第8話 「公園の老人と、朝の千本」
午前四時半。
風見晴人は今日もいつもの公園に立っていた。
今日は休みの日だった。ダンジョンには行かない。素振りだけ、いつも通り千本。それだけ済ませて、あとは洗濯と買い物と家計簿とノートの整理で、一日を終える。
パーティ時代からの習慣で、週に一日こういう日を必ず作っていた。
どれだけ気分が乗っていても、どれだけ体調が良くても、必ず一日休む。そうしないと、翌週の朝、体がいつもより重くなる。若い頃、それを二年ほど無視して、素振りを休みなしで続けたことがあった。三ヶ月目くらいから、体の芯が少しずつずれ始めた。四ヶ月目にフォームが崩れた。修正するのに半年かかった。あの経験が彼の中に深く残っていた。
だから休みは休む。
彼はそう決めていた。
樫の枝を持ち上げる。
空はまだ暗い。街灯の明かりが、公園の砂場の隣、三本の桜の下を静かに照らしていた。
*
この日の朝、公園の様子はまた少しだけ違っていた。
街灯の下、昨日記者の桑原が立っていた場所に、今日は別の人物が立っていた。
小柄な、白髪の老人だった。
七十歳前後だろうか。杖を突いていた。杖の先がコンクリートに触れる、こつり、という乾いた音が、朝の空気に時々響いた。彼は公園の入り口ではなく、公園の隅の街路樹の下に立っていた。
朝のこの時間の公園には、時々こういう散歩の老人が来ることがあった。晴人はその気配を目の端に捉えたが、特に気にはしなかった。
*
千本の素振りはいつものように始まった。
一。二。三。四。
振り上げて、振り下ろす。振り上げて、振り下ろす。
最初の百本は体が起きていない。関節が硬い。ここ数日慣れてきた樫の枝でも、朝の最初の数十本は重く感じられる。
二百本を過ぎたあたりで、少しずつ肩が回るようになる。
街路樹の下の老人は、しばらくじっとその素振りを見ていた。
彼は動かなかった。ただじっと立っていた。
時折、杖を両手で握り直し、少しだけ背筋を伸ばした。それ以外の動きはなかった。
*
同じ時刻。
日本全国のどこかの部屋で、五万人ほどの視聴者たちが、いつも通り通知アプリでたたき起こされ、いつも通り画面を開き、いつも通り朝の素振りを見ていた。
『来た』
『今日もフォーム、澄んでる』
『あれ、街路樹の下、じいちゃんいる』
『……いる』
『新しいファン?』
『まさか、あの人の家族とか?』
『あの人、天涯孤独って昨日の記事にあったよ』
『あー、じゃ関係ないか』
『通行人かな』
『いや、なんか、動かない』
『通行人にしては動かない』
『じっと見てる』
『分かる、あの見方は、何かを、知ってる人の見方』
『わかる』
『……たぶん、剣術か、武術か、そういう筋の人』
『マジで?』
視聴者数、開始十五分で、九万三千。
*
五百本を過ぎた。
晴人の動作から余計な力が抜けてくる。振りが少しずつ澄んでくる。空気の切れる音が細く鋭く鳴るようになる。
街路樹の下の老人は、その五百本目のあたりで、初めて少しだけ動いた。
彼は杖の先を地面に強く突いた。
こつん、と乾いた音が鳴った。
それだけだった。
晴人はその音を耳の端で聞いた。だが素振りは止めなかった。何かに気付いたわけでもなかった。ただ朝の公園には、時々こういう音が鳴るものだった。
*
千本目を、晴人はいつも通りに振り抜いた。
深く息を吐き、木の枝を軽く振って砂を落とした。
「……悪くないな」
一言、つぶやいた。
彼はいつものように、ドローンを回収しようと砂場の隣に置いてあったスマホを拾いに歩き出した。
その歩き出した瞬間。
街路樹の下から、老人がゆっくりこちらに歩いてきた。
*
杖の音がこつり、こつり、と規則正しくコンクリートを叩いた。
晴人は少しだけ立ち止まって、老人を待った。
老人は砂場の手前で立ち止まり、丁寧に頭を下げた。
「朝早くから、失礼します」
「はい」
「あの、少しだけお話をしていただけますか」
「はい、大丈夫です」
晴人は素直に頷いた。
老人はしばらく彼の顔を見た。柔らかい目だった。長年何かを教えてきた人の目だった。彼は少しだけ微笑んだ。
「あなた、良い素振りをなさいますね」
「はい、あの、ありがとうございます」
「私は、若い頃に少しこういう稽古を続けていた者でしてね」
「はい」
「見せていただいて、大変良いものを拝見しました」
「はい、あの、恐縮です」
晴人は頭を下げた。何を言えばいいのか少し迷った。素振りを褒められた経験がこれまであまりなかった。むしろパーティ時代には「そんな素振り、なんの意味があるんだ」と、若いメンバーに笑われることの方が多かった。
*
「あの、失礼ですが、お名前を伺っても」
「はい、風見晴人、と申します」
