第5話 「甲虫の群れと、朝の草刈り」
午前四時半。
風見晴人は公園に立っていた。
昨日は休み、と決めて過ごした一日だった。素振りだけは千本、いつも通りにこなした。ダンジョンには行かず、洗濯と、買い物と、ノートの整理で終わった。夜は早めに眠り、体はしっかり休めた。
今朝は、体が軽い。
肩甲骨のストレッチを一つ増やしたのが効いているのか、あるいは、休みを取ったのが良かったのか。晴人はどちらとも決めなかった。ただ、こういう朝の、体の軽さは、素振りの精度を確実に上げる。それだけは、経験でわかっていた。
木の枝を持ち上げた。
樫の枝である。柄にタオル生地を巻いてある。三日目の付き合いになる。もう手の中で、位置が決まっている。人差し指の腹の当たる場所も、親指の付け根の押し当てるところも、迷わない。
深呼吸。
振り下ろす。
一。
振り上げる。
二。
空気の切れる音が、昨日より澄んでいる。
*
同時刻。
日本全国のいくつかの部屋で、若い視聴者たちが、けたたましいアラームで叩き起こされていた。
『#素振りおじさん朝配信専用アラーム』
というアプリが、この二日で開発されていた。開発者は、ある大学院生。彼は昨日、大学の講義中に、ノートパソコンでこっそりコードを書いていた。教授は気付かなかった。
アプリの機能は単純だった。
風見晴人のドローンが起動して、配信画面が生成されると、通知が飛ぶ。それだけ。
既に、非公式ながら、ダウンロード数は五万を超えていた。
視聴者たちは、寝ぼけ眼で画面を開いた。今朝も、公園の砂場の隣で、あの地味なジャージの男が、素振りをしていた。
彼は、今日もまた、青いボタンと赤いボタンを、迷わずに、青の方を押していた。
『来た』
『今日もフォームが澄んでる』
『体が軽そう』
『昨日休みだったのか、それとも準備運動を長めにしたのか』
『あの人、いつも百本目までは体が硬い』
『わかる、二百本目から回り始める』
『みんな詳しいな……』
『二日で覚えた』
視聴者数、開始十分で、五万八千。
*
千本の素振りを終えて、晴人はドローンを回収した。
汗を拭き、麦茶を一口だけ飲んだ。
今日は、また、ダンジョンへ行く。徒歩五分の駅から始発、電車で五駅、そこから山道三十分。この道のりが、ちょうどよい下準備の運動になる、と晴人は最近気付いた。街を出て、山に入り、体の芯がじんわり温まる頃に、ダンジョンの入り口に着く。
駅に向かって歩いた。始発に乗った。
電車の中は、この時間にしては、少しだけ人が多かった。若者が三人、スマホをじっと見ながら、時折こちらをちらりと見た。晴人は自分の服装を確認した。汗の匂いか、と思ったが、まだ電車に乗って十分もたっていない。それほど臭うはずはない、と自分に言い聞かせた。
若者たちは、そのうちの一人が、少しだけ晴人の方に頭を下げた。晴人は、礼儀正しい若者だな、と思って、自分も軽く頭を下げた。
電車を降り、山道に入った。
途中、パン屋の袋を持った登山客とすれ違った。彼らも、なぜか、晴人の顔を二度見した。晴人はまた、自分の服装をさっと確認したが、特に何もおかしなところはなかった。
「……今日は、暑い」
小さくつぶやいた。
夏の朝の日差しが、山道の木々の間から差し込んで、腕を刺すように熱かった。
*
詰所に着いた。
今日の担当は、また別の人物だった。三十代前半くらいの、真面目そうな女性の職員。晴人がライセンスを見せると、彼女は少しだけ息を止めて、それから、深呼吸を一度した。
「風見晴人様、ですね」
「はい」
「本日は、どちらまで」
「二階層まで、様子を見て、と思っています」
「二階層、ですか」
「はい」
「――かしこまりました」
女性職員はキーボードに指を置いたが、しばらくその指が動かなかった。数秒の間、彼女は何かを考えているようだった。それから、意を決したように、書類を差し出した。
「風見様。あの、これ、あの、任意なんですが、こういう、ちょっと、その」
差し出された書類には、こう書かれていた。
『特別冒険者登録 簡易同意書』
晴人は書類を受け取り、上から下まで、ざっと読んだ。難しい言葉が多かったが、要点はいくつかに絞れた。特別冒険者、と呼ばれる区分に、任意で登録する制度。登録すると、ダンジョン内での大規模な地形変化について、報告の義務が生じる。その代わり、通常の冒険者登録では入れないエリアへの入域が許可される。
……面倒だな、と、率直に思った。
彼は書類を返した。
「あの、これは、断れる、ものですか」
「はい、任意の登録です」
