第7話 「公園配信と、卵の賞味期限」
午前四時半。
風見晴人はいつも通り公園に立っていた。
五日目の朝である。ダンジョンに通い始めてから五日目。ギルド職員の萩田孝史から、特別冒険者登録の書類を受け取り、拇印を押した翌日の朝だった。
夜、家に戻ってから、レオンからの電話に掛け直すかどうか少し考えた。結局、掛けなかった。話す内容が思いつかなかった。追放された側から追放した側に何か話すべきことがあるのか、彼にはよくわからなかった。
空はまだ暗い。
樫の枝を持ち上げる。
一。二。三。四。
振り上げて、振り下ろす。
振り上げて、振り下ろす。
*
この日の朝はいつもと少しだけ違っていた。
公園の入り口の脇、街灯の下に細身の男が一人立っていた。
三十代半ば。カメラを一台肩から下げている。ジャケットを羽織り、その内側にペンとメモ帳をしまう用意がある。街の朝の公園にはまったく馴染まない服装だった。
男は雑誌記者だった。
週刊誌の若手記者で、担当は芸能とスポーツ、その他雑多なもの。「素振りおじさん」というタグがSNSのトレンド上位に居座り続けているのを、上司から見せられた。上司は「これ、追え」と五文字だけ言った。それが昨日の夕方の話だった。
記者はその日のうちに翠嵐ダンジョンの詰所に張り込みに行こうとしたが、山道を登り始めたところで日が暮れて諦めた。代わりに彼はSNSの投稿を丹念にたどった。
配信映像の中に時折映る公園の風景。街灯の並び。桜の木。砂場のような場所。ベンチの形。それらを組み合わせて、彼は街の中のこの小さな公園を割り出した。
この記者は有能だった。
夜のうちに現地に来て、公園の周辺を地理的に二時間確認した。そして朝の四時半前、公園の入り口に立った。
*
街灯の下の男はしばらく、砂場の隣の三本の桜のあたりを遠くから見た。
地味なジャージの猫背の中年男性。
……見つけた、と彼は心の中でつぶやいた。
カメラを構えたが、その瞬間、シャッターを切るのをやめた。
男の素振りが、あまりに静かだった。
彼はこれまで多くの人物を写真に収めてきた。有名俳優、政治家、事件現場の目撃者。だが、いずれもシャッターを切る瞬間には何かしらの「動き」があった。表情の変化、視線の揺れ、口の動き。それが写真に味を与える。
だが、目の前の中年男性には、その「動き」がなかった。
彼はただ、朝の公園で木の枝を振っていた。
振り上げ、振り下ろす。
その動作以外に、余計なものが一切なかった。
記者はカメラをそっと下ろした。
……写真はあとでいい。
彼はそう決めた。
そのまま街灯の下に立ち尽くし、公園の男の素振りをじっと眺めた。
*
千本目を晴人はいつも通り振り抜いた。
深く息を吐き、木の枝を軽く振って、砂を落とした。
「……悪くないな」
一言だけの独り言。
ドローンを回収する。今日はうまく赤いところを押した、と彼は思った。実際には、また青の方だった。だが、その頃には彼はもう、赤も青もどちらでもよくなり始めていた。動画は撮れているらしいので、それでいい、と雑な納得をしていた。
視聴者数、その時九万一千。
*
街灯の下から記者はゆっくりと、公園の中に足を踏み入れた。
「あの、失礼ですが」
声を掛けた。
晴人は少しだけ驚いた顔をした。この時間、公園に他の人がいることはほとんどなかった。振り向いて記者を見た。
「はい」
「風見晴人、さん、ですね」
晴人は小さく頷いた。
「私、雑誌『週刊オペレータ』の記者で、桑原と申します」
記者は名刺を差し出した。晴人は両手で受け取った。名刺には『週刊オペレータ 編集部 桑原忠雄』と書かれていた。晴人は名刺をしばらく見た。
「あの、風見さん、実は風見さんの朝の素振りが少し話題になっておりまして」
