第6話 「岩の巨人と、山道の職員」
午前四時半。
風見晴人は公園に立っていた。
四日目の朝である。ダンジョンに通い始めてから四日目、と数えれば正しい。追放されてから数えれば五日目。彼はそういう細かい数え方は、あまりしなかった。ただ、素振りを始めてから何日が経ったか、という数え方だけは、なぜか正確に覚えていた。
空はまだ暗い。
夏の朝の湿度が、シャツの首元にじわりと張り付く。今日は昨日より、湿度が高い。梅雨が明けきっていないのかもしれない、と晴人は思った。
枝を持ち上げる。
樫の枝の柄が、手の中で、しっとりと落ち着いていた。四日目の付き合いになる。すでに、指の位置は、体が覚えている。
一。二。三。四。
振り上げて、振り下ろす。
振り上げて、振り下ろす。
*
同時刻。
日本全国のどこかの部屋で、ある若い視聴者が、目覚まし代わりに置いてあるスマホをつかんだ。
彼は、大学院生だった。四日前まで、深夜アニメを流し見しながら寝落ちするタイプの、ごく普通の学生だった。それが、四日目にして、朝四時半の目覚まし係になっていた。
通知アプリが震えた。
『#素振りおじさん朝配信、開始しました』
彼は迷わずベッドから起き上がり、スマホを両手で持ち、寝ぼけ声でつぶやいた。
「……始まった」
同じ頃、日本全国のあちこちで、似たような光景が繰り返されていた。深夜バイト帰りの若者。子育て中の主婦。夜勤明けの看護師。海外に住む日本人留学生。彼らは、みんな、同じ通知でスマホを開き、同じ画面を眺め始めた。
画面の中の、地味なジャージの男。三十過ぎ。木の枝。早朝の公園。
視聴者数、開始十分で、八万三千。
*
千本の素振りを終えて、晴人はドローンを回収した。
汗を拭き、麦茶を一口。今日は、三階層まで行くつもりだった。
昨日の二階層で、下段からの水平払いが甲虫の群れに効いた。あのフォームは、また使う機会がある気がする。祖父の草刈りの動きなど、ここ数年、思い出すこともなかったのに、体は、こうも器用に、古い動きを引っ張り出してくるものだ、と、少し感心した。
彼は駅までの道を歩いた。始発に乗った。電車の中は、いつもより人が多かった。若者が数人、彼の方をちらりと見た。晴人は、また服装を確認したが、特におかしなところはなかった。
電車を降り、山道に入った。
山道の途中、いつもは誰もいないベンチのそばに、今日は、一人、立っている人物がいた。
白いシャツ。黒いスラックス。四十代前半くらいの、疲れた顔をした男性。一目でわかった。役所か、それに準ずる仕事の身なりだった。
*
「風見晴人さん、ですね」
男は、丁寧に頭を下げた。晴人は少し立ち止まった。
「はい」
「ギルド本部の、地方監査室から来ました、萩田と申します」
男は名刺を差し出した。晴人はそれを両手で受け取った。名刺には『冒険者ギルド日本本部 地方監査室 主任 萩田孝史』と書かれていた。
「あの、朝早くから、恐れ入ります。ここでお待ちしていました」
「はい」
「三日連続で、翠嵐ダンジョンにお通いいただいていますね」
「はい」
「その、大変申し上げにくいのですが、風見様の、ダンジョン内での、その、活動の記録が、こちら本部の側でも、確認されておりまして」
「はい」
「それに関して、少しだけ、山道を歩きながらで結構ですので、お話をさせていただけないかと」
「はい、時間はあります。あの、ダンジョンの入り口に着くまでで、大丈夫ですか」
「はい、それで十分です」
萩田は、少しほっとしたような顔をした。
*
二人は、山道を並んで歩き始めた。
萩田は歩きながら、書類の入ったファイルを、脇に抱えていた。彼は最初、話し出しに少し迷った様子だったが、山道を三分ほど登った頃、意を決したように、口を開いた。
「風見様、単刀直入に申し上げます。ダンジョン内での、大規模な地形変化について、本部としては、正確に把握したい、という立場でおります」
