第31話 「朝、また振る」
朝四時。
目覚ましが鳴る前に、晴人は起きた。
布団を畳んで、顔を洗った。水を一杯飲んだ。
カーテンを開けると、空が変わっていた。
曇りではない。
星がある。
秋の星空だ。街灯の光の上に、薄く白い星の帯がかかっている。天の川かどうかはわからない。でも、星がある。それだけでよかった。
晴人はしばらく窓の外を見た。
それから、着替えた。
*
公園までの道を歩く。
朝の空気が冷たい。吐く息が白くなりかけていた。十一月に入ってから、朝の気温が一段下がった。
公園に近づいたとき、気配があった。
いつもより多い。
入口の前に人が並んでいた。
今日は数が違った。
五十人を超えている。
しかも、いつもと違う種類の人たちがいた。
スーツ姿の男性。カメラを持った女性。外国人が数人。子供を連れた家族。冒険者の格好をした若者。みんな枝を持っているわけではない。ただ、そこに来ている。
晴人は一度立ち止まった。
何が起きているのかは、わからなかった。
わからないまま、入口に向かって歩いた。
人波が、静かに左右に割れた。
誰も何も言わなかった。
晴人は短く頭を下げて、公園の中に入った。
*
いつもの場所に着いた。
枝を取った。状態のいい方を選ぶ。根元が締まっていて、先端に向かって均一に細くなっているもの。
振った。
最初の一本から、フォームが入る。
丹田を意識して、腰から軸を通して振り下ろす。枝が空気を割った。音が短く鋭い。
外の五十人が、それを見ていた。
静かだった。
誰も動かない。枝を振り始める者もいない。ただ、見ていた。
晴人はそれを気にしなかった。
二本目を振った。三本目を振った。
*
三十本を超えたあたりで、リナが来た。
「おはようございます」
「おはようございます」
リナもいつもの枝を取った。
晴人の隣に並んで、振り始めた。
リナが枝を振った瞬間、外の五十人の中から、小さな声が漏れた。
驚いている声だ。
リナの音は、晴人の音と揃っていた。
一ヶ月前のリナの音ではない。腰が入っている。手首が先行していない。振り下ろしの終わりで枝が止まる位置が、晴人の枝と同じ高さにある。
二本分の、同じ音が公園に響いた。
外の声が止んだ。
*
百本目を振り終えたところで、晴人は一度枝を下げた。
水を飲んだ。タオルで手を拭いた。
リナも同じ動作をした。
呼吸を整えながら、リナが小さく言った。
「今日、人が多いですね」
「ええ」
「外国の人もいます」
「そうですね」
「風見さんのことを、見に来たんでしょうか」
「わかりません」
晴人は枝を持ち直した。
「でも、振っていれば見ていると思います」
「はい」
「では、振りましょう」
「はい」
二人はまた振り始めた。
*
――同時刻。世界配信視聴者数、一千二百万。
晴人が自分で飛ばしたドローンが、今日も公園上空を旋回している。フォームの確認のために始めたことで、世界に届いているとは夢にも思っていない。
コメント欄は、今日も世界中の言語が入り混じっていた。
『リナさんの音が、師匠と揃ってる』
『揃ってる……』
『一ヶ月前のリナさんじゃない』
『師匠の隣で振り続けた結果がこれだ』
『リナさん、あなたは本物です』
『何語でもいい 伝えたい ありがとう』
『Gracias』
『Thank you』
『감사합니다』
『谢谢』
『今日の外の人たちは誰だ』
『各国の冒険者連盟の代表 訪問申し入れしてた人たち』
『師匠はまだ知らないはず』
『知ってたとしても気にしないと思う』
『振ってますからね』
『振ってます』
『世界中の代表が朝四時半に来てるのに師匠はただ振ってる』
『それが師匠です』
『それがいい』
*
四百本目を振り終えたあたりで、晴人は何かを感じた。
外の雰囲気が、少し変わっている。
ざわめきではない。声もない。ただ、外の五十人の空気が、変わった。
晴人は振り続けた。
気になるなら振り終わってから見ればいい。
五百本目を振った。六百本目を振った。
七百本目を振り切ったとき、横でリナが少し息を乱した。
七百本は、リナにとってまだ長丁場だ。でも、止まらなかった。振り続けている。
腰の乗りも、崩れていない。
息が乱れても、腰は崩れない。
それが、リナの今の水準だ。
晴人は次の一本を振った。
*
千本目を振り切った。
枝を根元に立てかけた。タオルで手を拭いた。水を一口飲んだ。
いつも通りの終わり方だ。
リナも枝を下げた。少し呼吸が荒いが、表情は穏やかだ。
晴人は外を見た。
五十人が、全員こちらを向いていた。
その中の一人が、前に出てきた。
五十代くらいの外国人の男性。背が高い。黒いジャケット。胸に小さなバッジをつけている。国際冒険者連盟のバッジだ。
男性は晴人の前まで来て、頭を下げた。
それから、流暢な日本語で言った。
「風見晴人さん。本日は、お時間をいただいてありがとうございます」
晴人は短く頭を下げた。
