第29話 「いつも通りの朝」
朝四時。
目覚ましが鳴る前に、晴人は起きた。
布団を畳んで、押入れにしまう。カーテンを開けると、外はまだ暗い。街灯の光がアスファルトを照らしている。空気の温度は昨日と同じ。曇り。風は弱い。
顔を洗った。
歯を磨いた。
水を一杯飲んだ。
着替えて、リュックを背負う。玄関で靴紐を結び直した。左が少し緩かった。結び直す。
外に出た。
公園までは徒歩八分。
昨日と同じ道を歩く。角の自動販売機は同じ。信号は同じタイミングで変わる。二軒目のアパートの前に停まっている白い軽トラックは、今日もそこにあった。
同じだ。
昨日ゲートを閉じたことも、世界同時視聴が八千万を超えたことも、今の道には何も影響していなかった。信号はいつも通りに変わる。空はいつも通りに曇っている。
公園に着いた。
*
異変は、そこで起きていた。
入口の外側に、人が並んでいた。
二十人ほど。
全員、枝を持っている。
晴人は一度立ち止まった。
それから、そのまま歩き続けた。
入口の前に立っている一人が、晴人に気づいた。三十代くらいの男性。ジャージ姿。頭を下げた。
次の一人も下げた。
その次も下げた。
二十人全員が、順番に頭を下げた。
誰も何も喋らなかった。
晴人は短く頭を下げ返して、公園の中に入った。
いつもの場所に向かった。
枝を根元から取り上げた。昨日置いておいたやつだ。折れかけのものではなく、状態のいい方。
二本目、三本目もそこにある。
振った。
最初の一本から、フォームが入る。丹田を意識して、腰からではなく軸から振り下ろす。
枝が空気を割った。音が短く鋭い。
振った。
二本目も同じ音だった。
外の二十人が、それを見ていた。
誰も入ってこない。
*
五十本を超えたあたりで、いつもの気配が来た。
「風見さん」
リナだった。
いつもより少しだけ、声が柔らかかった。
「おはようございます」
「おはようございます」
リナは枝を取って、隣に並んだ。
昨日の朝と同じ位置。同じ距離。
振り始めて三本目から、音が揃い始めた。
リナの腰の乗りは、昨日より安定していた。
晴人は横目で一瞬確認した。腰から先が遅れていない。手首が先行していない。
今週の中では一番いい。
もう少しで、腰と腕が同じタイミングで落ちる形になる。そうなればフォームがひとつ固まる。
昨日褒めた効果ではないと思う。多分、昨日のことがあった上で、それでも今朝ここに来て枝を握ったこと自体が、腰を落ち着かせている。
振る、という行為には、それがある。
目の前の一本を振り切るしかない状況が、他のことを軸から追い出す。
少ししてレオンが来た。
「おはようございます」
「おはようございます」
いつもより声が明るかった。
晴人は少しだけ、意外に思った。
レオンは枝を手に取って、右端に立った。
振り始めた。
三本目で、晴人は気づいた。
昨日より、腰が入っている。
昨日の朝、レオンの腰は焦りで浮いていた。手首が先行して、腕だけで振っていた。
今の腰は、少しだけ低い。地面に対しての位置が、五センチ違う。
朝までの間に、何かを掴んだのだ。
晴人は何も言わなかった。
黙って、自分の百本目を振り切った。
*
外の二十人は、三十分ほどそこにいた。
誰も中に入ってこなかった。ただ、晴人たちが振る様子を見ていた。
何人かはスマホを構えていたが、途中で下ろした。
撮る気になれなかったのかもしれない。
あるいは、撮っても意味がないと気づいたのかもしれない。
二百本目を振り終えたあたりで、一人が枝を握ったまま外の芝生に立った。
振った。
下手だった。
肩に力が入っている。手首が完全に先行して、腕だけで振っている。腰は残ったまま。振り下ろした先で足元がふらついた。
でも、振った。
二本目を振った。
三本目を振った。
もう一人が続いた。
その隣も。
三十分後、二十人全員が、公園の外側の芝生で振っていた。
誰も、公園の中には入ってこなかった。
中は、晴人たち三人の場所だ。
そう決めているようだった。
晴人はそれを、視界の端で捉えていた。
自分の百本目、二百本目、三百本目を振りながら、外の芝生の音を聞いていた。二十本の枝がバラバラのリズムで空気を打っている。揃っていない。腰も入っていない。でも、音は続いている。
止まる気配がない。
三十分経っても、四十分経っても、続いている。
振り続ける、というのはそういうことだ。
最初は下手でいい。揃わなくていい。ただ止めなければ、いつか腰が入ってくる。
