第9話 「奥の通路と、大きいトカゲ」
午前四時半。
風見晴人は公園に立っていた。
六日目の朝である。昨日は休みの日だった。老人の田村と話をし、朝の千本の意味を久しぶりに深く考えた。振り返ってみれば、あのこつり、と鳴った杖の音は、彼のこの一週間の中で一番印象に残った音だった。
夜、家に戻ってから、しばらく素振りノートをただ開いていた。
書き足すことは特になかった。ただ開いて、閉じて、また開いて、また閉じた。それを数回繰り返して、それから麦茶を注ぎ、静かに眠った。
今朝、体はいつもより少しだけ軽い。
樫の枝を握り直した。柄のタオル生地が、日ごとにしっとりと指に馴染んでいる。もう迷わない。
一。二。三。四。
振り上げて、振り下ろす。振り上げて、振り下ろす。
空気の切れる音が、朝の公園に細く鋭く鳴った。
*
同時刻。
日本全国のどこかの部屋で、いつも通り視聴者たちが通知アプリで叩き起こされていた。
だが今朝の彼らは、いつもと少しだけ違っていた。
昨日、通行人の投稿した『公園に、神がいた』の一件は、深夜のうちにSNS全域に伝播していた。田村老人との会話の切り抜き動画は、既に二日連続で拡散数の一位を保持していた。「稽古の外にある気持ちに、稽古の側が負けるんです」の一節は、朝までに多くの人の待ち受け画像の壁紙になっていた。
視聴者たちは静かに画面を開き、静かにコメントを打ち始めた。
『来た』
『今日もフォームが澄んでる』
『昨日の田村さんの話、まだ頭に残ってる』
『わかる』
『あの人、たぶん今日もいつも通り振ってる』
『そこがいい』
『そこがこの人の本質』
『素振り宗、朝の御勤め、開始』
視聴者数、開始十分で十一万を超えていた。
*
千本をいつも通り振り抜いた。
深く息を吐き、木の枝を軽く振って砂を落とした。
「……悪くないな」
小さくつぶやいた。
彼は砂場の隣に置いてあったスマホを拾い、ドローンに着陸の合図を送った。今日はダンジョンに行く。
*
駅までの道を歩いた。始発に乗った。
電車の中は、いつもより若い人が多かった。四、五人、明らかに彼の顔を見ていた。晴人はまた自分の服装を確認したが、特におかしなところはなかった。
若者たちはそれぞれ、スマホを少しだけこちらに向けた。晴人はそれを目の端で捉えたが、気にしなかった。最近の若い人は、車内でもスマホを色々な方向に向けるものだと思った。
電車を降り、山道に入った。
途中、いつものベンチのそばには、今日は誰もいなかった。
昨日、萩田孝史から受け取った特別冒険者というものの感覚が、まだ彼の中でしっくり来ていなかった。夜、家で貯金ノートを開いた。銀行の口座に、八桁の頭にしっかり数字の入った額が振り込まれていた。
昨日、それを少しだけ見た。それから静かにアプリを閉じた。
……あれは給料なのか、と彼は山道を歩きながら少しだけ考えた。
考えても、答えは出なかった。萩田は「登録すると、日常の中で活動されている方も複数いらっしゃいます」と言った。晴人は「日常の中で活動する」の意味を細かく聞かなかった。だから、ここまでは日常の中で活動していると思っている。今のところ、それで良い。
彼は詰所に着いた。
*
今日の担当はまた、あの女性職員だった。三日前、詰所で震える手で書類を差し出した、あの人だった。
女性職員は晴人を見て、少しだけ頬を緩めた。
「お疲れ様です、風見様」
「はい、おはようございます」
「本日は、どちらまで」
「三階層、なのですが、あの、昨日、四階層まで行ってみて」
「はい」
「あの、途中の大きな部屋の入り口で、引き返しました」
「はい」
「今日は三階層に戻って、あの、まだ行っていない別の通路があった気がするので、そちらを少し見てみようかと」
「三階層の別の通路、ですね」
「はい」
女性職員は書類にペンを走らせた。今日の彼女の手は震えていなかった。三日前より少し大人になった、というよりは、単に慣れたのだった。書類の記入項目が、彼女の中で決まった順番に並ぶようになっていた。
*
「三階層は、通路が三つ、放射状に伸びております」