「私はヨーロッパ支部の代表、ロベルト・アンセルミと申します。先日、訪問の申し入れをさせていただいた者です」
「そうですか」
「今日は、ご挨拶だけに参りました。あなたの素振りを、この目で見たかった。それだけです」
晴人は少し考えた。
「見ていただけましたか」
「はい」
「フォームの確認中なので、まだ修正が必要な箇所があります」
アンセルミが一瞬、止まった。
「……そうですか。どのような」
「右手首の入りのタイミングが、まだ一瞬遅れます」
アンセルミは少しの間、晴人の顔を見ていた。
それから、笑った。
「東京のゲートを閉じた翌日からダンジョンに入り、毎日フォームの修正をされているとお聞きしました」
晴人は頷いた。
「修正が、終わることはありますか」
晴人は少し考えた。
「ないと思います」
「なぜですか」
「直すたびに、次に直すところが見えてきます」
アンセルミはまた笑った。今度は声に出て笑った。
後ろの四十九人も、少し笑った。
「世界中に、あなたの言葉を届けてもいいですか」
「素振りの話であれば」
「十分です」
アンセルミは一歩下がって、深く頭を下げた。
後ろの四十九人も、同じように頭を下げた。
国際冒険者連盟の代表たちが、全員、朝の公園で頭を下げていた。
晴人は短く頭を下げ返した。
*
人が引いていった後、公園には晴人とリナだけが残った。
入口の外の芝生では、朝からここにいた人たちが、また枝を振り始めていた。いつも通り、バラバラな音だ。でも続いている。
リナが晴人の隣に立った。
「風見さん」
「はい」
「今の人たちは、世界中から来たんですね」
「そのようです」
「萩田さんが言っていた、七件の訪問申し入れ」
「そうでしょう」
リナは公園の外を見た。枝を振っている人たちの背中を見た。
「みんな、風見さんの素振りを見て、何かを持って帰るんですね」
「そうかもしれません」
「風見さんは、何かを渡そうとしていますか」
晴人は少し考えた。
「渡そうとは、していません。振っているだけです」
リナは晴人の横顔を見た。
「でも」
晴人は枝を持ち直した。
「振ることで、見えてくるものがあります。それは、渡せません。自分で振るしかありません」
リナは静かに頷いた。
「わかります」
それから、枝を取った。
「もう少し振っていいですか」
「どうぞ」
「右の手首が、今日少し遅れていました」
「気づいていましたか」
「さっき、気づきました」
晴人は少し止まった。
リナが、自分でフォームの問題に気づいた。
声に出さなかった。指摘されるのを待たなかった。自分で見つけた。
それは、一ヶ月前のリナにはなかったことだ。
「振りましょう」
二人は、また並んだ。
*
枝が空気を割る音が、二本分、公園に響いた。
外の芝生の人たちも振っている。バラバラな音が、少しずつ増えていく。
揃っていない。腰も入っていない。
でも、朝四時半から誰かが振っている。
そしてその音の中に、二本だけ、同じリズムの音がある。
晴人の音と、リナの音だ。
*
一方、ダンジョンの九階層入口で。
薄く光る円形の板が、今日も浮いていた。
誰も触れていない。
でも、昨日と違うことが、三つあった。
一つ。板の表面に刻まれた文字の半分が、昨日より明らかに明るく光っていた。
二つ。板がわずかに回転していた。止まっているように見えるが、一時間で一周するくらいの速さで、確かに動いている。
三つ。板の縁に、細いひびが一本、走っていた。
ひびは昨夜はなかった。今朝、この場所を通った別の冒険者が気づいて、詰所に報告した。中村がメモを取り、萩田に伝えた。萩田はそれを手帳に書いて、晴人に伝えるタイミングを考えていた。
板は静かに回り続けていた。
光が、少しずつ強くなっている。
晴人は今日も、まだここに来ていない。
でも、いつか来る。
その日が、近づいていた。
*
朝の公園に、枝の音が続いていた。
空が、少しずつ明るくなっていく。
星が消えていく。
東の空の端が、白くなり始めた。
やがてそれが、橙に変わる。
曇りではない朝だった。
晴人は振り続けた。
リナも振り続けた。
千本目を振り切った後、二人は止まらなかった。
水を飲んで、また振った。
合図もなかった。声もなかった。ただ自然に、もう少しだけ続けていた。
枝の音が、朝の空気の中に消えていく。
また次の一本が、同じ音で続く。
その繰り返しが、どこまでも続いていく。
――底辺荷物持ちの、朝は今日も終わらない。
第三十一話(完)
最後までお読みいただきありがとうございました。
31話と短い話でしたが、いかがでしたか?
ダンジョン物を書きたくて、いろいろ試しに書いてみたりもしましたが、とても難しくなかなかイメージに合うものが書けませんでした。今回の話は、おかしな所もありますが、私としては好きな話に仕上げることができました。
評価いただけると嬉しいです。




