第30話 「見送りの朝」
朝四時半。
公園に着いた晴人は、いつもの場所で枝を握った。
入口の外に人がいるのは、昨日と同じだった。今日は少し増えている。昨日と同じく晴人に目礼をした。晴人も目礼で返した。
振った。
最初の一本から、フォームが入る。
空気の温度は昨日より低い。秋の朝の匂いがした。
*
五十本を超えたあたりで、気配が来た。
「風見さん」
声はレオンだった。
晴人は振り切ってから振り向いた。
いつものレオンではなかった。
着ているものが違う。ジャージではなく、動きやすいアウトドア用の服。背中に背負っているのは、いつもの水筒ではなく、大きめのリュックだ。それなりに重そうだった。
顔つきも、少し緊張していた。
「おはようございます」
「おはようございます」
レオンは晴人の隣に並んで、いつもの枝を取った。
振った。
いつも通りのフォームだ。腰が入っている。手首が先行していない。
三本目、四本目。
いつもの音だった。
三十本ほど振ったところで、リナが来た。
「おはようございます」
「おはようございます」
リナも枝を握って、レオンの隣に並んだ。
三人分の振りが揃った。
しばらく、誰も何も喋らなかった。
朝の空気と、三本の枝の音だけがあった。
*
二百本目を振り終えたところで、レオンが一度枝を下げた。
「風見さん」
「はい」
晴人も枝を下げた。次の一本を振り始める前に、レオンを見た。
レオンは背中のリュックを一度直した。
それから、口を開いた。
「今日、旅に出ます」
晴人は少し止まった。
「旅」
「はい」
「どこに」
「決めていません」
リナも枝を下げて、レオンを見た。
レオンは少し息を吸って、続けた。
「昨日の夜、決めました。少し、外を歩いてこようと思います」
「はい」
「風見さんに教わって、朝の素振りを続けてきて、腰の乗りが少しずつ変わってきました。焦りも、抜けてきました」
「はい」
「でも、それは風見さんの隣にいるからで、俺一人の力ではないと思うんです」
「そうかもしれません」
レオンは苦笑いした。
「そこは否定してほしかったかもしれません」
「フォームは、隣にいる人の影響を受けます。それは事実です」
「はい」
「一人で振る時期は、いずれ必要になります」
「それを、今、やってみたいと思いました」
晴人は頷いた。
「わかりました」
「昨日、公園から家に帰って、部屋で百本振ったんです」
「はい」
「風見さんの隣で振るときと、部屋で一人で振るときで、腰の乗りが違うことに気づきました」
「そうですね」
「一人だと、腰が入りません。手首が先行して、腕だけで振っている。風見さんの隣にいるときには、勝手に腰が入っていたのに」
「はい」
「それに気づいたときに、決めました。一度、一人で振れるところまで持っていこうと」
晴人は少し考えた。
「良い判断です」
「はい」
「一つだけ、お願いがあります」
「はい」
「戻ってきたときに、また振らせてください」
晴人は少し考えた。
「腰の乗りが落ちていなければ」
「はい」
「あと、右手首の入りが今より遅くなっていなければ」
「はい」
「その二つが保たれていれば、いつでも振ってください」
レオンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「気をつけて」
「はい」
リナが横で、何も言わずに聞いていた。少し目が赤かった。でも、涙は出ていなかった。
晴人はリナを見た。
「リナさん」
「はい」
「二人分振ることになります」
「はい」
「大変になります」
「大丈夫です」
リナは短く答えた。
「レオンさんの分も、私が振ります」
「はい」
レオンが少し照れたように頭をかいた。
「重いことを、リナさんに背負わせる形になって……」
「レオンさん」
「はい」
「行ってきてください」
リナが、初めてまっすぐレオンを見た。
「私、大丈夫です」
「……はい」
「行ってきてください」
「行ってきます」
レオンは一度、公園の中を見渡した。いつもの場所。いつもの枝。いつもの音。全部、視界に収めるように。
それから、頭を下げた。
「風見さん。ありがとうございました」
「はい」
「必ず、戻ってきます」
「気をつけて」
レオンはリュックを背負い直して、公園を出ていった。
道の角を曲がって、見えなくなった。
*
――同時刻。世界配信視聴者数、六百二十万。
上空を旋回しているドローンは、晴人が自分で飛ばしたものだ。フォームの確認のために始めたことで、撮影した映像は後で自分で見返す。ただそれだけのつもりだった。
そのドローンが世界中に配信されていることを、晴人は知らない。朝の空気を切る枝の音と、レオンとの別れの会話は、全て世界中に届いていた。
コメント欄が動いていた。
『レオンさん、旅立ち……』
『腰の乗りが落ちていなければ、いつでも振ってください』
『名台詞更新』
『泣いた』
『これは泣く』
『師匠の隣を離れる決意ができるまでに、どれだけの朝があったんだろう』