「はい」
「三日前、翠嵐ダンジョン一階層で、通路の壁が、水平に、一直線に、切断された痕跡が発見されました」
「はい」
「二日前、同じ一階層で、通路の壁が、斜めに、一直線に、切断された痕跡が発見されました」
「はい」
「昨日、二階層の地下森ドームで、大型の甲虫の群れが、全て、下段から水平に、一直線に、切断された痕跡が発見されました」
「はい」
晴人は、萩田の言葉に、一つ一つ、素直に頷いた。
「あの、これらの現象について、風見様は、心当たりが」
「はい、あります」
「……あります、か」
「はい」
萩田は、少し立ち止まった。晴人も立ち止まった。萩田は、書類のファイルを胸に抱き直した。
「あの、失礼ですが、風見様の、その、お使いになっている武器は」
「木の枝です」
「木の、枝」
「はい、樫の枝、だと思います」
「……はい」
萩田は、しばらく、山道の脇の草を見た。それから、深呼吸を一度した。
*
「風見様。あの、本部としては、これらの、大規模な地形変化について、責任を追及する意図は、ないんです」
「はい」
「壁の切断は、ダンジョンの修復機能で復旧しますし、甲虫の群れは、そもそも、駆除の対象でしたので、感謝すらされております」
「はい」
「ただ、こう、今後、風見様が、ダンジョン内で、意図せず、大規模な地形変化を、その、引き起こされる可能性が、あります。それについて、本部として、その、一定の把握と、記録を、させていただきたい、というのが、正直なところでして」
「はい」
「そこで、ご提案なのですが、風見様に、特別冒険者登録を、していただけないかと」
晴人は、少し考えた。
昨日、詰所で、女性職員から、同じような書類を見せられた。あのときは、断った。断った理由は、書類が難しくて、面倒だったからだった。今日、萩田の口から聞くと、話は少し違って聞こえた。
「特別、冒険者、登録」
「はい」
「あの、それは、義務のようなものが、ついてくるんですか」
「義務、といいますと」
「あの、断れない依頼、というのは、ありますか」
萩田は、目を少し丸くした。
「断れない、依頼」
「はい、例えば、その、危険な場所に行ってこい、とか、有事の時は必ず出動しろ、とか、そういう」
萩田はしばらく、書類のファイルを見た。
「……いえ、特別冒険者登録は、依頼の受注は、全て任意です。本部からの推薦依頼は、確かに、ありますが、断ることが可能な設計になっています。国家非常事態宣言下でも、参加は任意、というのが、この制度の建て付けです」
「はい」
「実際、過去に登録された特別冒険者の中には、依頼を一度も受けず、日常の中で活動されている方も、複数、いらっしゃいます」
「はい、そうですか」
晴人は、少し頷いた。
断れない依頼はない。それなら、面倒が少し減る。
*
「では、あの、書類を、書きます」
「よろしいのですか」
「はい」
「ありがとうございます」
萩田は、少しだけ、頭を下げた。
二人は、山道の脇のベンチに座った。萩田は、ファイルから、書類を取り出した。晴人は、それを、一枚ずつ、上から下まで、丁寧に読んだ。
書類の内容は、思ったより少なかった。氏名、住所、連絡先、ライセンス番号、それから、いくつかの同意項目。同意項目の中に、こういうものがあった。
『ダンジョン内での、大規模な地形変化を伴う戦闘行為について、本部への事後報告に協力すること』
晴人は、そこを指でなぞった。
「あの、この、大規模な地形変化、というのは」
「はい」
「あの、正直に申しますと、私は、大規模な地形変化、を、起こそうと思って、起こしているわけでは、ないんです」
「はい」
「素振りをして、いつも通りに、振っているだけで」
「はい」
「それで、その、周りが、時々、その、切れて、しまう、というだけで」
