第3話 「大きな獣と、次の階段」
午前四時半。
風見晴人は公園に立っていた。
いつもの砂場の隣。三本の桜。手には木の枝。今日の枝は、昨日ダンジョンで拾ってきた樫らしき枝である。夜のうちに軽く削って、柄の部分だけタオル生地を巻き付けて、握りやすくしてある。
空気は昨日より少しだけ湿っていた。
夜のうちに雨が降ったらしい。砂場の砂は表面が濡れて、色が濃く変わっている。木の葉に露が乗っていた。街灯の光を反射して、小さく光っている。
晴人は素振りを始めた。
今日はドローンを飛ばす前に、地面に置いて、しっかり充電残量を確認した。バッテリーは満タン。アプリを立ち上げる。二つのボタンが並んでいる。赤と青。
昨日と同じ間違いはしたくない、と晴人は思った。
だから、慎重に、赤いボタンを押した、と思った。
押した瞬間、画面の縁が青くふちどられた。
「……む」
小さく唸った。
どうやら、また間違えたようだった。指先が太いのが問題なのかもしれない、と晴人は思った。もしかすると、老眼のせいでボタンが見にくいのかもしれない。青と赤の色の識別自体は、ちゃんとできている。ただ、ボタンの位置を目で正確に捉えられていない。
電源を切って、押し直すか。
少し考えた。
まあ、と晴人は思った。仮に間違えたとしても、誰も見ないだろう。ダンジョン内の映像はプライベートで撮っているようなものだ。仮に配信になっていたところで、視聴者は昨日と同じで、一人か二人。もしかすると、迷惑メールの類で数字だけが増えて表示されているだけかもしれない。
深く考えないことにした。
彼は素振りを再開した。
*
同時刻。
日本全国のいくつかの部屋で、若い視聴者たちが、寝ぼけ眼で、スマホの通知に叩き起こされていた。
『【緊急】あの人、今朝も配信開始してます!!!』
『間に合ったーーーー!!!』
『速報、素振りおじさん、今日も来ました』
『え、これ寝てられないやつじゃん』
昨日、たった一振りで、通路の奥まで直線的に壁を切ってしまった三十過ぎの男。名も知られていない、地味な男。木の枝。だが、あの映像は既に切り抜かれて、あちこちのSNSに上がっていた。ハッシュタグはいくつも生まれていたが、その中で、一番早く広まったのは、こういうものだった。
『#素振りおじさん』
『#カザミハルト誰』
『#無自覚系』
視聴者数は、この時点ですでに三万を超えていた。
彼らは、画面の中で、静かに素振りを始めた男を見た。
誰も、彼にコメントを打つ手を止められなかった。
『来た』
『今日もフォームが綺麗すぎる』
『何者?』
『昨日B級モンスター真っ二つ』
『通路の壁ごとやったやつです』
『え、木の枝で』
『そうです、木の枝で』
『暁の剣が追放したやつって話マジ?』
『マジらしい』
『レオンの弱視野』
『レオンも今頃、寝ながら知らないでいる』
『……あ、レオンの朝配信、まだ始まってない』
『今日、レオンどうすんだろ』
『予定では朝から練習配信の予定』
『そこでコメント欄がこの人の話で埋まる予定』
視聴者たちは、まるで祭りの前の準備をするように、次々と情報を交換した。
当の晴人は、そんな視聴者の存在すら知らずに、七百本を振り終えていた。
*
千本を振り終えて、晴人はドローンの電源を切った、と思った。
実際には、また停止ボタンではなく、別の場所を押していた。ドローンは着陸したので、映像は再び、下向きに地面のアスファルトを映していた。だが、配信は続いていた。
視聴者たちは、下向きの映像を見ながら、待った。
晴人はまた、山あいのダンジョンに向かった。
昨日と同じ手順で、駅で始発を待ち、電車に揺られ、山道を三十分登った。今日は空腹だったので、途中で駅のパン屋で買ったコッペパンを一つかじりながら歩いた。
詰所に着いた。
昨日の係員は、いなかった。
代わりに、明らかに責任者と思われる、五十過ぎの、頬にひきつった笑みを浮かべた男性が、詰所のカウンターの向こうに立っていた。
「風見、晴人、様、ですね」
「はい」
「本日も、お一人で」
「はい」
「ちょっと、あの、ライセンスカードを見せていただけますか」
晴人はカードを渡した。男は震える指でカードを読み取り、パソコンの画面と何度も見比べた。何かを確認しているようだったが、晴人にはよくわからない。
「本日、どこまで」
「一階層まで、また様子を見に」
「……そう、ですか」
「はい」
男は一呼吸置いてから、書類を差し出した。
「あの、風見様。実は、ですね。昨日の一階層の記録なのですが、大変珍しい魔物の出現があった、と、報告が。それについて、こう、後ほどで結構ですので、ご協力を、いただけないかと」