晴人は続きを待った。
「取材、といいますか、少しお話を伺えないかと」
「はい、あの、少しなら」
晴人は素直に頷いた。
時間はあった。今日はダンジョンに行くつもりではあったが、始発まではまだ一時間ある。取材というのがどんなものか、彼にはよくわからなかったが、断る理由も特になかった。
*
「では、あの、簡単に伺いますが」
「はい」
「風見さんはこちらの公園で毎朝、素振りをなさっているんですね」
「はい、そうです」
「本数は」
「千本、です」
「千本」
記者はメモ帳に何か書き付けた。
「毎日、ですか」
「はい、雨の日も雪の日も、パーティで遠征中の朝も、大晦日も正月も」
「……十二年、ほど」
「はい、二十歳の頃から」
「十二年間、毎朝千本」
晴人は静かに頷いた。
記者はペンをメモ帳に走らせた。しばらくその手を止めなかった。
「あの、風見さん、それは、その、何を目指してなさっているんですか」
「特に目指してはいません」
記者は少しだけ視線を上げた。
「ただ、まあ、始めた時に少し悔しいことがあって、それから続けています」
「続けている理由は」
「歯を磨くのと同じくらい、やらないと気持ちが悪いんです」
記者はメモの手を止め、しばらく晴人の顔を見た。
彼はこの取材で色々な角度から質問を用意していた。有名になった気分はどうか、暁の剣に対する思いはあるか、SNSの反応をどう受け止めているか、今後の予定は。だが、目の前の男性のあまりに飾らない静かな答え方を聞いて、いくつかの質問が意味を失った。
彼は質問を切り替えた。
*
「風見さん、あの、少し話が変わりますが」
「はい」
「風見さんは、その、追放されたと伺いました」
「はい、暁の剣というパーティを五日前に」
「はい、それについて、その、恨みとか悔しさは」
「あの、それは、ないです」
「ないですか」
「はい」
「本当にないですか」
「本当にないです」
「あの、なぜ、ですか」
晴人は少し考えた。
「あの、レオンさんが追放したいのはレオンさんの都合で、私が悔しく思うのは私の都合で、別のものだと思うので」
記者はペン先を止めた。
「もし悔しさがあれば、悔しく思ってもいいと私は思うのですが、あの、今はあんまり悔しくはないので」
記者は口を挟まなかった。
「無理をして悔しくなろうとするのは、素振りに悪いです」
「素振りに悪い、ですか」
「はい、朝の素振りは体の芯が落ち着いていないと、うまく振れないんです」
記者はメモをとる手をまた止めた。
しばらく彼は晴人の顔を見た。それから視線を、公園の砂場の隣の桜の木の下に移した。晴人がいつも素振りをする場所。まだそこには彼の靴跡が砂の上に残っていた。
「……そう、ですか」
記者は小さく頷いた。
*
「では、あの、質問を変えます」
「はい」
「朝の素振りの、その、一番大事なところはどこですか」
晴人はしばらく考えた。
これは簡単な質問だった。彼の中に答えは既にあった。だが、その答えを他人に口に出して話したことは、これまで一度もなかった。少しだけ迷った。
「……体の、芯です」
「体の、芯」
「はい、腕とか肩とか腰とかは日によって少しずつ違うんですけど、体の芯だけはいつもまっすぐ通っていることが大事です」
記者はゆっくりと頷いた。
「あの、体の芯が通っていないと、振っても力が逃げてしまうんです」
記者はメモを取る手を止めていた。
「体の芯が通っていると、力が逃げずに枝の先まで伝わって、そうすると、あの、こう、綺麗な線が空気の中に出るんです」
記者はその最後の言葉に少し目を細めた。
「綺麗な、線」
「はい、これは本当かどうか私もよくわからないんですけど、時々そういう気がすることがあって」