晴人は五百本目を振り切った。
*
千本目を振り切った。
枝を根元に立てかけた。
晴人はタオルで手を拭いた。水筒のキャップを開けて、水を一口飲む。
いつも通りの朝だった。
リナが息を整えていた。頬に汗が伝っている。でも表情は穏やかだ。
「今日……人が多いですね」
リナが小声で言った。
「ええ」
「昨日のことがあって、来た人たちですよね」
「そうでしょう」
「風見さんはどう思われますか」
晴人は少し考えた。
「振っています」
「え?」
「彼らは、振っています。それだけです」
リナは晴人の顔を見た。
少し間があってから、頷いた。
「そうですね」
「振り方は下手ですけど」
晴人は水筒を閉めた。
「三ヶ月続けば、腰が入ってくる人が出てくると思います」
「三ヶ月」
「一年続く人が半分いれば、上出来です」
リナは少し笑った。
「厳しいですね」
「継続は難しいので」
レオンが近づいてきた。
「風見さん」
「はい」
「今日、腰の乗り、どうでしたか」
晴人はレオンの目を見た。
「昨日より、五センチ下がっていました」
「……五センチ」
「はい」
「よかった」
レオンが、頭をかいた。それから、少し照れたように笑った。
「昨日の夜、部屋で百本くらい振りました。四畳半で。天井に当たりそうで」
「そうですか」
「風見さんが言ってくれた『焦りが出てる』って言葉が、ずっと引っかかってて」
「はい」
「振ってたら、少しだけ、落ち着いたんです」
晴人は頷いた。
「腰の乗りが変わっていました。焦りが抜けた分だと思います」
「……ありがとうございます」
「明日もお願いします」
「はい」
リナが横で頷いた。
三人はしばらく、公園の中央で立っていた。何を話すでもなく、水を飲んで、汗を拭いて、次の一日への支度をしていた。
いつも通りだった。
昨日と、昨日の前日と、その前の週と、全部同じだ。
その同じことが今日もここにあるということが、晴人にとっては何より重要なことだった。
千本振った。三人揃った。腰の乗りを確認した。
それで一日が始まる。
*
三人が公園を出るとき、外で振っていた二十人は、全員止まって道を空けた。
誰も何も言わなかった。
晴人は短く頭を下げて、通り抜けた。リナとレオンも続いた。
三人が角を曲がって見えなくなってから、二十人はまた枝を振り始めた。
誰かが小さく言った。
「明日も来る」
誰かが返した。
「俺も」
*
朝七時、コンビニ。
晴人は朝食のパンとコーヒーを買った。レジで会計を済ませたとき、店員の若い女性が晴人の顔を見て一瞬止まった。
でも何も言わなかった。
バーコードを通して、袋に入れて、渡してくれた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございます」
晴人は店を出た。
外のベンチに座って、パンを開けた。
コーヒーは温かかった。
スマホを見た。
昨日の夜、通知を全部消した。でも新しい通知がまた溜まっている。三千件を超えていた。
中には冒険者ギルドからの正式な連絡もあった。防衛省の対策室からの照会。国際冒険者連盟からのメッセージ。それから、いろんな媒体からの取材依頼。
晴人は上から順にざっと見た。
冒険者ギルドからの連絡は、萩田さんからだった。今日、時間があるときに詰所に立ち寄ってほしいという内容。昨日の件の報告と、いくつか相談したいことがあるらしい。
晴人は「素振りが終わってから伺います」と返信した。
防衛省の照会は、事実関係の確認だった。「後日書面で回答します」と返した。
国際冒険者連盟のメッセージは、英語だった。翻訳アプリで読んだ。「敬意を表する」という趣旨の長い文章だった。晴人は「ありがとうございます」とだけ返した。
取材依頼は、全部見なかった。
パンを食べ終わって、コーヒーを飲み終えた。
立ち上がってゴミを捨てた。
*
午前八時半、詰所に着いた。中で萩田が待っていた。
白シャツに黒スラックス。いつも通りの姿だ。四十代前半。顔つきは変わらないが、目の下に薄い隈があった。
「風見さん。おはようございます」
「おはようございます」
「昨日は、本当に……」
萩田はそこまで言って、口を止めた。
言葉が続かないようだった。
晴人はリュックを椅子の脇に置いて、向かい側に座った。
「お呼びだてしてすみません。二つだけ、お伝えしたいことがあります」
「はい」
「一つ目。東條本部長からの伝言です」
「はい」