「はい」
「よろしくお願いします」
「はい」
男の額に、汗が浮かんでいた。晴人は詰所を出て、ダンジョンの入り口に向かった。
*
中に入ると、昨日と少しだけ空気が違った。
湿度が高い。それに、遠くから、何かが動いている音がした。何かが体を引きずるような、湿った音だった。
晴人はスマホでドローンを操作した。今度こそ、赤いボタンを――
と、彼は思って指を当てた。
だが、画面上、彼が指を置いたのは、また青いボタンの方だった。
実際には、朝からずっと、配信は続いていた。
彼が押した「録画開始」のつもりの操作は、アプリ上では「既に配信中です」と表示された。表示は一瞬で消えた。晴人は、また、それを見逃した。
「よし」と、彼は小さくつぶやいた。
ドローンを頭の上に飛ばして、通路の奥に進んだ。
*
昨日切れていた壁の隙間の前を通った。
夜のうちに、ダンジョンの内部修復機能が働いたのか、隙間はほとんど塞がっていた。だが、よく見ると、壁の一部に、まだ細い一直線の跡が残っていた。晴人はそれをしばらく見た。
「……直りかけているな」
なるほど、と思った。
やはり、あの隙間はダンジョン特有の構造で、時間で変わるものらしい。もし本当に自分の一振りで切れたなら、こんなふうに修復されるはずがない。晴人はそう納得し、また通路の奥へと歩を進めた。
しばらく歩いた。
昨日、スライムがいた開けた場所には出なかった。
もう一つ手前の、細い通路の奥から、何かの気配がした。
*
その気配は、昨日の獣の、倍ほどの大きさだった。
通路の暗がりから、湿った息づかいと、大きな爪が石を鳴らす音が聞こえた。晴人は木の枝を持ち直した。
姿を現したのは、昨日と同じ黒い獣だった。
ただ、一回り、いや、二回りは大きい。頭の角は太く、ねじれていて、口の周りから鋭い牙がのぞいていた。晴人はそれを見て、少し考えた。
「……昨日の、成体か」
小さくつぶやいた。
パーティ時代、レオンが「魔物にも子供と大人がいて、大人の方が数倍強い」と言っていたのを思い出した。当時は「子供の魔物なんて、可哀想じゃないですか」と晴人が返して、レオンに「お前がそんなことを気にしてどうする」と笑われた。
……たぶん、これはあの獣の成体なのだろう。
昨日一振りで倒せたのなら、今日も一振りで倒せるはずだ、と晴人は判断した。理屈は簡単だった。同じフォームで振れば、同じ結果になる。それが素振りの基本だった。
視聴者たちは、画面の中で、その黒い獣に見覚えがあった。
『あ、これ』
『これあの二階層のやつじゃん』
『成体の方、A級モンスター』
『えぇぇ』
『A級を一階層で見た記録、過去にないぞ』
『管理局が慌てて捜索してた奴だ』
『……あの、おじさん、逃げてください』
『無理無理無理』
『いや、逃げないでください』
『逃げないで!! 俺たちが見たい!!』
『視聴者の本音』
コメント欄が、静かに、しかし、勢い良く流れた。
視聴者数、七万八千。
*
晴人は枝を軽く回した。
獣は身をかがめ、後ろ足で地面を蹴った。
跳んだ。
昨日よりも、少しだけ速い。空気が唸る。獣の巨大な体が、通路の天井近くまで浮き上がり、次の瞬間、晴人の頭上に向かって落ちてきた。
晴人は、枝を、朝の九百八十本目と同じフォームで振った。
振り抜いた。
獣は、上下ではなく、今度は斜めに切れて、通路の両側の壁に静かに叩きつけられた。同時に、通路の壁が、また、遠くの奥まで一直線に切れた。今度は、斜めに。
視聴者たちは、その瞬間、コメントを打つ手が止まった。
止まっていたのは、二秒。
二秒が経ったあと、コメント欄はまた爆発した。
『違う、違う』
『いや、違うから』
『これは違うから』
『何が違うって、切り方が違うから』
『昨日は水平、今日は斜め』
『え? 角度、変えたの?』
『……たぶん、変えてない』
『変えてない?』
『どっちに振ったかで、切れる方向も変わっただけ、たぶん』
『それがおかしいって言ってるんだよ!!』
コメント欄が、混乱と歓喜で入り乱れた。
視聴者数、九万四千。
*
晴人は、獣の残骸の脇を歩いて通路の奥へ進んだ。
斜めに切れた壁の隙間の向こうに、また通路が続いていた。奥に、下へと降りる階段の入り口が、微かに見えた。
晴人はそこまで歩いて行き、階段の前に立った。
二階層への降り口だった。
ここから先は、昨日は見なかった場所だった。パーティ時代にも、荷物持ちとしてはあまり降りなかった。前衛が「危ないから」と、外の部屋で待たせられたことが多い場所だった。
