第10話 「暁の剣、配信停止の日」
午前六時。
レオンは自室のベッドの上で、天井を見上げていた。
夜のうちに眠れなかった。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が天井に落ちていた。壁の時計の秒針が、こつり、こつり、と乾いた音を部屋の中に響かせていた。彼はその秒針の音に、しばらく意識を預けていた。
枕元のスマホを指で掴んだ。
ロックを外した。
通知欄が赤く埋まっていた。深夜のうちに、二百件を超えていた。
*
トレンドの一位は、当然、風見晴人だった。
二日連続で、殿堂入りの切り抜き動画が上位を独占していた。田村老人との会話。「稽古の外にある気持ちに、稽古の側が負けるんです」の一節。「追放を悔しく思うのは、素振りに悪いです」の答え。それから、昨日の朝、公園に通行人が投稿した『公園に、神がいた』の写真と動画。
その写真と動画は、既にSNS全域に深く根を下ろしていた。
風見晴人の朝の素振りは、もう隠されていなかった。
彼がどの街のどの公園で、何時に素振りをしているか。彼がどの電車の何号車に乗り、どの山道を登り、どの詰所に着き、どのダンジョンに入るか。全ての経路と時間帯が、既にSNSの集合知として綺麗に可視化されていた。
昨日の朝は、公園の入り口に通行人が一人。
今日の朝は、たぶん通行人が十人以上いる、とレオンは想像した。
その隣に、レオンの名前も並んでいた。
『#暁の剣は追放を撤回しろ』
このタグは四日連続で、トレンドの五位以内に居座り続けていた。
*
電話が鳴った。マネージャーだった。
「レオン、起きてるな」
「はい」
「今から事務所に来い」
「はい」
「メンバー全員、揃えてある」
「はい」
「話はそこでする」
通話が切れた。
レオンはしばらく天井を見た。それからゆっくり起き上がり、シャワーを浴び、鏡の前に立った。
鏡の中の自分の顔が、いつもより少し痩せて見えた。
……三日、ろくに寝てない。
彼は鏡の中の自分に向かって、そうつぶやいた。
金髪を軽く手で整えた。革のジャケットを着た。首のブランドのネックレスは、今日は外した。それだけで、家を出た。
*
事務所の応接室に、四人は既に揃っていた。
ミア、カイ、リラ、それからマネージャーの藤原。
四人の顔色は悪かった。ミアは明らかに泣いた後の顔だった。カイはいつもの大きな盾を持たずに、椅子の背もたれに深く体を預けていた。リラは後方支援の僧侶の癖で、両手を膝の上で静かに組んでいた。
藤原は応接室のホワイトボードの前に立っていた。
「揃ったな」
「はい」
「では、話す」
藤原は一枚の紙を、ホワイトボードに貼った。
紙には、シンプルなリストが書かれていた。
『スポンサー離脱一覧 現時点』
その下に、六つの会社名が並んでいた。
*
「昨日の夜六時までに六社。今、朝の六時までに追加で三社。合計九社が、契約解除の意向を正式に事務所に伝えてきた」
「……」
「これで、暁の剣のスポンサー契約は残り四社」
「はい」
「うち二社は様子見。あと二社が、契約継続を条件付きで示唆」
「条件って、なんです」
「配信内容の大幅な見直し。それから、リーダーの公式謝罪」
藤原は静かにそう言った。四人はそれを静かに聞いた。誰も驚かなかった。全員、覚悟はしていた。
*
「レオン」
「はい」
「マネージャーとして、判断を伝える」
「はい」
「暁の剣の配信活動は、一旦停止する」
「……」
「期間は未定」
「はい」
「その間、メンバー全員、個別の活動も停止。SNSの更新も止める」
「はい」
「事務所側で対応の方針を練り直す。それが決まるまで、静かにしていてくれ」
「……はい」
レオンは静かに頷いた。
ミアが少しだけ顔を上げた。
「藤原さん」
「なんだ」
「私、暁の剣、続けたい」
「そうだな」
「続けたい、けど、一旦止めるのは賛成」
「そうか」