「昨日の件について、深くお礼を申し上げたいと。近日中に直接お会いする機会をいただきたい、とのことでした」
「わかりました」
「日程は風見さんのご都合に合わせます」
「朝の素振りとダンジョンの時間を外していただければ」
「もちろんです」
萩田は手帳に何か書きつけた。
「二つ目。昨日から、風見さんへの弟子入り志願が、こちらに二千件を超えて届いています」
晴人は少し間を置いた。
「二千件」
「はい。日本国内だけでなく、海外からも」
「そうですか」
「対応をどうするか、ご相談したくて」
晴人はしばらく考えた。
「今、二人います」
「リナさんとレオンさんですね」
「はい」
「二人で、手一杯です」
「そうですね」
「志願者には、こう伝えてください」
萩田はペンを構えた。
「素振りは、自分で振るしかありません」
「はい」
「動画を見ても、腰は入ってきません」
「はい」
「三ヶ月続けば、腰が入ってくる人が出てきます」
「はい」
「一年続く人が半分いれば、上出来です」
「はい」
「一年続いた人が、もう一度連絡してきたら、そのとき考えます」
萩田は書き終えて、顔を上げた。
「これで、いいですか」
「はい」
「わかりました。この通り伝えます」
「ありがとうございます」
萩田は手帳を閉じた。
少しの間、部屋が静かになった。
外で鳥が鳴いていた。
「風見さん」
「はい」
「一つ、私からも聞いてもよろしいですか」
「どうぞ」
「昨日、怖くはなかったですか」
晴人は少し考えた。
「フォームの確認をしていました」
「……はい」
「振ることに集中している間は、他のことは入ってきません」
「そう、ですか」
「フォームが良かったので、届きました」
萩田はしばらく、晴人の顔を見ていた。
それから、一度目を閉じて、ゆっくり開いた。
「風見さん」
「はい」
「私は昨日、詰所のモニターで映像を見ていました」
「はい」
「一振りで、東京の空が閉じました」
「はい」
「その後で……あなたが、隊員の三佐に何と言ったかも、聞きました」
「はい」
「ネギのコスパがいい、と」
晴人は少し考えた。
「木刀と比べて、そうでした」
「はい」
萩田は苦笑いのような表情を浮かべて、それから真顔に戻った。
「あなたのその姿勢が、私は……いえ、うまく言えません」
「はい」
「余計なことを言いました。すみません」
それから、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いえ」
「今日もダンジョンに入られますか」
「はい。段差の先の続きを」
「気をつけて」
「ありがとうございます」
晴人は立ち上がってリュックを背負い直した。
*
翠嵐ダンジョンに晴人はいつもと同じように速度で入った。
入口の周辺には、今日はめずらしく、他の冒険者が数人いた。晴人が来ると、全員が一歩下がって道を空けた。誰も話しかけてこない。
晴人は短く頭を下げて、そのまま入った。
一階層。
通ったあとの通路が整備されている、と大学院生の佐々木が言っていた。確かに、通路の石畳は磨かれた跡がある。誰かが整備しているわけではない。晴人が通るたびに、そうなる。
晴人はそれを認識していない。
いつも通り歩いて、二階層、三階層と降りていく。
四階層まで、モンスターは出てこなかった。
五階層に入ると、金色の光の空間が広がる。中央に噴水状の構造物。ここも見慣れた景色だ。
六階層。
結晶の柱が立ち並ぶ空間。以前、四本腕の結晶体を一振りで撃破した場所だ。今日は結晶体の姿はない。青い結晶が壁に埋まっているだけで、静かだ。
晴人は歩き続けた。
七階層。
水の張った地面。灰色の岩肌。以前、大岩体を撃破した場所。分岐の右を選び、上り坂を進む。大空間に出た。ここも今日は静かだった。
段差の前まで来た。
*
段差の先は、以前と同じだ。
壁が暗い緑色。土の地面。空気が重い。天井から水滴が落ちている。
晴人は段差を一歩越えた。
枝はいつものものだ。公園の樫の枝と同じ質感のものを、七階層で見つけて拾ってきた。長さは公園のものと同じ。重心も近い。
しばらく歩いた。
緑色の四足のモンスターが、通路の陰から出てきた。
速い。粘りがある。以前、二振りかかった相手だ。
でも、今日は違う。先日の朝、晴人は角度を修正した。それ以降、一振りで撃破できるようになった。
枝を構えた。
振った。
モンスターは断面から崩れて、地面に消えた。
晴人は枝を下げて、モンスターがいた場所を確認した。