「……初日から二階層は、無理はしないと言ったな」
小さくつぶやいた。
彼は詰所での約束を、律儀に思い出した。
係員に「一階層まで様子を見て」と言ったばかりだった。二日目、いきなり二階層に降りて、上のギルドに変な報告が上がるのは避けたい。今日はここまでにしておこう。
階段の入り口を、ゆっくりと覗き込んだ。
薄暗い。奥に、微かに、赤みがかった光が見える。二階層はいつも、こういう色の環境光らしい。それだけ確認して、晴人は静かに背を向けた。
視聴者たちは、彼の背中を、じっと見送った。
『ここで戻るのがまた、いい』
『行かないの、なぜ?』
『係員に「一階層まで」って言ったから、律儀に守ってる』
『いいおじさんだ』
『こんな聖人が追放されるのが世界の理不尽』
『レオンが今、朝配信でこれを見てないのが救い』
『たぶん見たら卒倒する』
コメント欄がざわつく中、晴人はまた、来た道を戻り始めた。
*
途中、開けた場所の入り口の前で、彼は少しだけ立ち止まった。
朝の空気とは違う、地下の少し冷えた空気が、頬を撫でた。
晴人はふと、木の枝を軽く握り直した。
朝、公園で振っていた時、九百五十本目あたりで、少しだけ肩の動きが硬いと感じた。もう少し肩甲骨の柔らかさが必要かもしれない、と思った。夜、家に帰ったら、ストレッチを一つ増やそう。
小さな課題を、いくつも心に留めた。
それが、素振りの日課の一番大切なところだった。誰にも褒められない。誰にも見せない。ただ、自分の動きを少しずつ、少しずつ整えていく。そのために、今日もまた、朝、公園に立つ。
通路を戻り、ダンジョンの入り口を出た。
ドローンは、また入り口まで先に飛んで、彼の隣に降りてきた。
スマホを取り出す。指で青いと思ったところを押した。実際には、たまたま、本当の停止ボタンだった。画面上部に『配信終了しました』と表示され、消えた。
視聴者たちは、画面が暗転したその瞬間、まるで祭りの終わりのようにコメントを打ち込んだ。
『お疲れさまでした』
『明日も来て』
『ありがとう』
『本当に何者なんだあの人』
通信は、静かに切れた。
*
詰所に戻った。
昨日と違う責任者らしき男が、緊張した顔で立っていた。
「お、お帰りなさい」
「はい」
「今日は、その、どちらまで」
「一階層の、階段の前まで」
「階段」
「はい、二階層への。中には入っていません」
「そう、ですか」
男は書類にペンを走らせた。手が細かく震えていた。何度か、ペン先が紙から外れた。
「あの、風見様。あの、今日の、討伐実績は、どのようなものが」
「昨日の獣より、大きいものが一体、です」
「はい、はい」
「あと、通路の壁が、その、少し、傷ついてしまいまして。すみません」
「あ、いえ、それは、ダンジョンの、こちらの側の、問題ですので」
男は震えながら、ペンを紙に走らせた。書類の記入項目が、彼の手の中で、書ききれない量の情報になっていた。晴人は、それを気にする様子はなかった。
「あの、後日、詳しくお話を伺えれば、と」
「はい、時間があるときに」
「よろしくお願いします」
晴人は頭を下げて、詰所を出た。
*
山道を下り、電車に乗り、街に戻った。
スーパーで、今日の夕飯用の肉と、あとキャベツを買った。特売のもやしが二袋で九十八円だったので、二袋買った。冷蔵庫の中身を頭の中で数えて、明日の朝食用のバナナも、値引きシールのついたものを一房買った。
バスに乗って家に帰り、昼食を食べ、洗濯物を干した。
午後、彼は椅子に座って、ノートを開いた。
家計簿の隣に、新しく作ったページがあった。
『素振り記録』
と、ボールペンで書かれていた。
その日の素振りの本数、朝の体調、気付いたこと、直したい点。晴人は今日の欄に、こう書き込んだ。
『九百五十本目、肩がやや硬い。肩甲骨のストレッチを増やす』
『樫の枝、握り心地良好。柄のタオル巻き、しばらくこれで』
『山道の下り、疲労少なめ。往復三十分は良い散歩距離』
三行だけ書いた。
このノートは、誰にも見せない。誰かに読まれることも想定していない。ただ、自分の体の変化を、一日ずつ、正確に記録する。それだけの目的で始めたものだった。
窓の外で、夏の蝉が鳴いていた。西の空が、少しずつ赤くなり始めている。
彼はノートを閉じ、麦茶を注いだ。
「明日も、行こう」
小さく、それだけつぶやいた。
彼はまだ、何一つ、気づいていない。世界の側が、彼の朝の一振りを、じっと待ち始めていることに。
第三話 了