「はい」
「ですので、こう、報告をする、ということが、実は、あまり、その、認識のうえで、できない、可能性があるのですが」
萩田は、しばらく黙って、頷いた。
「はい、風見様。あの、こちらとしては、風見様が『認識したかどうか』は、問いません。ダンジョン内で、修復の跡が残った場合は、本部の側で、勝手に、記録します。風見様には、次に来られた時、詰所で『一言、あった』とだけ、教えていただければ、それで、十分です」
「あ、それなら」
「はい」
「はい、大丈夫です」
「ありがとうございます」
晴人は、丁寧に、書類に名前を書いた。住所を書いた。連絡先を書いた。同意項目にチェックを入れた。判子は、家に置いてきたので、拇印で代用した。
*
萩田は、書類を丁寧に受け取り、ファイルにしまった。
「これで、正式に、特別冒険者登録が、完了しました。カードは、後日、郵送いたします」
「はい、ありがとうございます」
「あの、風見様」
「はい」
「差し支えなければ、これから、ダンジョンには」
「はい、三階層まで、行くつもりです」
「三階層」
「はい」
「かしこまりました。私は、この山道で、引き返します。今日は、ここまでで、失礼いたします」
「はい、わざわざ、ありがとうございました」
萩田は、丁寧に頭を下げ、山道を下って行った。晴人はその背中を、少しだけ見送った。それから、また、木の枝を持ち直して、山道を登り始めた。
彼は、その時、スマホをポケットに入れたままだった。ドローンも、まだリュックの中にしまってあった。だから、この山道での、萩田との一連の会話は、幸か不幸か、配信には流れなかった。
*
だが、視聴者たちは、その代わりに、リュックの中の暗がりを、じっと見ていた。
朝の公園から、電車の中、山道の途中まで、ドローンからの配信は、リュックの内側の布と、水筒の側面と、時折、揺れて見える隙間の光を、延々と映し続けていた。視聴者たちは、その映像に、なぜか、飽きなかった。
『リュックの中、静かでいいな』
『わかる、癒される』
『これは新ジャンル、リュック配信』
『ASMR』
『あ、いま歩き始めた』
『足音がリュックの中で聞こえる』
『職員と会話してた、っぽい?』
『萩田って人? 多分、地方監査室』
『あの人、ネットで名前出てる』
『名前出ちゃってるのか』
『萩田さん、朝からご苦労様』
視聴者たちの、リュック配信への愛は、既に、独自の文化になり始めていた。
*
詰所に着いた。
今日の担当は、また別の職員だった。三十代半ばの男性。表情は硬いが、動きは丁寧だった。晴人がライセンスカードを見せると、彼は静かに頷いて、書類を差し出した。
「風見様、本日は、どちらまで」
「三階層まで、行こうと」
「かしこまりました」
男性職員は、書類にペンを走らせた。手は、震えていなかった。彼はすでに、萩田からの連絡を受けていたようで、風見晴人という名前に対して、驚きの表情を作らない、という訓練を、この一晩で済ませていた。
「三階層は、赤い光の空間になっております。中央に、一つ、大きな部屋があります。ご存知でしょうか」
「あの、噂だけは、聞いたことがあります」
「はい、その中央の部屋に、時々、大きな、その、岩でできた、大型の魔物が、出現します」
「はい」
「本日、出現の可能性が、高いです」
「はい、わかりました」
男性職員は、書類を仕舞い、丁寧に頭を下げた。晴人は、それに軽く応え、ダンジョンの入り口に向かった。
*
三階層は、階段を下りきると、いきなり、大きな空間だった。
天井が高い。壁は赤みがかった岩肌。空気は乾いていて、少し熱を含んでいた。奥に、通路の入り口が三つ、放射状に伸びていた。真ん中の一番大きな入り口の奥に、赤い光がぼんやりと揺れていた。
晴人は、真ん中の通路を、迷わず進んだ。
通路の奥の空間は、円形のドームだった。