晴人は小さく頷いた。
「昨日、風見様が進まれたのは、中央の通路ですね」
「はい」
「本日、その両側の通路のどちらかを選ばれる、ということですね」
晴人はもう一度頷いた。
「あの、右側の通路は比較的単純な造りですが」
「はい」
「左側の通路は少し長くて、奥に大きな空間があります」
晴人は続きを待った。
「その大きな空間には時折、その、大きな、羽のある、あの、竜、と、その」
女性職員は少しだけ言葉を選んだ。
彼女は朝、萩田からの指示で「風見様には、モンスターの正式名称を直接伝えないように」と言われていた。「本人はモンスターの名前をあまり認識せずに活動されているようなので、その認識をこちらから崩さないように」と。
女性職員はそれを律儀に守った。
「あの、まあ、大きな飛ぶ生き物が出ます」
「大きな、飛ぶ、生き物」
「はい」
「はい、わかりました」
「無理はなさらないでください」
「はい」
晴人は頭を下げ、詰所を出た。
*
三階層まで下りた。
一階層と二階層を通り抜けるのは慣れたものだった。一階層の切れかけていた壁の跡は、もう目を凝らしても見つからない程度に修復されていた。二階層の地下森ドームの中央には、今日は甲虫の群れはいなかった。天井の赤みがかった光だけが、静かに揺れていた。
三階層に着いた。
昨日の中央の大きな空間は、既に片付けられていた。岩の塊の残骸は綺麗に消えていた。晴人はそれを少し見て、それから左側の通路の入り口に向かった。
左側の通路は、右側や中央よりも少しだけ暗かった。
入り口から奥に向かって、少しずつ天井が低くなると思いきや、途中でまた大きく広がる造りだった。天井の高さが細かくうねっていた。晴人はそれを面白く思った。パーティ時代、こういう造りの通路は、あまり見た記憶がなかった。
*
通路をしばらく歩いた。
途中、モンスターは出なかった。
空気だけが少しずつ変わっていった。三階層の他の通路は、赤みがかった乾いた空気だった。ここは、赤みがかった湿った空気だった。奥に行くほど、湿度が上がった。
やがて、通路が開けた。
大きな空間だった。
天井が見えない。上を見上げても、闇の中に消えていた。壁は両側に遠くまで続いていた。床は乾いた砂のようなもの。あちこちに、大きな白い骨のようなものが転がっていた。
骨の間に、風が通っていた。
その風の中に、生き物の匂いが混じっていた。
*
空間の奥から、大きな翼の音が聞こえた。
最初、それは風の音だと晴人は思った。
だが、その風の音の中に、規則的な、ざ、ざ、という羽ばたきの音が混じっていた。しばらく聞いていて、彼はそれが何かの生き物の翼の音であることに気付いた。
……大きな鳥、だろうか。
彼は少し首を傾げた。
パーティ時代、こういう地下の開けた空間で、大きな翼のある生き物を見たことがあった。あの時は、あの生き物がパーティの前衛と後衛の間に割り込んで、リラの詠唱を二回飛ばしたのを覚えている。レオンが大きな両手剣を両手で振り上げて、飛んでくるその生き物の首を狙って跳ねる、という戦い方をした。三回目で綺麗に首を落とした。
あの時の生き物の大きさが、たぶんこれくらいだった。
……あれは羽が透けていて、青みがかっていた気がするな、と彼は少しだけ思い出した。
その時。
空間の奥の闇から、大きな影がゆっくり近づいてきた。
*
影は翼を大きく広げていた。
翼の幅は、両側の壁の半分近くまで届いていた。頭の位置は、天井の闇の中に消えていた。長い首が、闇の中から下に向かってまっすぐ伸びていた。首の先の大きな頭部が、晴人の方をじっと見ていた。
目が金色に光っていた。
瞳の中に、縦に細い線が走っていた。
その影が口を少し開いた。牙が白く光った。長く細い牙が二本、上顎から下に伸びていた。
……あの時の生き物より少し大きいな、と晴人は思った。
パーティ時代のあの生き物より、翼の幅は二倍。頭の位置は三倍高い。首の長さは四倍。
……大きい、と素直に思った。
*
視聴者たちの画面は、その時、真っ黒に近かった。