「断れない依頼、というのは、ありますか」
「え?」
「特別に登録すると、こう、後から、断れない依頼、というのが、ついてくるものなのですかね」
「あ、いえ、それは、ないです。任意なので、依頼を受けるかどうかも、その時々の判断で――」
「では、あの、今日は、いいです」
晴人は書類を丁寧に返した。
女性職員は、少しだけ困った顔をしたが、書類を引き取り、それから、静かに頷いた。
「かしこまりました。またの機会に」
「はい、すみません」
「いえ」
女性職員は、書類を机の下に戻した。彼女のスマホが、机の下でぶるっと震えた。彼女は、それを、見ないふりをした。
晴人はライセンスカードを受け取って、詰所を出た。
*
ダンジョンの中は、また少し空気が違っていた。
湿度が高い。かすかに、青くさい匂いがした。植物、というより、虫のような、独特の匂い。晴人は少しだけ首を傾げた。
通路を歩いた。
昨日一昨日と、二回、切ったはずの壁が、今日はほとんど元通りになっていた。ダンジョンの修復力はやはり早い、と晴人は感心した。一直線に切れた跡は、もう、目を凝らさないとわからない程度になっていた。
「……よくできている」
小さくつぶやいた。
彼は通路をまっすぐ進み、二階層への降り口の前に立った。
薄暗い階段。奥に赤みがかった光。
今日は、ここを降りる。
スマホでドローンを飛ばして、頭上に上げた。今日も、彼は青いボタンを押した、と思ってから、その画面上の色合いを見て、無意識に納得した。ちょうどこの角度から見ると、青と赤は似て見えるものだ、と自分の中で結論した。
彼はまだ、朝から続いている配信が、まだ止まっていないことに気付いていなかった。
視聴者数、その時点で、八万三千。
*
階段を下りた。
二階層は、一階層とは全く違う空間だった。
地面は、湿った黒い土。頭上は、高い、丸いドーム状の天井。壁の代わりに、大きな木の幹のようなものが、いくつも斜めに生えていた。天井から、赤みがかった光が、まるで夕方の日差しのように落ちてくる。
全体が、地下の森、のような雰囲気だった。
晴人はしばらく、その光景を眺めた。
パーティ時代、二階層に降りたことは、確か、一度か二度あった。あの時は、レオンが「ここは絶対、外で待ってろ」と言うので、待っていた。だから、内部の全体像を、ちゃんと見るのは、実は初めてだった。
なかなか、美しい場所だ、と思った。
その時。
地下の森の奥から、湿った、羽音が聞こえた。
最初は一つ。すぐに二つ、三つ、五つ、七つ、と、数が増えていった。羽音が羽音を呼び、地下の空間全体に、ざあ、と、風のような音が広がっていく。
晴人は木の枝を持ち直した。
通路の奥から、大きな甲虫が、群れをなして飛んできた。
一匹一匹が、両手を広げたくらいの大きさ。羽が透けていて、青黒く光っている。頭部にある角が、二又に分かれていて、鋭い。腹の下から、細い足が、六本ずつ、無数に垂れていた。
群れの数は、数百匹だった。
*
視聴者たちの画面は、その時、ほぼ全面が、青黒く覆われた。
『は?』
『え、何』
『甲虫の群れ??』
『二階層の名物、大型甲虫の群れです』
『これS級指定のはずだが』
『S級』
『はい、S級』
『え、S級を一階層の詰所は普通に入れさせるの?』
『そこがおかしいのがまた……』
『いや、普通の冒険者は逃げます。あの、風見さん、逃げてください』
『いや、逃げないでください、俺たちが見たい』
『いつもの本音』
視聴者数、九万五千。
*
晴人は、甲虫の群れをしばらく、じっと見た。
群れが、通路の奥から、うねりながら、こちらに向かってくる。羽音がどんどん大きくなる。天井のドームの、赤みがかった光の中で、青黒い羽が、無数に、揺れていた。
「……ほう」
小さく言った。
これは、フォームの参考にならない、と、彼は最初に思った。
パーティ時代、レオンが甲虫の群れを相手にしたのを、遠くから見ていたことがあった。あれは、確か、一匹ずつ丁寧に潰していく、地道な戦いだった。晴人は、当時、荷物と一緒に部屋の外で待たされて、レオンたちが帰ってきた時、みんな汗だくで、機嫌が悪かったのを覚えている。
今、同じように、あの群れを一匹ずつ潰すのは、非効率だ、と、彼は思った。
昔、田舎の祖父の家で、朝、庭の草を刈ったことがあった。祖父は、大きな鎌を使って、地面のギリギリを、腰を落として、すり足で、横に、ゆっくり払っていた。ざり、と乾いた音がした。刈られた草が、ぱさりと倒れた。何百本もの草が、一度の払いで、全部倒れた。あれは、綺麗だった。
