きで対応可。首の下側に細く線を通した』


『大きいトカゲ、意外と柔らかい。表面が薄い』


『床に、以前の翼の骨が四つ。この場所は以前、賑やかだったらしい』


 三行、書いた。


 窓の外で蝉が鳴いていた。西の空が少しずつ赤くなり始めていた。


 彼はノートを閉じ、麦茶を注いだ。


「……悪くないな」


 小さく、つぶやいた。


 彼はまだ、何一つ気づいていない。世界の側が、彼の朝の突きのたった一手を、既に殿堂入りの映像として静かに保存し始めていることに。




第九話 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。