表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/31

第3話 「大きな獣と、次の階段」

 午前四時半。


 風見晴人は公園に立っていた。


 いつもの砂場の隣。三本の桜。手には木の枝。今日の枝は、昨日ダンジョンで拾ってきた樫らしき枝である。夜のうちに軽く削って、柄の部分だけタオル生地を巻き付けて、握りやすくしてある。


 空気は昨日より少しだけ湿っていた。


 夜のうちに雨が降ったらしい。砂場の砂は表面が濡れて、色が濃く変わっている。木の葉に露が乗っていた。街灯の光を反射して、小さく光っている。


 晴人は素振りを始めた。


 今日はドローンを飛ばす前に、地面に置いて、しっかり充電残量を確認した。バッテリーは満タン。アプリを立ち上げる。二つのボタンが並んでいる。赤と青。


 昨日と同じ間違いはしたくない、と晴人は思った。


 だから、慎重に、赤いボタンを押した、と思った。


 押した瞬間、画面の縁が青くふちどられた。


「……む」


 小さく唸った。


 どうやら、また間違えたようだった。指先が太いのが問題なのかもしれない、と晴人は思った。もしかすると、老眼のせいでボタンが見にくいのかもしれない。青と赤の色の識別自体は、ちゃんとできている。ただ、ボタンの位置を目で正確に捉えられていない。


 電源を切って、押し直すか。


 少し考えた。


 まあ、と晴人は思った。仮に間違えたとしても、誰も見ないだろう。ダンジョン内の映像はプライベートで撮っているようなものだ。仮に配信になっていたところで、視聴者は昨日と同じで、一人か二人。もしかすると、迷惑メールの類で数字だけが増えて表示されているだけかもしれない。


 深く考えないことにした。


 彼は素振りを再開した。



   *



 同時刻。


 日本全国のいくつかの部屋で、若い視聴者たちが、寝ぼけ眼で、スマホの通知に叩き起こされていた。


『【緊急】あの人、今朝も配信開始してます!!!』

『間に合ったーーーー!!!』

『速報、素振りおじさん、今日も来ました』

『え、これ寝てられないやつじゃん』


 昨日、たった一振りで、通路の奥まで直線的に壁を切ってしまった三十過ぎの男。名も知られていない、地味な男。木の枝。だが、あの映像は既に切り抜かれて、あちこちのSNSに上がっていた。ハッシュタグはいくつも生まれていたが、その中で、一番早く広まったのは、こういうものだった。


『#素振りおじさん』

『#カザミハルト誰』

『#無自覚系』


 視聴者数は、この時点ですでに三万を超えていた。


 彼らは、画面の中で、静かに素振りを始めた男を見た。


 誰も、彼にコメントを打つ手を止められなかった。


『来た』

『今日もフォームが綺麗すぎる』

『何者?』

『昨日B級モンスター真っ二つ』

『通路の壁ごとやったやつです』

『え、木の枝で』

『そうです、木の枝で』

『暁の剣が追放したやつって話マジ?』

『マジらしい』

『レオンの弱視野』

『レオンも今頃、寝ながら知らないでいる』

『……あ、レオンの朝配信、まだ始まってない』

『今日、レオンどうすんだろ』

『予定では朝から練習配信の予定』

『そこでコメント欄がこの人の話で埋まる予定』


 視聴者たちは、まるで祭りの前の準備をするように、次々と情報を交換した。


 当の晴人は、そんな視聴者の存在すら知らずに、七百本を振り終えていた。



   *



 千本を振り終えて、晴人はドローンの電源を切った、と思った。


 実際には、また停止ボタンではなく、別の場所を押していた。ドローンは着陸したので、映像は再び、下向きに地面のアスファルトを映していた。だが、配信は続いていた。


 視聴者たちは、下向きの映像を見ながら、待った。


 晴人はまた、山あいのダンジョンに向かった。


 昨日と同じ手順で、駅で始発を待ち、電車に揺られ、山道を三十分登った。今日は空腹だったので、途中で駅のパン屋で買ったコッペパンを一つかじりながら歩いた。


 詰所に着いた。


 昨日の係員は、いなかった。


 代わりに、明らかに責任者と思われる、五十過ぎの、頬にひきつった笑みを浮かべた男性が、詰所のカウンターの向こうに立っていた。


「風見、晴人、様、ですね」


「はい」


「本日も、お一人で」


「はい」


「ちょっと、あの、ライセンスカードを見せていただけますか」


 晴人はカードを渡した。男は震える指でカードを読み取り、パソコンの画面と何度も見比べた。何かを確認しているようだったが、晴人にはよくわからない。


「本日、どこまで」


「一階層まで、また様子を見に」


「……そう、ですか」


「はい」


 男は一呼吸置いてから、書類を差し出した。


「あの、風見様。実は、ですね。昨日の一階層の記録なのですが、大変珍しい魔物の出現があった、と、報告が。それについて、こう、後ほどで結構ですので、ご協力を、いただけないかと」