……あの動きなら、いけるかもしれない。
晴人は、木の枝を、下から水平に持ち直した。
腰を落とす。
深く。
膝を柔らかく。
右足を少しだけ後ろに引き、体重を左足に乗せる。呼吸を整える。息を止めない。息を吐きながら、腕は力を入れず、腰の回転だけで、水平に、大きく、ゆっくりと、枝を振る。
祖父の草刈りの、あのフォームだった。
枝の先端が、静かに、大きく、円を描いた。
その円の高さの、空気が、切れた。
群れの、下三分の一が、静かに、真っ二つになった。
残りの三分の二は、下半身を失ったまま、羽音を続けようとして、続けられずに、次々と地面に落ちた。青黒い羽が、無数に、ドームの中を舞った。ぱさぱさ、と、乾いた音が、羽音と重なった。
地下の森の中で、その音は、まるで、朝の草刈りの音のようだった。
晴人は、体を起こした。
「……悪くないな」
小さくつぶやいた。
枝を軽く振って、羽の粉を落とした。
*
視聴者たちの画面は、その瞬間、静止していた。
止まっていたのは、三秒。
三秒経ったあと、コメント欄が、また、爆発した。
『は?????』
『え、いま、何』
『すり足で』
『すり足だよ!! あれ、すり足だよ!!』
『腰の回転だけで、群れの下半身が』
『全部切れた』
『全部だ』
『S級モンスターが、全部』
『え、これ、竹刀道場のおじいちゃんじゃん』
『違う、鎌で草刈りするおじいちゃんだ』
『あーそっちか』
『どっちでもいい、とにかく、すり足で群れが草になった』
『名台詞出ました』
『「群れが草になった」』
『これ切り抜きの一位』
『すり足系無自覚無双』
『新ジャンル』
『動きだけ見ればほんとに草刈り』
『師匠と呼びたい』
『師匠!』
『師匠!』
『師匠!』
視聴者数、その時、十二万を超えた。
*
晴人は、地下の森の中を、ゆっくり歩いた。
落ちた甲虫たちの間を、注意深く、踏まないように、避けて進んだ。奥に、二階層のさらに奥へと続く階段が見えた。晴人はその手前で、立ち止まった。
今日は、二階層まで、と、詰所で言った。
律儀な性格の晴人は、その言葉を守った。
彼は、階段の入り口を、しばらく眺めた。奥に、また薄い光が見えた。三階層の環境光か、と、彼は少し思った。次の日、また来る時のための、下見だった。
「……次は、ここから」
小さくつぶやいた。
枝を軽く握り直して、彼は来た道を戻った。
*
詰所に戻った。
女性職員は、晴人を見て、少しだけ、目を丸くした。
「お帰りなさい、風見様」
「はい」
「あの、二階層は」
「はい、一周だけ見て、階段の手前で、戻ってきました」
「そう、ですか」
「甲虫の群れが、少し、多かったので、あの、道の途中で、何匹か、その、はい、落としてしまいました。すみません」
「……何匹、ですか」
「あの、数百」
「……」
「あの、数えていなかったので、正確には、ちょっと」
「あ、いえ、はい、大丈夫です。書類には、記載します」
女性職員のペンが、書類の上で震えていた。晴人は、それを見て、少しだけ申し訳ないような気持ちになった。書類の記入項目が、また、彼女の手の中で、書ききれない量になっていた。
「あの、お手数をおかけして」
「いえ、いえ」
「では、失礼します」
「はい、お疲れ様でした」
晴人は詰所を出て、山道を下った。
女性職員は、扉が閉まった直後、椅子に深く沈み込んで、天井を仰ぎ、それから、震える指で、ギルド本部への直通ラインを鳴らした。
*
山を下り、電車に乗り、街に戻った。
スーパーに寄って、朝から下ごしらえした冷凍の豚バラをどう使うかを考えながら、玉ねぎの追加分と、あと、値引きシールのついた惣菜のコロッケを二つだけ買った。冷蔵庫の中身と相談して、明日の朝の分の食パンも一斤。バスに乗って家に戻った。
昼食を食べたあと、椅子に座って、素振りノートを開いた。
今日の欄に、書き足した。
『二階層、地下の森。甲虫の群れ。すり足のフォーム、下段からの水平払いで対応可。祖父の草刈りの動き、意外と応用が利く』
書き終えて、少しだけ、頬が緩んだ。
祖父のことを、久しぶりに思い出した。田舎の夏、庭の草刈り。夏の朝の匂い。あの動きが、こんなふうに、体に残っていた。
「……悪くないな」
小さくつぶやいた。
窓の外で、夏の蝉が鳴いていた。
彼はノートを閉じ、麦茶を注いだ。
明日は、三階層に行こう、と、静かに決めた。
彼はまだ、何一つ、気づいていない。世界の側が、彼の朝の一振りを、既に、日常の楽しみとして、組み込み始めていることに。
第五話 了