「風見さん、私は田村と申します。この近くの老人会館で、稽古の指導を時々しております」
晴人は小さく頭を下げた。
「もう随分と齢を取りましたが、若い頃は少し剣道をやっておりました」
「はい」
「一度、あの、拝見していて、聞いてみたいと思ったことがありまして」
「はい、なんでしょう」
田村は少しだけ遠慮がちに笑った。
「風見さん、あなた、素振りをどのくらい続けておられます」
「あの、十二年、です」
「十二年」
「はい、二十歳の頃から」
「毎日、ですか」
「はい、雨の日も、雪の日も」
「本数は」
「千本、です」
「千本」
晴人は静かに頷いた。
田村は目を細めた。
「……そう、ですか」
彼はしばらく頷いていた。それから、砂場の脇の桜の木の下に視線を移した。晴人の靴跡が、砂の上にまだ残っていた。
*
「風見さん、あの、私はあなたにこれを褒めるためだけに、声を掛けたのではないのです」
「はい」
「一つだけ、お尋ねしたいことがありまして」
「はい」
「あなたは、素振りを続けていて、一度でもこれをやめたいと思ったことがありますか」
晴人は少し驚いた。
この質問はこれまで、他人から聞かれたことがなかった。彼自身も、あまり深く考えたことがなかった。
彼はしばらく、砂場の隣の桜の木を見た。
「あの、二度あります」
「二度、ですか」
「はい」
「差し支えなければ、いつ、ですか」
「一度は、始めて三ヶ月目くらいの朝でした」
田村は目で先を促した。
「その日の朝、あの、少し雨が強くて、公園に来るのが億劫だったんです」
田村は黙って聞いていた。
「三ヶ月目だとまだ体はしんどいし、目に見える変化もないし」
「はい」
「その日、あの、やめようかと思いました」
「それで」
「あの、結局は来ました」
「はい」
「もう一度は、あの、二十五歳の時でした」
田村は小さく頷いた。
「その時、あの、少しあの、恋愛の関係で色々ありまして」
田村の目に、少しだけ柔らかい光が浮かんだ。
「それで、朝、公園に行くのが少し辛くて」
「はい」
「あの、その時もやめようかと思いました」
「それで」
「その時も、結局は来ました」
「なぜ」
晴人は少し笑った。この初めて会った丁寧な老人に、こういう話をしているのが少し不思議だった。
「あの、来なかった翌朝の体の感じが、想像できたんです」
田村は目を細めた。
「たぶん体の芯が少しずれる、と思いました」
「はい」
「そうするとその日一日、なんとなく気持ちが悪くて」
田村は口を挟まなかった。
「それは避けたかったので」
「はい」
「それで結局、来ました」
田村はしばらく頷いていた。
それからしばらく彼は、桜の木の下の砂の上の、晴人の靴跡を見た。
*
「風見さん」
「はい」
「あなた、良い素振りをなさっていますね」
「あの、はい、ありがとうございます」
「私、若い頃、稽古を指導する立場で色々な人を見てきましたが」
晴人は姿勢を正した。
「あの、才能のある若者をたくさん見てきました」
「はい」
「才能のある人が必ず上達する、というわけではないんですよ」
晴人は少しだけ首を傾げた。
「才能のある若者が上達しない、というのを何度も見ました」
「はい」
「なぜそうなるのか、私はしばらく分かりませんでした」
晴人は続きを待った。
「ある時、気付きました。上達しない若者は、稽古を休みたい日に休むんです」
「はい」
「気分が乗らない日、疲れている日、天気の悪い日、失恋した日、風邪気味の日」
晴人は黙って聞いていた。
「そういう日に、休みたいと思って休むんです」
「はい」
「そういう時、休みたいという気持ちは、稽古の外にあるんですよ」
晴人は小さく息を吐いた。
「稽古の外にあるその気持ちに、稽古の側が負けるんです」
「……はい」
「一度負けると、二度目はもう少し簡単に負けます」
晴人はゆっくり頷いた。
「気付いた頃には、稽古の方が、その人の生活の外にはみ出しています」
晴人は少し頷いた。
自分の話を、そんなに深く話したことは、なかった。だが、老人の言葉が、彼の中の、何かを少しだけ揺らした。
*
「風見さんの、素振りは、そうなっていない」
晴人は静かに頷いた。
「あの、それはあなたの素振りが、あなたの生活の内側に深く根を下ろしているからです」
「はい」
「歯を磨くのと同じくらい、と、以前記者の方に答えていましたね」
晴人は少し驚いた。
「あの、それをご存じで」
「はい、昨日、孫が動画を見せてくれました」
晴人は少し驚いた顔をした。
「動画であなたの話を聞いて、私、朝、少しこちらの公園に来て直接拝見したくなりました」
「はい」
「それで、朝、こちらに来ました」
晴人は深く頭を下げた。
「今、拝見して、動画の話の意味が分かりました」
田村はまた丁寧に頭を下げた。