記者は黙って続きを待った。
「まあ、気のせいだと思うんですけど」
「はい」
記者は頷いた。頷きながら、彼は心の中でそっとこう思った。
……気のせいではない。
あなたはその綺麗な線を、四日連続でダンジョンの壁に残しています。
*
その時、視聴者たちは記者と晴人のやり取りをリアルタイムで聞いていた。
朝の素振りの千本を終えたところで、ドローンは彼の頭上をゆっくり旋回していた。マイクは公園の環境音を静かに拾っていた。記者と晴人の声も、ドローンのマイクは綺麗に拾っていた。
『……なにこの、良質な取材』
『記者、有能じゃん』
『途中で質問を切り替えたの、うまい』
『「体の芯」』
『「綺麗な、線」』
『え、本人、気付いてるの?』
『「気のせい」って言ってる』
『気のせいじゃないんよ』
『気のせいで壁は切れないんよ』
『でも本人の中では気のせい』
『それがいいんだ、それが』
『追放を悔しく思うのは、素振りに、悪い』
『名台詞』
『これ切り抜きの一位』
『あーもう、この人、追放とかじゃなくて、聖人だから』
『聖人じゃない、素振り人』
『新語出ました』
『素振り人』
『流行語大賞候補』
視聴者数、その時十二万を超えた。
*
取材が終わり、記者は丁寧に頭を下げた。
「風見さん、大変良いお話を聞かせていただきました。ありがとうございました」
「はい、こちらこそ、変な話しかできず」
「いえ、いえ」
「あの、記事になるんですか」
「はい、書かせていただきたいと思います」
晴人は小さく頷いた。
「あの、少し聞くのを忘れていましたが、風見さん、今のお仕事は」
「あの、無職です」
「無職」
「はい、追放されてから、まだ次のパーティの話は来ていないので」
「では、ダンジョンには」
「はい、鍛錬場として通っています」
「鍛錬場」
「はい、公園だけだと少し飽きるので」
記者はしばらく頷いた。それから、少し遠慮がちに聞いた。
「あの、生活は大丈夫ですか」
「あの、貯金はあります」
記者は少し安心したような顔をした。
「あと、今朝、萩田さんという方から、特別冒険者というものになるように、と言われて書類を書きました」
「特別冒険者」
「はい、あれはお給料が出るものらしいので、まあ、生活には当面困らないと思います」
記者はペンをメモ帳に走らせた。それから丁寧に頭を下げた。
「そう、ですか、それは良かったです」
晴人は小さく頭を下げた。
記者はもう一度深く頭を下げ、公園を出て行った。
*
晴人は駅までの道を歩き、始発に乗り、電車で五駅、山道を三十分、詰所に着き、ダンジョンに入り、四階層まで行った。
四階層は緑がかった光の空間で、通路の途中に小さな重力異常のエリアがあった。晴人はそこで、足裏の着地の感覚が少しだけ狂うのを面白く思った。パーティ時代、こういう場所での体の使い方はあまり練習したことがなかった。
朝の素振りに応用できるかもしれない、と彼は思った。
途中、モンスターの群れではないが、単独の大きなものが二体出た。晴人はそれを通り抜けるついでに、それぞれ一振りずつで通り過ぎた。四階層の通路の壁が二本、直線的に切れた。
三階層の大きな岩の塊の残骸は、今日は既に片付けられていた。
彼は四階層の途中の、大きな部屋の入り口で立ち止まり、今日はここまで、と決めて来た道を戻った。
詰所に戻り、山道を下り、電車に乗り、街に戻った。
*
街に戻ると、ちょうど昼過ぎだった。
スーパーに寄った。
入り口の自動ドアを抜けた瞬間、店内から視線が集まった。
パートのおばさん。品出しの学生。買い物客の主婦。みんな一斉に晴人の方を見た。晴人は少しだけ自分の服装を確認した。汗をかいてはいるが、これほど注目される身なりではなかった。