「今、続けても、たぶんコメント欄が風見さんの話で埋まる」
「そうだ」
「私も、たぶん集中できない」
ミアはそこで口を閉じた。それ以上、彼女は何も言わなかった。
*
カイが体を少し起こした。
「兄貴」
「なんだ」
「俺、あの、少し話しても、いいっすか」
「いいぞ」
「あの、俺、この四日、盾を練習してみたっす」
レオンは軽く頷いた。
「風見さんがいなくなってから、盾の位置が下がってた話、覚えてるっすか」
「覚えてる」
「あの後、家で盾を鏡の前で構えて、姿勢を修正しようとしたんです」
「そうか」
「駄目でした」
「駄目、か」
「兄貴、俺、風見さんのこと、実はあんまり知らなかったんです」
「そうだな」
「風見さんが、いつ水筒を俺に差し出すか、いつ盾の予備の鋲を袋から出すか、いつ飯の匂いを俺の後ろから届けるか、全部、体で覚えてたんです。覚えてる、って、頭で思っていたわけじゃなくて、体で覚えてた」
レオンは黙って聞いていた。
「体で覚えてたその動きが、消えた今、盾を構えても、姿勢が決まらないんです」
「……」
「たぶん、盾って、盾を構える人と、その周りの動きが全部揃って、初めて決まる姿勢なんです」
「そうか」
「風見さんがいなくなってから、それ、初めて分かりました」
カイはそこで口を閉じた。
彼は、盾を握るその右手を、じっと見ていた。
*
リラが、両手を膝の上から少し上げた。
「私も、あの、少し話しても、いいですか」
「どうぞ」
「私、僧侶として詠唱を担当していますが」
「はい」
「詠唱って、実は、一人ではできないんです。詠唱の途中で周りの動きが乱れると、詠唱の音が乱れて、魔法の効果が下がるんです」
藤原は静かに続きを待った。
「私、この四日、家で詠唱の練習を繰り返しました。一人で詠唱する分には、綺麗な音が出ます」
「そうか」
「でも、パーティで詠唱すると、綺麗な音が出ないんです。なぜかって、しばらく考えました」
藤原は口を挟まなかった。
「気付きました。詠唱の直前に、水筒が差し出されないから、なんです」
「水筒、か」
「はい、風見さんは、私が詠唱に入る三秒前に、必ず水筒を差し出してくれていました。あの三秒で、私、喉を湿らせて、呼吸を整えて、詠唱に入っていたんです」
藤原はゆっくり頷いた。
「三秒って短い時間ですけど、あの、その三秒が詠唱の音の質を決めていました」
「……」
「気付いた時、私、少し震えました」
「そうか」
「風見さんは、詠唱の直前の三秒を、いつも、私の代わりに管理していたんです」
リラはそこで口を閉じた。
彼女の両手が、また静かに膝の上に戻った。
*
レオンはしばらく応接室の壁を見た。
壁の時計の秒針が、こつり、こつり、と鳴っていた。
彼はこの四日、深く深く、あの追放の日のことを反芻していた。何度反芻しても、答えは出なかった。ただ、事実だけが変わらずに残った。彼は風見晴人に、絵面が地味だと言った。それだけの事実が、日ごとに重く、彼の胸の中で育っていった。
だが、今、応接室でカイとリラの話を聞いて、彼は少しだけ別の視点を得た。
風見晴人は、絵面が地味だった。
地味だった、その理由は、彼が目立たない動きを選んでいたから、だった。
目立たない動きを選ぶ、ということは、パーティの他のメンバーが目立てるように、彼が選んでいた、ということだった。
カイの盾が決まるその姿勢。リラの詠唱の直前の三秒。ミアの援護のタイミング。レオンの剣の振り抜きの直後の水分補給。全ての目立つ動きの隣に、彼が目立たない動きを選んで、そこにいた。
あの目立たなさは、たぶん意図されたものだった。
……意図されたものだった、とレオンは心の中でそうつぶやいた。
*
「マネージャー」
「なんだ」
「一つ、質問、いいですか」
「どうぞ」
「風見さんの朝の素振りの映像、事務所で確認できますか」
「できるが、それがどうした」