空間の奥の闇と、上の天井の闇と、飛竜の大きな影が、画面のほとんどを占めていた。ドローンの下向きカメラの感度を目一杯上げても、辛うじて金色の目と白い牙と翼の輪郭だけが映っていた。
『は?』
『え』
『いや、待って』
『三階層の左通路の奥って、そういうこと?』
『そういうこと』
『えー、なんで、こんな奥に』
『え、これSS級指定の、シャドウ・ドラゴン、じゃない?』
『SS級』
『SS級です、はい』
『SS級を三階層で見た記録、過去にない』
『翠嵐、階層バランス絶対壊れてる』
『管理側の悲鳴が聞こえる』
『毎日、階層バランスが崩れる』
『いや、崩れてるのはあの人が来てからだ』
『あの人が来てから、上位モンスターが迷い出てくる』
『そういう理論もある』
『いや、たまたまそのタイミングで、翠嵐の封印が緩んでるだけ、って説もある』
『どっちにしろ、あの人の朝ごはんの時間帯』
『朝の素振りの延長』
視聴者数、その時十九万八千。
*
晴人は木の枝を持ち直した。
目の前の大きな飛ぶ生き物は、確かに大きかった。だが、大きいというだけで、彼は特に慌てなかった。
パーティ時代、レオンがこれに似た少し小さめの生き物を、両手剣で跳ねながら首を狙って倒したのを思い出した。あの時、レオンの剣の届く範囲は、上下およそ三メートルだった。今、目の前の生き物の首の付け根までの高さは、およそ八メートルある。
両手剣では届かない。
だが、木の枝の届く範囲は、実は両手剣より広い、と晴人は経験上知っていた。木の枝は、体全体の動きを乗せるのに、両手剣より素直に応じる。腕の伸ばし方と、腰の回転の掛け方と、足の踏み込みの深さで、届く範囲は思いのほか伸ばせる。
朝の素振りで、時々変則で突きの練習をすることがあった。
突きは、振り下ろしよりも届く範囲が遠い。腕を伸ばしきるその一瞬に、体の芯を乗せると、枝の先端は思いのほか遠くに届く。
……あれで、いいか。
彼はそう決めた。
*
大きな影が翼を大きく閉じた。
閉じた瞬間、影はまるで大きな槍のように細く鋭く、真下に向かって落ちてきた。目標は晴人の頭部だった。長い首がまっすぐに伸びていた。牙が開いていた。
落下速度は速かった。
だが、晴人は慌てなかった。
右足を大きく前に踏み込んだ。左足を後ろにしっかり残した。腰を少しだけ落とした。木の枝を右手一本で、順手に持ち直した。左手を右手の後ろに添えた。
朝の素振りで、九百八十本目に時々やる突きのフォームだった。
息を細く吐きながら、腕を伸ばした。
腕を伸ばしきるその瞬間、腰の回転を細く掛けた。細く細く掛けたその回転が、腕の伸びの最後の数センチに乗った。乗った回転が、木の枝の先端に集まった。
枝の先端が細く鋭く、上に伸びた。
伸びたその先端が、落ちてくる影の首の下側に触れた。
触れた、瞬間。
*
空間の上の闇の中で、影が静止した。
次の瞬間、影の頭部と首が、上下に真っ二つに割れた。長い首の途中で、水平に細く細く線が走り、そこから上と下が静かに離れた。
頭部は翼と切り離されて、上の闇の中に消えた。
残った翼だけの大きな影が、二秒ほど宙で静止した。その大きな影は、翼の動きを失うと、そのまま真下にゆっくり崩れて落ちてきた。
どがっ、と地響きがした。
空間の床の砂と白い骨と、風の匂いが大きく揺れた。
晴人は体を起こした。
彼はしばらく木の枝の先端を、じっと見た。
「……大きい、トカゲ、柔らかかったな」
小さく、つぶやいた。
枝を軽く振って、羽の粉を落とした。
*
視聴者たちの画面は、その瞬間また静止した。
止まっていたのは、五秒。
五秒経ったあと、コメント欄はこれまでで一番静かに、一番深く爆発した。
『いや』
『いや、待って』
『SS級を、木の枝の突きで』
『突きで』
『首を、真っ二つ』
『真っ二つ』
『大きい、トカゲ、柔らかかった』
『「大きい、トカゲ、柔らかかった」』
『名台詞、更新』
『これは殿堂入り、二日連続』
『あの人、SS級を、大きいトカゲって呼んだ』
『それも、柔らかかった、って』