「はい」


「よろしくお願いします」


「はい」


 男の額に、汗が浮かんでいた。晴人は詰所を出て、ダンジョンの入り口に向かった。



   *



 中に入ると、昨日と少しだけ空気が違った。


 湿度が高い。それに、遠くから、何かが動いている音がした。何かが体を引きずるような、湿った音だった。


 晴人はスマホでドローンを操作した。今度こそ、赤いボタンを――


 と、彼は思って指を当てた。


 だが、画面上、彼が指を置いたのは、また青いボタンの方だった。


 実際には、朝からずっと、配信は続いていた。


 彼が押した「録画開始」のつもりの操作は、アプリ上では「既に配信中です」と表示された。表示は一瞬で消えた。晴人は、また、それを見逃した。


 「よし」と、彼は小さくつぶやいた。


 ドローンを頭の上に飛ばして、通路の奥に進んだ。



   *



 昨日切れていた壁の隙間の前を通った。


 夜のうちに、ダンジョンの内部修復機能が働いたのか、隙間はほとんど塞がっていた。だが、よく見ると、壁の一部に、まだ細い一直線の跡が残っていた。晴人はそれをしばらく見た。


「……直りかけているな」


 なるほど、と思った。


 やはり、あの隙間はダンジョン特有の構造で、時間で変わるものらしい。もし本当に自分の一振りで切れたなら、こんなふうに修復されるはずがない。晴人はそう納得し、また通路の奥へと歩を進めた。


 しばらく歩いた。


 昨日、スライムがいた開けた場所には出なかった。


 もう一つ手前の、細い通路の奥から、何かの気配がした。



   *



 その気配は、昨日の獣の、倍ほどの大きさだった。


 通路の暗がりから、湿った息づかいと、大きな爪が石を鳴らす音が聞こえた。晴人は木の枝を持ち直した。


 姿を現したのは、昨日と同じ黒い獣だった。


 ただ、一回り、いや、二回りは大きい。頭の角は太く、ねじれていて、口の周りから鋭い牙がのぞいていた。晴人はそれを見て、少し考えた。


「……昨日の、成体か」


 小さくつぶやいた。


 パーティ時代、レオンが「魔物にも子供と大人がいて、大人の方が数倍強い」と言っていたのを思い出した。当時は「子供の魔物なんて、可哀想じゃないですか」と晴人が返して、レオンに「お前がそんなことを気にしてどうする」と笑われた。


 ……たぶん、これはあの獣の成体なのだろう。


 昨日一振りで倒せたのなら、今日も一振りで倒せるはずだ、と晴人は判断した。理屈は簡単だった。同じフォームで振れば、同じ結果になる。それが素振りの基本だった。


 視聴者たちは、画面の中で、その黒い獣に見覚えがあった。


『あ、これ』

『これあの二階層のやつじゃん』

『成体の方、A級モンスター』

『えぇぇ』

『A級を一階層で見た記録、過去にないぞ』

『管理局が慌てて捜索してた奴だ』

『……あの、おじさん、逃げてください』

『無理無理無理』

『いや、逃げないでください』

『逃げないで!! 俺たちが見たい!!』

『視聴者の本音』


 コメント欄が、静かに、しかし、勢い良く流れた。


 視聴者数、七万八千。



   *



 晴人は枝を軽く回した。


 獣は身をかがめ、後ろ足で地面を蹴った。


 跳んだ。


 昨日よりも、少しだけ速い。空気が唸る。獣の巨大な体が、通路の天井近くまで浮き上がり、次の瞬間、晴人の頭上に向かって落ちてきた。


 晴人は、枝を、朝の九百八十本目と同じフォームで振った。


 振り抜いた。


 獣は、上下ではなく、今度は斜めに切れて、通路の両側の壁に静かに叩きつけられた。同時に、通路の壁が、また、遠くの奥まで一直線に切れた。今度は、斜めに。


 視聴者たちは、その瞬間、コメントを打つ手が止まった。


 止まっていたのは、二秒。


 二秒が経ったあと、コメント欄はまた爆発した。


『違う、違う』

『いや、違うから』

『これは違うから』

『何が違うって、切り方が違うから』

『昨日は水平、今日は斜め』

『え? 角度、変えたの?』

『……たぶん、変えてない』

『変えてない?』

『どっちに振ったかで、切れる方向も変わっただけ、たぶん』

『それがおかしいって言ってるんだよ!!』


 コメント欄が、混乱と歓喜で入り乱れた。


 視聴者数、九万四千。



   *



 晴人は、獣の残骸の脇を歩いて通路の奥へ進んだ。


 斜めに切れた壁の隙間の向こうに、また通路が続いていた。奥に、下へと降りる階段の入り口が、微かに見えた。


 晴人はそこまで歩いて行き、階段の前に立った。


 二階層への降り口だった。


 ここから先は、昨日は見なかった場所だった。パーティ時代にも、荷物持ちとしてはあまり降りなかった。前衛が「危ないから」と、外の部屋で待たせられたことが多い場所だった。