『「一人で振れないと、いつか腰が入らなくなる」──真理だ』
『レオンさん、無事で』
『どこに行くんだろう』
『師匠は行き先を聞かなかった』
『それが師匠だ』
『行き先を聞かないことが、送り出すということなのかもしれない』
『師匠、また鳥の話してるっぽい 上空見上げてる』
『いや今のは風の向き確認だと思う』
『師匠には俺たちが見えていない』
『それでいい』
『それがいい』
配信の同時視聴は、レオンが公園を出た瞬間に八百万を超えた。
*
残った二人は、また振り始めた。
しばらく、二人とも何も喋らなかった。
振る音だけがあった。
晴人の音と、リナの音。二本の枝が、ほぼ同じリズムで空気を切っている。
リナの腰の乗りは、いつも通りだった。ただ、少しだけ、振り下ろしの終わりで枝を止めるタイミングが早い。
感情が入っている、と晴人は思った。
でも、口には出さなかった。
振っているうちに、そういうものは戻る。
*
千本目を振り切った。
晴人は枝を根元に立てかけた。タオルで手を拭いた。水を一口飲んだ。
リナも同じ動作をした。
少し息を整えてから、リナが小さく言った。
「レオンさん、大丈夫でしょうか」
晴人は少し考えた。
「大丈夫です」
「そう思われますか」
「腰が入っていました」
「腰、ですか」
「今朝、公園に来たときのレオンさんの一振り目から、いつも通りの腰の乗りでした。旅を決めた後でも、腰が崩れていない。あの腰があれば、一人で振っても、崩れないと思います」
リナは頷いた。
少し安心した表情になった。
「私も、そう思います」
「はい」
「風見さん」
「はい」
「私も、いつか同じことをするかもしれません」
晴人はリナの顔を見た。
「そうですか」
「今すぐではないです。でも、いつか」
「そのときは、行ってください」
「はい」
「腰の乗りが保たれていて、右手首の入りが遅くなっていなければ、私は何も言いません」
「はい。ありがとうございます」
リナは深く頭を下げた。
晴人はいつも通りの姿勢で受けた。
しばらく、二人とも動かなかった。
朝の空気が動いていた。地面の夜露が、少しずつ乾いていく。
リナが小さく言った。
「風見さん」
「はい」
「私、少し寂しいです」
「はい」
「レオンさんが行ってしまって」
「はい」
「でも、行くべきだった、とも思います」
「そうですね」
「一人で振れないと、いつか腰が入らなくなる。今のレオンさんは、そのことに気づいた。だから、行った」
「はい」
「私も、いつか気づく日が来るかもしれません」
「はい」
「そのときは、私も行きます」
晴人はリナの顔を見た。
「そのときは、行ってください」
「はい」
リナは少し笑った。
目が赤かったが、笑っていた。
*
朝七時、コンビニ。
晴人はコンビニでパンとコーヒーを買った。外のベンチに座って、食べた。
スマホを開いた。
新しい通知が二千件を超えていた。中に、レオンからのメッセージが一件あった。
「風見さんへ。今日、東北に向かいます。青森を目指します。理由はありません。ただ、遠くまで行ってみたいと思いました。腰の乗りは、忘れません。ありがとうございます。レオン」
晴人は少し考えた。
それから、返信を打った。
「はい。無事に。朝の素振りは忘れずに」
送信した。
三十秒ほどで、返信が返ってきた。
「はい」
それだけだった。
晴人はスマホを閉じて、コーヒーを一口飲んだ。
パンを食べ終わって、立ち上がった。
*
午前八時半、詰所。
中に入ると、受付の机の前にいつもの女性職員が座っていた。黒髪をひとつに結んでいる。「風見さん、おはようございます」
「おはようございます」
「奥にどうぞ。萩田がお待ちしています」
「はい」
女性職員が奥にある応接室まで案内した。
中では萩田が机の前に座っていた。今日はいつもより顔つきが硬かった。
「おはようございます」
「おはようございます」
「風見さん、少しよろしいですか」
「はい」
晴人はリュックを椅子の脇に置いて、向かい側に座った。
女性職員がお茶を二つ、机の上に置いた。そのとき初めて、女性職員の名札が見えた。中村というらしい。
「失礼します」
「ありがとうございます」
中村は静かにドアを閉めて、受付に戻った。
萩田は書類を一枚、机の上に置いた。
「昨日、東條本部長との面会日程が正式に決まりました」
「はい」
「来週の月曜、午後二時から。本部で、非公開の場を設けます」
「わかりました」
「もう一件。海外の冒険者連盟からの、公式訪問の申し入れが複数来ています」
「はい」
「ヨーロッパ支部、北米支部、アジア支部……合わせて七件です」
「そうですか」
「対応をどうするか、風見さんのご意向を伺いたく」
晴人は少し考えた。
「朝の素振りとダンジョンの時間を外していただければ、お会いします」
「はい」
「ただ、話す内容は、素振りのことしかありません」
「……はい」
「それでもよければ、来ていただいて構いません」
萩田は少し笑った。
「それで十分だと思います」
