第2話 「初ダンジョンと、押し間違い」
午前四時半。
昨日と同じ時間に、風見晴人は公園に立っていた。
いつもの砂場の隣、三本の桜の下。手には木の枝。ジャージは昨日と違うものを着ている。昨日汗をかいたのは洗って干した。
空はまだ暗い。
晴人はいつも通り、素振りを始めた。
一。二。三。四。
頭の中で数字を積み上げていく。振り上げて、振り下ろす。振り上げて、振り下ろす。今日はいつもと少しだけ違う点がある。足元に、昨日買った小型ドローンが置いてある。
箱から出したばかりの、白と黒の機体。
プロペラが四つ。カメラが下向きに一つ。バッテリーはフル充電。スマホと接続済み。アプリを立ち上げてある。晴人は素振りを止めずに、視線だけを一瞬、ドローンに落とした。
……忘れそうになった。
枝を左手に持ち替え、スマホを右手で操作する。ドローンの電源を入れる。プロペラが小さな唸り声を上げて、機体がふわりと浮かんだ。
アプリの画面を見る。
二つのボタンが並んでいる。赤いボタンと、青いボタン。
昨日確認したはずだった。
赤が撮影。青が――
その時、街灯の光が急に強く感じられた。晴人は目を細めて、指先で赤いボタンを押した、と思った。
押した瞬間、画面の縁が青くふちどられた。
「……ん」
小さくつぶやいた。
赤いボタンを押した時は、画面の縁が赤くふちどられる、と昨日の説明書に書いてあった気がした。今は青である。ということは、青を押してしまったのかもしれない。
もう一度画面を確認する。
『配信開始しました』
という白い文字が、画面上部に薄く表示されていた。
晴人は木の枝を振りながら、その文字をぼんやり見た。
「……配信」
言葉の意味を、少しだけ考えた。
配信、というのは、電気とかガスの供給の話だっただろうか。それとも、動画を流す方の意味だっただろうか。
……そうか。動画を流す方だ。
なるほど、と思った。ただ、次の瞬間、晴人はそれをあまり気にしなかった。というのも、この時間、こんな公園で、自分の素振りを見に来る人間などいるはずがない、という判断があった。仮に、間違って動画が流れていたとしても、視聴者は一人か二人か、あるいは誰もいないか。それだけの話だった。
あとで一回、電源を切って、押し直せば直るだろう。
そう考えて、晴人は素振りに戻った。
振る。
振る。
振る。
*
その頃、日本のどこか、深夜配信を惰性で流していた学生が、寝落ち直前にスマホの画面を眺めていた。
彼は暁の剣の配信をずっと見ていた。
昨日、暁の剣の五百連戦記念特別配信が終わったあと、興奮冷めやらぬまま、レコメンドに流れていた似た配信を片っ端から開いた。そのうちの一つが、たまたま、まったく別のチャンネルに切り替わって、画面に「深夜の公園で素振りするおじさん」が映った。
最初はミュートで見ていた。
薄暗い公園で、地味なジャージの男が、木の枝で素振りをしている。ただそれだけ。何の演出もない。BGMもない。テロップもない。
学生は、指をスワイプして次の配信に移ろうとした。
だが、その瞬間、思わず指が止まった。
男の振りが、あまりに静かで、綺麗だった。
振り上げた枝が、微塵もぶれない。振り下ろした枝が、砂場の砂を一粒も舞い上げない。フォームが、まるで、あらかじめ計算し尽くしたように、寸分違わず繰り返される。何百本、いや、何千本と振ってきた人間の動作としか見えなかった。
学生は少し起き上がって、画面をじっと見た。
『は?』
と、思わず一言、コメントに打ち込んだ。
そのコメントが、その時点でのその配信への、たった一つのコメントだった。
視聴者数、二。
うちの一人は、たまたま別の配信を流しっぱなしにして寝落ちした主。もう一人が、その学生だった。
ただ、配信ボタンが押されたその瞬間から、この配信は、後になって話題になる素地を、少しずつ、確実に育て始めていた。
*
午前六時前。
晴人は千本の素振りを終えた。