「あの、俺、この機会に一度、朝の素振りの、あの映像をじっくり見たいんです。四日分、全部あります?」
藤原は少しだけ眉を上げた。
「あるが、なぜ」
「勉強、したいんです」
「勉強、か」
「はい」
「レオン、お前」
レオンは目を逸らさずに、藤原を見た。
「風見さんの素振りを見ても、勇者職の剣術の勉強には直接ならんぞ」
「はい、そうかもしれません」
「では、なぜ」
「あの、俺、勇者職の剣術の勉強をしたいんじゃ、ないんです」
「では、何を」
「あの、地味な動きの勉強を、したいんです」
*
応接室が、しばらく静かになった。
藤原はしばらくレオンの顔を見た。ミアもカイもリラも、レオンの顔を見た。四人の視線の中で、レオンは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
だが、彼は目を逸らさなかった。
「あの、俺、風見さんに、絵面が地味だ、と言って追放しました」
藤原は目を細めた。
「絵面が地味な動きの意味を、俺、実は一度も真面目に考えたことがなかったんです。今、考えたい」
藤原はしばらく黙って、レオンの目を見ていた。
「それが、俺の次の一歩の勉強になる気が、しています」
藤原はしばらく頷いていた。それから、静かに言った。
「わかった」
「はい」
「映像は、事務所の資料室に置いておく。配信停止の期間中、好きなだけ見ろ」
「はい、ありがとうございます」
レオンは深く頭を下げた。
*
その時。
応接室の隅のテレビが、静かに点いていた。テレビは朝のニュース番組を流していた。番組の司会者が話題を変え、大きく映像を切り替えた。
映像の中に、公園の砂場の隣、三本の桜の下、地味なジャージの猫背の中年男性が映っていた。
彼は木の枝を握っていた。
テレビの下のテロップが、静かに流れた。
『速報 「素振りおじさん」 三階層奥にて、大型の飛行系生物を、木の枝の一突きで討伐』
四人と藤原は、しばらくそのテレビを見た。
誰も声を出さなかった。
*
「……この人」
と、ミアが小さくつぶやいた。
「本当に木の枝で、SS級、倒したの」
「……らしい、な」
「え、じゃ、あの、三日前のA級と、四日前のB級と、二日前のS級と、全部」
「木の枝、だな」
「……」
「レオン」
「はい」
「あの人、うちのパーティに三年いたんだよね」
レオンは短く頷いた。
「三年、木の枝でA級以上倒せる人が、うちのパーティにいたんだね」
彼はもう一度頷いた。今度は目を伏せていた。
「気付かなかった、ね」
「はい、気付かなかったです」
ミアはそこで静かに、目を閉じた。
*
テレビの映像は、静止画の切り抜きに変わった。
三階層の奥の空間で、木の枝を突き出したその一瞬の静止画だった。腕が伸びきり、腰の回転が細く掛かり、体の芯がまっすぐに通っている、一枚の写真だった。
その写真を、しばらくレオンはじっと見た。
彼は、その写真の中の体の芯の通り方を、目で追った。
……朝の素振りの動作、そのものだった。
特別な突きのフォームではない。彼が毎朝、公園で九百八十本目に時々やる突きのフォームを、そのまま大きな飛行系の生物の首の下側に細く乗せた、だけだった。
振り下ろしと突きのフォームは、朝の公園で既に完成されていた。
完成されていたそのフォームを、彼はダンジョンの中でそのまま使っている、だけだった。
……朝の公園の素振りが、そのままダンジョンの戦闘になっている。
レオンは心の中で、そうつぶやいた。
*
「マネージャー」
「なんだ」
「あの、追加で、いいですか」
「どうぞ」
「風見さんの朝の素振りの映像、四日分、俺、一日目から順番に見たいです。それから、あの、朝の素振りの本数のカウント、俺、自分でもしてみたいです」
「本数、って」
「あの、風見さんの素振り、一日千本らしいので、俺も、朝、千本振ってみたいです」
「千本」
レオンは静かに頷いた。