書類にメモを追記した。
それから顔を上げた。
「それと、レオンさんの件です」
「はい」
「今朝、旅立たれたと聞きました」
「はい」
少し間があってから、萩田が独り言のように呟いた。
「一人で振れるところまで、持っていくつもりなんでしょうね」
「はい」
「良い判断です」
「私もそう思います」
萩田は少し笑った。
「風見さんが良いと言うなら、間違いないんでしょう」
「腰が入っていました」
「腰、ですか」
「今朝の一振り目から、いつも通りの腰の乗りでした。旅を決めた後でも崩れていません。あの腰があれば、一人で振っても大丈夫です」
「なるほど」
萩田は手帳にメモを一行追加した。
「今日もダンジョンですか」
「はい。六階層と七階層の反復をします」
「わかりました」
「円形の板は、まだ触りません」
「ありがとうございます」
晴人は立ち上がった。
応接室を出ると、中村が受付から顔を上げた。
「行ってらっしゃい」
「はい。ありがとうございます」
晴人は詰所を出た。
*
翠嵐ダンジョンの入口には、他の冒険者が数人いた。いつも通り、道を空けてくれた。
晴人はそのまま入った。
一階層、二階層、三階層、四階層まで、モンスターは出てこない。
五階層に入って、金色の光の空間を通り抜けた。
六階層。
結晶の柱が立ち並ぶ空間。今日は、四本腕の結晶体が三体、通路に立っていた。
晴人は枝を構えた。
一体目。振った。撃破。
二体目。振った。撃破。
三体目。振った。撃破。
全部、一振りで終わった。
三体目の撃破のあと、晴人は枝を下げて、少し立ち止まった。
昨日より、腰の乗りが良い。
昨日はまだ、三体目の振りで肘が少し外に逃げていた。今日は逃げていない。
肘の修正が、二日目で完全に定着したようだ。
メモ帳を出した。
肘の修正、二日で定着。次は右手首の入りのタイミング。
書き終えてリュックに戻した。
*
七階層に降りた。
水の張った地面。灰色の岩肌。分岐の右を選んで、上り坂の大空間に出た。
いつも通りの景色だ。
でも、今日は少し違った。
大空間の中央に、モンスターがいた。
これまで見たことのない種類だ。
白い。四足。大岩体より少し小さい。頭が長い。角のようなものが二本、後ろに向かって伸びている。
動きが速そうだ。
晴人は枝を構えた。
距離は十メートル。
モンスターがこちらを向いた。
目が合った。合った、と晴人には感じられた。
モンスターが低く唸った。腹の奥から響くような音だった。それから四本の脚を軽く曲げた。
跳んだ。
速い。空中で軌道を変えられる。晴人の頭上を狙って、上から降ってくる形だ。
これは、下から迎える方が良い。
振り下ろしでは、上から来る相手には角度が合わない。
晴人は真上に枝を振り上げた。
振り上げる、というのは、素振りの基本ではあまりやらない動作だ。振り下ろしと違って、軸の通し方が違う。腰から下の重心を沈めた状態で、上に向かって伸ばす。丹田を意識するのは同じだが、力を抜く場所が違う。
でも、届いた。
モンスターは空中で断面から崩れて、地面に落ちる前に消えた。
晴人は枝を下げた。
手首に、いつもと違う感触が残っていた。
振り上げるとき、丹田の位置が少し変わる。腰から下の重心の使い方も違う。振り下ろしで培った軸を、逆方向に通す形になる。
これは、新しい発見だ。
メモ帳を出した。
振り上げのフォーム。丹田の位置が振り下ろしとは違う。腰の重心の使い方も違う。継続確認。次のダンジョンで練習。
書き終えた。
枝を肩に乗せて、続きの通路を進んだ。
*
七階層の奥まで進んで、地上に戻ったのは午後二時前だった。
空は普通の曇り空だった。
詰所の前を通ったとき、中村が窓越しに見つけて、外に出てきた。
「お帰りなさい」
「はい」
「萩田が奥にいますので、お呼びしましょうか」
「いえ、報告だけで大丈夫です」
「はい」
「七階層で、新しいモンスターに一体だけ遭遇しました。白い四足、角のあるやつです」
中村はメモを取った。
「一振りで撃破しました。振り上げのフォームの練習にもなりました」
「振り上げ、ですか」
「はい。振り下ろしとは違う軸の通し方が必要でした」
「なるほど」
「明日も同じルートで、フォームの反復をします」
「わかりました。萩田に伝えておきます」
「ありがとうございます」
「気をつけてお帰りください」
晴人は短く頭を下げて、詰所を後にした。
*
アパートに帰る途中で公園を覗いてみた。
朝、外の芝生で振っていた人たちはもういない。でも、代わりに別の人たちが数人、そこで振っていた。
揃っていない。腰も入っていない。
でも、続いていた。
晴人はしばらく、その音を聞いた。
風が来た。冷たい。秋の風だ。
東北の方角から、南に向かって流れていた。
その風が、レオンのいる方向から来ているのかもしれない、と晴人は思った。
でも、深くは考えなかった。
いつもの速度で、家に向かって歩いた。
夕方の素振りまで、あと三時間ある。
第三十話 了