「風見さん、あなたは素振りを続けて、これからもっと上に行かれます」
晴人は目を伏せた。
「その時、周りがうるさくなることもあると思います」
「はい」
「そういう時、どうか素振りを、生活の内側に置いておかれてください」
晴人はゆっくり頷いた。
「外側に押し出されると、他の上達しない若者たちと同じになります」
「……はい」
「あなたは、そうならないでください」
「はい、あの、ありがとうございます」
晴人は深く頭を下げた。
*
田村は丁寧にもう一度頭を下げ、杖を突いて公園を出て行った。
こつり、こつり、と規則正しい杖の音が、朝の空気に遠ざかっていった。
晴人はその背中をしばらく見送った。
彼はしばらく立ったまま動かなかった。それから、木の枝をもう一度軽く握り直した。
「……悪くないな」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
街灯の光が少しずつ朝日に消されていった。
*
その頃、視聴者たちの画面はまた静止していた。
止まっていたのは、七秒。
七秒経ったあと、コメント欄はいつもの爆発ではなく、静かな感嘆の流れになっていた。
『……なんだ、これ』
『泣いた』
『いやなぜか泣いた』
『わかる、俺もなぜか泣いた』
『田村さん、良い人だな』
『こういうお爺ちゃん、いてほしい』
『「稽古の外にある気持ちに、稽古の側が負けるんです」』
『名台詞、更新』
『これは、切り抜きの一位、いや、殿堂入り』
『素振りおじさん、殿堂入り』
『素振り人の教典』
『素振り宗、開祖に、風見晴人』
『開祖がまだ自分が開祖だと、気付いていない』
『そこがまた良い』
視聴者数、その時十六万を超えていた。
*
晴人はドローンを回収し、スマホの青いところを押し、公園を出た。
朝の光が、街を少しずつ明るくしていた。
彼はいつものコンビニの角を曲がり、いつものスーパーの前を通り過ぎた。今日は休みの日なので、買い物は午後にする。パン屋の匂いが道の途中に漂っていた。晴人は少しだけ迷って、それからパン屋の扉を開けた。
久しぶりに、朝食を外で済ませようかと思った。
パン屋の朝食セットは五百八十円だった。少し贅沢だが、たまにはこういう日も良いと彼は思った。
パンとコーヒーを注文し、店内の窓際の席に座った。
窓の外を、通行人が時々通った。
誰も彼を特別視はしなかった。このパン屋の店員さえも、彼のことをあの「素振りおじさん」だとは気付いていないようだった。ここの店員は、SNSにあまり詳しくないタイプだった。
彼は少しほっとしながら、パンを食べた。
温かかった。
*
パン屋を出て、公園の脇を通り、家に戻った。
午前八時前。
シャワーを浴び、洗濯物を干した。冷蔵庫の中身を確認して、午後の買い物のリストを作った。それから家計簿を開いた。
昨日の支出、電車代二百八十円、山道の途中で買ったコッペパン百六十円、スーパーの合計千四百五十七円。今日、パン屋の朝食セット五百八十円。晴人はそれを丁寧に書き込んだ。
その隣に、貯金の推移をつけているノートを開いた。
思っていたよりも、数字が少しだけ増えていた。
……ん、と彼は思った。
銀行のアプリを開いた。昨日の午後、一度通知が来ていた。晴人はその通知を迷惑メールだと思って閉じていた。だが、アプリを開くと、確かに昨日の午後、彼の口座に大きめの振込があった。
振込元は『冒険者ギルド 日本本部』
金額は、八桁の頭にしっかりと数字の入った額だった。
……八桁、と彼は少しだけ目を細めた。
彼はしばらくその数字を見つめた。それから、静かにアプリを閉じた。
「……悪くないな」
誰に言うでもなく、そう、つぶやいた。
*
素振りノートを、開いた。
今日の欄に、書き足した。
『田村さん、という老人の方とお話をした。剣道を若い頃、稽古の指導をされていた、との事』
『素振りを続けていて二度やめようと思った日のことを、聞かれた。話した』
『素振りは生活の内側に置いておくこと、との事。深く頷いた』
『銀行に大きめの振込。特別冒険者の給料らしい。冷蔵庫の中身と相談して、今週の予算を少し上げても良いかもしれない』
四行、書いた。
彼はノートを閉じ、麦茶を注いだ。
窓の外で、夏の蝉が鳴いていた。
「……悪くないな」
小さくつぶやいた。
彼はまだ、何一つ気づいていない。世界の側が、彼の朝の千本の意味を、少しずつ深く噛み締め始めていることに。
同時に、彼はまだ何一つ気づいていない。今日、公園に来ていた通行人の一人が、途中でスマホで彼の素振りをこっそり撮り、それを既にSNSに投稿し始めていることに。
その投稿の見出しは、こうだった。
『公園に、神がいた』
第八話 了