汗を額に浮かべたまま、ドローンを回収し、電源を切った。切ったつもりだった。実際にはスマホのアプリの上で「録画停止」のボタンを押しただけで、配信そのものは背後で続いていた。ただ、当のドローンは着陸したので、映像はドローンの下向きカメラが地面のアスファルトを映しているだけだった。
視聴者数はその時点で十七人になっていた。
晴人はスマホの画面をちらりと見て、通知欄に何か赤い数字が出ているのを確認した。
「……ふむ」
迷惑メール、と晴人は判断した。
最近この手の通知が多い。開かずに閉じるのが一番だ。晴人はそのままアプリを閉じて、スマホをポケットにしまった。
背後で、視聴者数はゆっくりと増えていた。ドローンの下向きの視界で、地面のアスファルトの模様を延々と流し続けているだけの映像に、なぜか三十人ほどの視聴者が居ついてしまっていた。
彼らは待っていた。
あの綺麗な素振りの男が、また画面に現れるのを。
*
晴人はリュックを背負い直した。
今日はダンジョンに行く。徒歩と電車で、片道約三十分。
自宅から徒歩五分の駅までは、涼しい早朝の街を歩いた。始発電車に乗り、五駅ほど揺られる。降りた先の駅は、山あいの小さな駅で、朝早くから登山客と、たまに冒険者らしき装備の若者が数人いた。晴人はホームに降りると、朝食用のおにぎりを一つ買い、山道を歩き始めた。
目的地は、駅から山道を三十分ほど登ったところにある。
『翠嵐ダンジョン』
と看板が立っている。街に一番近い初級ダンジョンだった。ランクはE。魔物は小型のスライム、二階層に降りると小型の獣が出るという話だった。C級以下のライセンスがあれば入場料は取られない。晴人のD級ライセンスでも問題なく入れる。
入り口には、ギルド支部の詰所があった。中で係員が二人、パソコンの前で書類を捌いている。晴人はライセンスカードを提示した。
「風見晴人さん、D級、単独入場ですね」
「はい」
「本日はどの階層まで」
「一階層まで、様子を見て」
「わかりました。無理はなさらないでください」
係員は事務的に頷いた。晴人は詰所を出て、ダンジョンの入り口に立った。
石造りの、大きなアーチ。
人の胴回りほどある太い石が、円形に組まれている。中は暗いが、奥から薄い青白い光が漏れていた。ダンジョン内部の環境光。魔物の活動を促す独特の光と言われている。
晴人はリュックを背負い直し、木の枝を右手に持った。
左手のスマホを操作し、ドローンの電源を入れる。ドローンを頭上に飛ばす。
……ここでも、彼は赤いボタンと青いボタンを押し間違えた。
もっと正確に言えば、朝からずっと配信は続いていたので、押し間違えるも何もない。彼は「録画開始」を押し直そうとしたのだが、アプリ側では既に配信中の状態だったため、押した瞬間、画面には『既に配信中です』という小さな注意文が一瞬出て、すぐに消えた。晴人はその文字を見逃した。
彼は、ドローンが録画を始めた、と信じていた。
実際には、日本のどこか二十人ほどが、寝ぼけ眼で「あ、おじさんまた出てきた」と画面を眺めていた。
晴人は一歩、ダンジョンに踏み込んだ。
*
中に入ると、空気が変わった。
外の湿った夏の空気ではなく、少し冷たい、地下の空気。壁には青白い苔のような光源。天井は高い。足元は乾いた石畳。石畳の合間から、たまに草のようなものが生えている。魔物が入ってくる前の、静かな時間帯だった。
晴人はゆっくり歩いた。
パーティ時代、この手の入り口は何度も見てきた。だが、いつも荷物持ちとして後方にいた。前衛と中衛と後衛が入って行ったあと、荷物と保存食を持って、最後尾からのそのそついていくのが仕事だった。だから、ダンジョンの最深部にはあまり行ったことがない。攻略が終わって帰り道になると、彼はまた荷物を担いで、後方を歩くのだった。
今日は、前も後ろも自分しかいない。
晴人は少しだけ深呼吸をした。
「……悪くないな」
小さくつぶやいた。
視界の広さが、いつもと違った。パーティにいた頃は、常に前衛の背中を見ていた。前衛が止まれば止まり、走れば走った。今は、視界の全部が自分のためのものだった。
枝を軽く回した。