『レオンが三回頑張って首を落とした、あの生き物の上位種を』
『木の枝で一突きで』
『階層バランスが崩れる、じゃなくて、あの人が階層バランスそのもの、なんだ』
『新ジャンル』
『突き系、無自覚、無双』
『毎日、新ジャンル』
『師匠!』
『師匠!』
『師匠!』
視聴者数、その時、二十三万を超えた。
*
晴人は崩れた大きな影の翼の脇を、静かに歩いた。
空間の奥の闇の中に、四階層への降り口が微かに見えた。緑がかった光が下から漏れていた。晴人はそこまで歩いて、少しだけ覗き込んだ。
昨日、途中まで行った四階層の続きだった。
……次はここから、と彼は静かに決めた。
だが、今日は三階層の奥まで、と詰所で言った。律儀な性格の晴人は、その言葉を守った。三階層の左通路の奥まで来た。奥の大きな影も片付けた。それで、今日は十分だった。
彼は静かに背を向け、通路を戻り始めた。
*
通路を戻る途中、ふと彼は立ち止まった。
空間の床に、大きな白い骨のようなものが、あちこちに転がっていた。
その骨のうちいくつかは、明らかにあの大きな影の羽の根元の骨の形をしていた。同じ形の骨が複数あった。数を数えた。少なくとも四つ。あの大きな影と同じような生き物の翼の骨が、この空間の中に少なくとも四つ転がっていた。
「……この場所は少し賑やかだったのだな」
小さく、つぶやいた。
パーティ時代、レオンがあの翼の生き物を倒した後、その翼を素材として持ち帰ろうとして、重すぎて諦めた、という話を思い出した。あの時、レオンは「絵面的には、いい感じの素材だが、持って帰れなきゃ意味がない」と笑っていた。
あの翼を四体分、ということは、この場所には以前四体いたのだ、と晴人は考えた。
どこかから来た四体が、それぞれ命を終えた場所。
……悪くない場所だな、と彼は少しだけ思った。
骨を避けて、通路の方に歩いた。
*
三階層の中央の大きな部屋を通り抜け、二階層の地下森ドームを通り抜け、一階層の通路を通り抜けた。
ダンジョンの入り口を出た。ドローンを回収した。スマホの青いところを押した。今日は幸か不幸か、また青の方に指が当たった。ただ、それは既に朝から続いていた配信の終了を意味していた。
配信が終わった。
詰所に戻った。
*
「お帰りなさい、風見様」
「はい」
「三階層の左通路は」
「はい、あの、奥まで行きました」
女性職員はペンを止めた。
「あの、大きな飛ぶ生き物が、いました」
「……はい」
「あの、少しその、落としてしまいまして」
女性職員の手が、書類の上で少しだけ震えた。
「あと、あの、床に白い骨のようなものが複数ありました。以前の、その、他の、そういう生き物の翼の骨のようで」
女性職員はしばらく、書類を書いていた手を止めた。
「……以前の翼の骨、ですか」
「はい、あの、四つほど」
「……四、つ」
「はい」
女性職員はしばらく書類を見た。それから深呼吸を一度した。
「はい、書類には記載します。ありがとうございます」
「あの、以前のは、あの、私ではないので」
「はい、はい、承知しております」
「はい、失礼しました」
「いえ、いえ」
晴人は頭を下げて、詰所を出た。
*
山道を下り、電車に乗り、街に戻った。
スーパーで、鶏むね肉の特売とキャベツと、明日の朝の分の食パンを買った。冷蔵庫の中身と相談を済ませ、明日の夕飯の献立を頭の中で決めた。
バスに乗って、家に戻った。
昼食を食べ、洗濯物を干し、素振りノートを開いた。
今日の欄に、書き足した。
『三階層、左通路の奥。大きな飛ぶ生き物。突きで対応可。首の下側に細く線を通した』
『大きいトカゲ、意外と柔らかい。表面が薄い』
『床に、以前の翼の骨が四つ。この場所は以前、賑やかだったらしい』
三行、書いた。
窓の外で蝉が鳴いていた。西の空が少しずつ赤くなり始めていた。
彼はノートを閉じ、麦茶を注いだ。
「……悪くないな」
小さく、つぶやいた。
彼はまだ、何一つ気づいていない。世界の側が、彼の朝の突きのたった一手を、既に殿堂入りの映像として静かに保存し始めていることに。
第九話 了