いつも通りの手応え。いつも通りの角度。
でも、少し違う点があった。
振り下ろしのとき、肘の外への逃げが、昨日より少ない。
昨夜の車の中でメモした修正点。あれが体に入っている。意識せずとも、肘が内側に収まるようになっていた。
晴人はメモ帳を出した。
肘の修正、一晩で入る。継続すれば定着する。次は右手首の入りのタイミングを見る。
書き終えてリュックに戻した。
*
通路を進む。
二体目のモンスターが出てきた。同じ緑色四足。
枝を構えた。振った。撃破。
三体目。
同じだった。
振り方が安定してきた。腰の乗りが一定で、肘が逃げず、右手首と左手首のタイミングが揃っている。
これは、悪くない。
晴人は歩き続けた。
通路の奥に、広い空間が開けていた。
緑色の脈動体がそこにあった。
直径は五メートル前後。緑色の膜のようなものが、ゆっくりと膨らんで、しぼんで、また膨らんでいる。生き物のようにも、機械のようにも見えない。攻撃性はない。触れても無害だと、前回確認済みだ。
晴人はその前に立った。
脈動体は、動きを変えなかった。晴人がいることに気づいているのかどうかも、わからない。
晴人はしばらく、それを見ていた。
昨日、東京のゲートを切ったときの感触と、この脈動体の膜の質感が、似ている。
薄い膜。内側に何かがある。膜を切れば、内側の構造が見える。
でも、切らなかった。
この脈動体は攻撃してこない。害を及ぼしていない。切る理由がない。
晴人はメモ帳を出した。
脈動体の膜、東京のゲートの縁と質感が近い。空間の境界に関係する構造体かもしれない。継続観察。
書き終えて、脈動体の周りを一周した。
膜は動き続けていた。
*
脈動体の奥に、通路がまだ続いていた。
晴人はそこを進んだ。
今まで進んだことのない領域だ。
通路は下り坂だった。壁が暗い緑色から、少しずつ黒に近い色に変わっていく。空気がさらに重くなった。
しばらく歩いた。
地面の質が変わった。土から、金属質のものに。歩くと硬い音がする。
次のモンスターは、これまでの緑色四足ではなかった。
黒い。二足で立っている。高さは晴人の背より少し高い。輪郭がはっきりしない。周囲の空気が歪んで見える。
晴人は枝を構えた。
距離は五メートル。
モンスターが一歩踏み出した。
速い。
でも、動きに軸がある。
昨日の異形と同じだ。方向性が決まっている。軸に沿って動いている。
晴人は半歩右にずれた。
振った。
モンスターは音もなく、上下に分かれて崩れた。
晴人は枝を下げた。
軸を持つ相手には、軸に対して垂直に振ればいい。昨日の東京と同じ理屈だ。
悪くない。
晴人はメモ帳を出した。
軸を持つモンスター、垂直に振れば一振り。昨日のゲートと同じ理屈が地下でも通用する。継続確認。
書き終えて、リュックに戻した。
*
通路の奥に、また空間が広がっていた。
今度は広かった。
天井が高い。壁が黒に近い緑色。中央に、何かがあった。
薄く光る円形の板。地面から一メートル浮いている。直径は二メートルほど。表面に文字のようなものが刻まれている。
晴人は近づいた。
板の周辺に、モンスターの姿はない。
文字を確認したが、読めない。見たことのない字だ。
板の下にも、上にも、支えるものは何もない。ただ空中に浮いている。
晴人はしばらく、それを見ていた。
これは、次の階層への入口かもしれない。
でも今日はここまでにする。時間が来ていた。
メモ帳を出した。
九階層の入口候補。地面から一メートル浮いている薄い円形の板。文字あり。次回、詳細確認。
書き終えた。
枝を肩に乗せて、来た道を戻り始めた。
*
地上に戻ったのは、午後三時前だった。
空は普通の曇り空だった。
昨日と同じ空だ。
詰所の前を通ったとき、萩田が出てきた。
「お疲れさまでした」
「はい」
「今日はどこまで」
「段差の先の奥に、次の階層の入口らしきものがありました」
「そう、ですか」
「明日、確認します」
「わかりました。安全確保の体制を整えておきます」
「ありがとうございます」
晴人は詰所を後にした。
途中で公園の方角を見た。
朝、外の芝生で振っていた二十人はもういない。でも、代わりに別の人が数人、そこで振っていた。
振っている音が、遠くから聞こえてきた。
揃っていない。腰も入っていない。
でも、続いていた。
晴人はしばらく、その音を聞いた。
それから、いつもの速度で家に向かって歩いた。
夕方の素振りまで、あと三時間ある。
第二十九話 了