その時、正面の暗がりの奥で、何かが動いた。
*
黒い塊が、音もなく通路の奥から歩み出てきた。
大きい。
晴人の胸の高さくらいある。四つ足。全身が黒い毛に覆われていて、頭に大きな二本の角のようなものが見える。目は薄い金色に光っている。爪が石畳をカリ、と鳴らした。
「……ほう」
晴人は木の枝を持ち直した。
あの獣は、少し体格が良かった。パーティ時代に、確か似たようなものを二階層で見かけた記憶がある。ただ、あの時は前衛が三十秒で仕留めていた。それを間近で見て、荷物担ぎとして「あんな大きな獣を三十秒で倒せるのはすごいなあ」と感心したのを覚えている。
その獣が、今、目の前に一匹いる。
視聴者たちは、画面に映ったその獣を見て、一斉に息を呑んだ。
『え』
『え、ちょっと』
『まってこれ一階層じゃないの?』
『えっ、B級モンスターなんだけど』
『下から迷い出てきたやつだこれ』
『おじさん逃げて!!』
『おっさん、木の枝じゃ無理』
『通報だ! 通報だ! ダンジョン管理局へ!』
コメント欄が急速に流れ始めた。
視聴者数は、いつのまにか三桁に乗っていた。
だが晴人はスマホをポケットに入れたままだった。彼にコメントは見えない。彼に見えているのは、目の前の黒い獣と、その向こうの通路の暗がりだけだった。
晴人は少し首を傾げた。
枝を左手で軽く持ち直し、腰を落とした。
朝の素振りで、九百八十本目を振った時の、あの感触を思い出す。
振り抜いた瞬間、枝の先が空気に線を残したような気がした、あの錯覚。
……ちょうどいい。
ちょうどいい練習になる、と晴人は思った。
獣が、身をかがめた。
跳んだ。
晴人はそれを見ながら、枝を振り上げ、振り下ろした。
いつもの素振り、一振りだけ。
特別なことは何もしない。フォームを崩さない。腕に余計な力を入れない。呼吸を止めない。足の踏み込みを深く。振り抜くとき、腰から力を伝える。
振り抜き終わった時、目の前の光景が、いつもと少しだけ違った。
黒い獣は、上下真っ二つになって、左右にゆっくり倒れていった。
いや、獣だけではなかった。
獣の背後にあった通路の壁が、その延長線上で、水平に、まっすぐ、切れていた。
石で組んだ壁が、上と下、まるで薄いパンをナイフで切り分けたように、間に一直線の隙間ができていた。隙間からは、その奥の空間が見えた。奥の空間の壁も、同じ高さで切れていた。さらに奥の壁も、その奥の空間の壁も、視界の届く限り、全ての壁が、同じ一直線に沿って切れていた。
通路の切れ目から、ゆっくりと粉塵が舞った。
「……悪くないな」
晴人は静かに言った。
枝を軽く振って、砂を落とした。
*
配信のコメント欄は、その瞬間、一秒間、完全に止まった。
止まったあと、爆発した。
『は??????』
『え、いま何した??』
『ちょっと待ってスローで見せて』
『壁ごとやってない??』
『え、これCG?』
『CGなわけないだろダンジョン内配信だぞ』
『やば』
『何あの人』
『え、木の枝で?』
『通路の奥まで一直線に切れてない??』
『管理局呼べって! 早く!』
『いや、あの人が管理局呼ぶべき側だから』
『師匠にしてほしい』
『暁の剣より強いんじゃ』
『え、これあの追放されたおじさんじゃない?』
『は??』
『昨日レオンが追放したって配信で言ってたやつ』
『まじで?』
『まじで』
『やば』
『やばすぎ』
視聴者数は、そのたった一振りの間に、五桁の入り口に達していた。
彼が押し間違えて起動した『配信開始』ボタンは、まだ止められていない。
晴人は静かに、獣の残骸を跨いで、通路の奥へ、まっすぐ歩き始めた。
*
通路は、切れ目から先も長かった。
しばらく歩くと、天井が少し高くなり、両側の壁の間隔が広がった。空間が変わったのを、晴人は靴の足音の反響で感じた。パーティ時代、荷物持ちとして最後尾で聞いていた足音の反響と同じ変化だった。ああ、部屋が広くなったな、と体が覚えている。
開けた場所に出た。