「……」
彼は少し首を傾げて、そのまままっすぐ卵売り場に向かった。
卵売り場の前で、彼はいつも通り上から下まで、パックを一つずつ確認した。値段。産地。個数。それから賞味期限。
彼がパックを一つ手に取った、その時。
背後から、明らかに目立とうとする若い男性の声が飛んできた。
「あの、風見さん、ですよね!」
晴人は、振り返った。
スーパーの制服を着た、二十代前半の男性店員だった。手にスマホを持っていた。カメラのレンズがこちらを向いていた。
*
「あの、お客様、あの、風見晴人さんですよね」
「はい、そうですが」
「あの、実は店長から、風見さんが来店された場合は可能であればコメントをいただけないか、と」
「あの、コメント、ですか」
「はい、お客様として当店を選んでいただいている、そのご感想を」
「はい、普通に近くて便利で、いつも助かっています」
「ありがとうございます! あの、では他に、お店の、その、こだわりの商品などについて、コメントをいただければ」
晴人はしばらく考えた。手に持っていた卵のパックを少し掲げた。
「あの、この卵、賞味期限があの、来週まであるので、いいと思います」
「はい、はい」
「卵は賞味期限が一週間あると、日曜の朝食から次の日曜の朝食まで使えるので、ちょうど良いです」
店員は必死にスマホを構え直した。
「あと、パックが割れていないので、まあ、良いと思います」
「は、はい」
「以上です」
店員はスマホを下ろした。少し、顔が真っ赤になっていた。
「あ、あ、ありがとうございます! あの、では、失礼しました!」
店員は深く頭を下げて、走って店の奥に引っ込んで行った。晴人はその背中を少し不思議そうに見た。
……何だったのだろう、と彼は思った。
だが、それ以上深く考えることはしなかった。彼は卵のパックをカゴに入れ、豆腐と、明日の朝食用のパンを追加した。特売のもやしを二袋買った。冷蔵庫の中身との相談を済ませた。
*
視聴者たちはそのやり取りを、彼のリュックに入ったままのドローンの下向きカメラを通して聞いていた。
映像は、リュックの布と水筒の側面と、卵売り場のパッケージの下端だけだった。
だが、音声は完璧に届いていた。
『……卵の、賞味期限が一週間あると』
『日曜の朝食から、次の日曜の朝食まで』
『使えるので、ちょうど良い』
『名台詞、更新』
『え、これ、今日の切り抜き一位、確定』
『日本語が優しすぎる』
『卵の話がこんなに癒される話になるとは』
『素振り人、ここに極まれり』
『卵人』
『新ジャンル』
『毎日、新ジャンルが増える』
『今日はもう、これで、いいや』
『帰る、帰って、卵、買ってくる』
『……なんで俺、卵を買いに行かなきゃならないんだ』
『それがこの人の、力』
視聴者数、その時十四万を超えていた。
*
晴人はバスに乗り、家に戻った。
昼食を食べ、洗濯物を干し、素振りノートを開いた。
今日の欄に書き足した。
『四階層。緑の光。途中に重力の少し狂う場所あり。足裏の着地の練習になる』
『スーパーで店員さんに卵の話をした。何を話せば良かったのか少し分からなかった』
『取材というのを受けた。桑原さんという記者さん。丁寧な人だった』
三行、書いた。
窓の外で蝉が鳴いていた。西の空が少しずつ赤くなり始めていた。
彼はノートを閉じ、麦茶を注ぎ、少しだけ椅子の背もたれに体を預けた。
「……悪くないな」
小さくつぶやいた。
テーブルの上のスマホがまた震えた。
通知欄に、赤い数字がたくさん積まれていた。晴人はそれを迷惑メールと判断した。開かずに閉じた。
彼はまだ、何一つ気づいていない。世界の側が、彼の卵の話を既に日ごとの楽しみにし始めていることに。
第七話 了