直径、五十メートルほど。高さ、二十メートル。ドームの中央に、大きな塊が、座っていた。
最初、晴人は、それを、岩の像だと思った。
だが、塊は、ゆっくり、動いた。
*
立ち上がった。
高さ十メートル。両腕、両脚、頭、胴体。全てが、灰色の、大きな岩の塊で出来ていた。関節の隙間には、赤い光が漏れていた。目の位置に、二つ、赤い点があった。それが、ぎょろりと、晴人の方を見た。
「……ほう」
晴人は、木の枝を持ち直した。
これは、ずいぶんと、大きな石だ、と、彼は思った。
パーティ時代、レオンが、こういう類の魔物を相手にしたことがあったのを、思い出した。あの時、レオンは、大きな両手剣を、両手で振り上げて、全力で三度、斬りつけていた。三度目でようやく、頭部を落として、勝った。それでも、勝った後、レオンは肩で息をしていて、機嫌が悪かった。
……確かに、あれは、疲れる相手だった。
だが、あの時と、今の自分では、少し違う点があった。それは、今、自分が使っているのが、両手剣ではなく、木の枝だ、という点だった。両手剣で殴っても、たぶん、この塊は、簡単には割れない。だが、木の枝でも、木の枝の使い方をすれば、それなりに、いけるかもしれない。
晴人はそう考えた。
なぜかというと、彼は昔、田舎で、割り箸みたいな細い枝で、乾いた土の塊を、綺麗に割った経験があったからだった。乾いた土の塊は、一見、固く見えるが、力を、点で、正確に、決まった場所に加えれば、意外なほど、あっさりと、割れる。
目の前の岩の塊も、それに似ている、と、彼は思った。
乾いていて、大きくて、脆そうだ。
*
視聴者たちの画面には、その時、たった一人の男と、十メートルの塊が、映っていた。
『は?』
『いや、これはさすがに』
『え、また、木の枝?』
『これS級指定のロック・タイタンだよ』
『ロック・タイタン』
『S級』
『いつも思うんだけど、翠嵐ダンジョン、階層のバランス、おかしくない?』
『管理側の悲鳴が聞こえる』
『上位のモンスターが、下位の階層に迷い出てくる仕様なんだよ、翠嵐は』
『それでも来ちゃう? S級?』
『来ちゃう』
『おじさん、逃げて』
『いや、逃げないで』
『逃げないでほしい派』
『いつもの本音』
視聴者数、十六万四千。
*
岩の塊が、右腕を、大きく振り上げた。
拳が、天井近くまで、上がった。落ちてくるまで、たぶん、二秒。
晴人は、その二秒の間に、体を、四十五度、斜めに構え直した。
右足を、大きく、前に踏み込んだ。左足を、しっかり、後ろに残した。腰の位置を、深く落とした。木の枝を、右手一本で、逆手に、下から、持ち上げた。
朝の素振りで、時々、変則で、逆手の振りをすることがあった。あれは、体の裏側の筋肉を使う、いい鍛錬になる。フォームとしては、正統ではないが、体を動かす練習としては、悪くない。
その、逆手の、下からの振りを、彼は、選んだ。
振り上げた。
枝の先端が、下から、上へ、まっすぐ、垂直に、塊の胸のあたりを、通り抜けた。
通り抜けた瞬間、塊の胸の中央に、細い、垂直の、線が、走った。
線は、頭部の頂点まで、まっすぐに、走った。
塊の落ちてくる拳が、途中で、動きを止めた。
止めた、というよりは、拳を支える腕が、胸から下、上下、真っ二つに、割れた、というのが、正確だった。塊は、上半分と下半分に分かれたまま、しばらく、ふらり、と揺れて、それから、両側に、静かに、崩れていった。
どがっ、と、地響きがした。
ドームの床に、大きな岩の塊が、二つ、転がった。
晴人は、体を起こした。
「……脆いな」
小さく、つぶやいた。
枝を軽く振って、埃を落とした。
*
視聴者たちの画面は、その瞬間、また、静止した。
止まっていたのは、四秒。
四秒経ったあと、コメント欄が、これまでで、一番、大きく、爆発した。
『は?????』
『いや、待って』