「レオン、お前、勇者職の剣で千本振ったら、腕、壊れるぞ。一週間続けたら、腱が切れる」
「……はい」
「わかった上で、やるのか」
「わかった上で、やります」
「なぜ」
「あの、腕を壊さずに千本振る、その方法を、たぶん風見さんは体で知っています。俺、それを知りたいです」
藤原は静かに頷いた。
*
応接室を出る時、レオンは少しだけ遅れて、部屋の隅の時計を見た。
時計の秒針の音が、部屋の中でこつり、こつり、と静かに鳴っていた。
彼は、その秒針の音をしばらく聞いた。
それから、そっと部屋を出た。
*
その日、暁の剣の公式チャンネルは、静かに活動休止の告知を公開した。
告知はシンプルな白い背景に、黒い文字が並んでいるだけだった。
『暁の剣の配信活動を、当分の間、停止いたします。理由については、後日改めて、リーダーよりご説明の場を設けさせていただく予定です。応援いただいた皆様、スポンサーの皆様、そして、ご迷惑をおかけしている全ての方々に、心よりお詫び申し上げます』
署名は、暁の剣リーダー、レオン。
告知はその日、SNSに拡散された。
拡散の勢いは、いつもの話題の告知に比べると静かだった。まるで、既に多くの人がこの日の到来を予期していた、かのようだった。
コメント欄には、こういう書き込みが並んだ。
『了解した』
『まあ、そうなるよね』
『次の配信を、待ちます』
『レオンさん、ゆっくり考えてください』
『メンバーの皆さんも、無理しないで』
『素振りおじさんの映像を見てから、次の配信、頑張ってほしい』
『風見さんに謝罪する機会があるといい』
『謝罪しなくてもいい。風見さんはたぶん覚えてない』
『そうか、たぶん覚えてない』
『それが、風見さんのいいところ』
『それが、この話のいいところ』
視聴者たちのコメントは、静かで、長く、丁寧だった。
*
同じ日の夕方。
レオンは事務所の資料室に、こもっていた。
部屋の大きなモニターに、風見晴人の朝の素振りの四日分の映像が順番に映されていた。彼はその映像の一日目の最初の一本目から、順番に見た。
一本目の振り下ろしの腕の角度。二本目の腰の位置。三本目の足の踏み込み。四本目の呼吸の深さ。
彼は、それを一本ずつ丁寧に目で追った。
途中、何度も一時停止した。動画を巻き戻した。同じ場面を繰り返し再生した。
資料室の窓の外で、夏の蝉が鳴いていた。
彼はそれを聞きながら、モニターの中の地味な猫背の中年男性の素振りを、朝から夜までずっと見た。
途中、一度、彼は深く頷いた。
「……朝の素振りが、そのまま体の芯だ」
小さく、つぶやいた。
誰にも届かない独り言だった。
*
その、頃。
風見晴人は家のテーブルの前で、素振りノートを開いていた。
窓の外で夏の蝉が鳴いていた。西の空が少しずつ赤くなり始めていた。
彼はノートに今日の分を書き終え、麦茶を注ぎ、少しだけ椅子の背もたれに体を預けていた。
テーブルの上のスマホが、また震えた。
通知欄に、赤い数字がたくさん積まれていた。彼はそれを迷惑メールと判断した。開かずに閉じた。
着信欄の一番上には、こうあった。
『藤原 (暁の剣 マネージャー) 二件』
晴人はその名前を見た。少し記憶をたどった。何度か遠征の経費の精算で、事務所で会ったことのある人だった。真面目な人だった。
……何かあったのだろうか、と彼は少しだけ思った。
だが、そのまま通知を閉じた。
今日は疲れていた。夜、掛け直すか、明日にするか、考えるのも億劫だった。
「……悪くないな」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
彼はまだ、何一つ気づいていない。
世界の側が、既に彼の朝の素振りを、一本目から順番に、繰り返し繰り返し、じっと見つめ始めていることに。
その視線の中に、追放した元リーダーの視線も、静かに混じり始めていることに。
第十話 了