「……初日から二階層は、無理はしないと言ったな」


 小さくつぶやいた。


 彼は詰所での約束を、律儀に思い出した。


 係員に「一階層まで様子を見て」と言ったばかりだった。二日目、いきなり二階層に降りて、上のギルドに変な報告が上がるのは避けたい。今日はここまでにしておこう。


 階段の入り口を、ゆっくりと覗き込んだ。


 薄暗い。奥に、微かに、赤みがかった光が見える。二階層はいつも、こういう色の環境光らしい。それだけ確認して、晴人は静かに背を向けた。


 視聴者たちは、彼の背中を、じっと見送った。


『ここで戻るのがまた、いい』

『行かないの、なぜ?』

『係員に「一階層まで」って言ったから、律儀に守ってる』

『いいおじさんだ』

『こんな聖人が追放されるのが世界の理不尽』

『レオンが今、朝配信でこれを見てないのが救い』

『たぶん見たら卒倒する』


 コメント欄がざわつく中、晴人はまた、来た道を戻り始めた。



   *



 途中、開けた場所の入り口の前で、彼は少しだけ立ち止まった。


 朝の空気とは違う、地下の少し冷えた空気が、頬を撫でた。


 晴人はふと、木の枝を軽く握り直した。


 朝、公園で振っていた時、九百五十本目あたりで、少しだけ肩の動きが硬いと感じた。もう少し肩甲骨の柔らかさが必要かもしれない、と思った。夜、家に帰ったら、ストレッチを一つ増やそう。


 小さな課題を、いくつも心に留めた。


 それが、素振りの日課の一番大切なところだった。誰にも褒められない。誰にも見せない。ただ、自分の動きを少しずつ、少しずつ整えていく。そのために、今日もまた、朝、公園に立つ。


 通路を戻り、ダンジョンの入り口を出た。


 ドローンは、また入り口まで先に飛んで、彼の隣に降りてきた。


 スマホを取り出す。指で青いと思ったところを押した。実際には、たまたま、本当の停止ボタンだった。画面上部に『配信終了しました』と表示され、消えた。


 視聴者たちは、画面が暗転したその瞬間、まるで祭りの終わりのようにコメントを打ち込んだ。


『お疲れさまでした』

『明日も来て』

『ありがとう』

『本当に何者なんだあの人』


 通信は、静かに切れた。



   *



 詰所に戻った。


 昨日と違う責任者らしき男が、緊張した顔で立っていた。


「お、お帰りなさい」


「はい」


「今日は、その、どちらまで」


「一階層の、階段の前まで」


「階段」


「はい、二階層への。中には入っていません」


「そう、ですか」


 男は書類にペンを走らせた。手が細かく震えていた。何度か、ペン先が紙から外れた。


「あの、風見様。あの、今日の、討伐実績は、どのようなものが」


「昨日の獣より、大きいものが一体、です」


「はい、はい」


「あと、通路の壁が、その、少し、傷ついてしまいまして。すみません」


「あ、いえ、それは、ダンジョンの、こちらの側の、問題ですので」


 男は震えながら、ペンを紙に走らせた。書類の記入項目が、彼の手の中で、書ききれない量の情報になっていた。晴人は、それを気にする様子はなかった。


「あの、後日、詳しくお話を伺えれば、と」


「はい、時間があるときに」


「よろしくお願いします」


 晴人は頭を下げて、詰所を出た。



   *



 山道を下り、電車に乗り、街に戻った。


 スーパーで、今日の夕飯用の肉と、あとキャベツを買った。特売のもやしが二袋で九十八円だったので、二袋買った。冷蔵庫の中身を頭の中で数えて、明日の朝食用のバナナも、値引きシールのついたものを一房買った。


 バスに乗って家に帰り、昼食を食べ、洗濯物を干した。


 午後、彼は椅子に座って、ノートを開いた。


 家計簿の隣に、新しく作ったページがあった。


『素振り記録』


 と、ボールペンで書かれていた。


 その日の素振りの本数、朝の体調、気付いたこと、直したい点。晴人は今日の欄に、こう書き込んだ。


『九百五十本目、肩がやや硬い。肩甲骨のストレッチを増やす』

『樫の枝、握り心地良好。柄のタオル巻き、しばらくこれで』

『山道の下り、疲労少なめ。往復三十分は良い散歩距離』


 三行だけ書いた。


 このノートは、誰にも見せない。誰かに読まれることも想定していない。ただ、自分の体の変化を、一日ずつ、正確に記録する。それだけの目的で始めたものだった。


 窓の外で、夏の蝉が鳴いていた。西の空が、少しずつ赤くなり始めている。


 彼はノートを閉じ、麦茶を注いだ。


「明日も、行こう」


 小さく、それだけつぶやいた。


 彼はまだ、何一つ、気づいていない。世界の側が、彼の朝の一振りを、じっと待ち始めていることに。





第三話 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