『S級を、逆手で?』
『下から、上へ、真っ二つに』
『真っ二つに』
『脆い、って言った』
『脆いって言ったよあの人』
『S級を』
『何ならもう脆いS級』
『新ジャンル』
『垂直系無自覚無双』
『毎日、新ジャンルが増える』
『あの人、一日ごとに新しい派閥を作ってる』
『そのうちアレの派閥ができる、絶対』
『師匠!』
『師匠!』
『師匠!』
視聴者数、その時、二十万を超えた。
*
晴人は、崩れた岩の塊の、脇を、静かに歩いた。
ドームの奥に、四階層への降り口が、微かに見えた。晴人は、そこまで歩いて行き、少しだけ、覗き込んだ。
薄い、緑がかった光が、下から漏れていた。
……四階層は、緑の光か。
彼は、それを心にとめて、また、静かに、背を向けた。今日は、三階層まで、と、詰所で言ったばかりだった。律儀な性格の晴人は、その言葉を守った。
*
通路を戻り、三階層の階段を上がり、二階層を横切り、一階層を通って、ダンジョンの入り口に戻った。ドローンを回収し、スマホの、青いところを押して、配信を止めた。今日は、うまく、停止ボタンに、当たった。
詰所に戻った。
男性職員は、晴人の姿を見て、静かに頷いた。
「お帰りなさい、風見様」
「はい」
「三階層は」
「はい、あの、中央の部屋で、大きな、その、岩でできた塊が、いました」
「はい」
「あの、少し、その、落としてしまいまして」
「はい」
「あと、あの、萩田さんに、書類を、記入させていただきました」
「はい、承知しております」
「そうですか」
「ありがとうございます、本部からも、感謝の伝言を、いただいております」
「はい」
男性職員は、書類にペンを走らせた。今日の彼のペンは、震えていなかった。彼は、萩田からの連絡と、朝からの心の準備で、なんとか、平静を保っていた。
「本日、討伐実績は、岩の、その、塊、一体、ということで」
「はい」
「かしこまりました。お疲れ様でした」
「はい、ありがとうございました」
晴人は、頭を下げて、詰所を出た。
*
山道を下る途中、スマホが、久しぶりに、大きく震えた。
晴人は、それをポケットから取り出して、画面を見た。ロック画面に、通知が、たくさん、積まれていた。
銀行アプリからの、着信通知。
メッセージアプリの、通知欄。
そして、電話の履歴。
電話は、レオンからだった。
晴人は、しばらく、その名前を、見つめた。
着信は、朝、五時頃から、間欠的に、七回。ここ数日、レオンからの連絡は、一度もなかった。それが、今日、突然、七回。
……何か、あったのかもしれない、と、彼は思った。
だが、そのまま、通知を閉じた。今、山道の途中で、話す気には、なれなかった。夜、家に戻ってから、掛け直すかどうか、考えよう、と、決めた。
*
彼は、駅に戻り、電車に乗り、街に戻った。
スーパーで、卵と、豆腐と、明日の朝の分の食パンを買った。特売のトマトが、三個で百九十八円だったので、二袋、買った。冷蔵庫の中身と相談して、明日の夕飯の献立も決めた。
バスに乗って家に戻り、昼食を食べ、洗濯物を干し、素振りノートを開いた。
今日の欄に、書き足した。
『三階層、大きな岩の塊、逆手の下からの垂直払いで対応可。乾いた土の塊を割る要領。石は、意外と、脆い』
『山道で、萩田さんという方に、書類を書いた。特別冒険者、というものになったらしい。断れない依頼は、ないとのこと』
『レオンさんから、電話が七回、来ていた。夜、掛け直すか、考える』
三行だけ書いた。
書き終えて、彼は、少しだけ、麦茶を注いだ。
窓の外で、夏の蝉が鳴いていた。西の空が、少しずつ、赤くなり始めていた。
「……悪くないな」
誰に言うでもなく、そう、つぶやいた。
彼はまだ、何一つ、気づいていない。世界の側が、彼の朝の一振りに、日ごと、深く、深く、慣れ始めていることに。
第六話 了