半分は森のようになっていた。地下だというのに、天井には昼のような光が差している。地面は柔らかい土。丈の低い草が絨毯のように広がっている。木がまばらに生えていて、幹の間に何かがちらちら動いていた。
小さい、青いスライムのような塊が、三体。
晴人はそれをじっと見た。
パーティ時代、レオンが「あんなの、蹴っ飛ばせば消える」と言っていた。実際、蹴られたスライムは弾けて、青い汁だけを残して消えていた。
晴人はゆっくり歩いて、その一体の前に立った。
枝を軽く振り下ろした。
ぱん、と、少しだけ気持ちの良い音がした。
スライムはその一振りで、青い汁になって石に染み込んだ。二体目、三体目も、同じように軽く一振りずつで消えた。
晴人は木の枝を持ち上げて、じっと見た。
「……この重さは、悪くない」
軽く独り言。
どうやら、今日拾ったこの枝は、以前使っていた枝より、少しだけ手に馴染むように感じられた。もしかしたら、樫の枝かもしれない。あるいは、栗か。専門ではないので、詳しくはわからない。ただ、感触は良かった。
開けた場所を一周してみた。
奥に、もう一つ通路の入り口が見えた。一階層のさらに奥へ続く道か、二階層への降り口か。晴人には判断がつかなかった。パーティ時代、彼はいつも二階層以降には行かなかった。前衛が「ここは危ないから、荷物と一緒にここで待ってろ」と言うので、外の部屋で数時間、荷物と並んで座っていることが多かった。
今日は初日だった。無理はしないと係員に言ったばかりだ。
晴人は素直に、来た道を戻ることにした。
*
通路を戻る途中で、切り裂かれた壁の隙間の前を通った。
視界の限り、まっすぐ壁が切れている。晴人は少し首を傾げた。
「……最近の壁は、こんなふうに切れるのだな」
声に出して言った。
もう少し正確に言うと、彼は「もしかして自分の一振りでこうなったのかもしれない」という可能性を、うっすらとしか考えなかった。可能性としてはある、と思ったが、その可能性を裏付けるものが何もなかった。木の枝で石を切れる人間の話は、聞いたことがなかったからだ。
だから、彼はこう結論した。
――たぶん、もともと、こういう構造の壁だったのだろう。
地下の空間には、時々こういう不思議な作りのものがある。パーティ時代にも、天井が急に高くなったり、床が突然光ったり、そういう場所を何度か見た。人間の常識で考えるとおかしいが、ダンジョンとはそういうものだ、と彼は納得していた。
だから、この切れた壁も、そういうものなのだ。
納得した。
彼は納得したまま、ダンジョンの入り口に戻った。
*
ドローンは、そのまま入り口まで先回りしていた。撮影対象の自動追尾機能が働いていたためである。晴人が入り口を出ると、ドローンは彼の隣にふわりと降りてきた。
晴人はスマホを取り出して、アプリを開いた。
視聴者数、一二七四三。
その数字を、彼は一瞬、見た。それから、目を細めた。
「……これは、何の数字だろうな」
通信量のカウントか、あるいはドローンの電力の残量表示か。細かい数字は、いつも老眼のせいで見づらい。晴人はそれ以上気にせず、大きい赤いボタン、と思ったところを指で押した。今度は運良く、本当に停止ボタンに指が当たった。
画面上部に『配信終了しました』と表示されて、消えた。
彼はドローンを回収し、リュックの上部にしまった。
係員のいる詰所に、ライセンスカードを見せに戻る。
「もうお帰りですか」
「はい」
「一階層は、いかがでしたか」
係員は事務的に尋ねた。晴人はドアの前で、少し考えた。
「……歩きやすかったです」
「そう、ですか」
係員はキーボードを叩きながら、少しだけ画面を二度見した。何か、係員のパソコンに、ここ数分の間に、大量の通知が入り始めていたようだった。だが係員はそれを確認せず、事務的に手続きを済ませた。
「本日、討伐実績は」
「はい、あの、黒い獣、が一体と、青いのが三体、ですかね」
「黒い、獣」
「はい」
「あの、失礼ですが、種類は」
「わかりません」
係員は少しだけ晴人の顔を見た。それから、画面を見た。
書類の入力を終えた頃、係員のスマホがぶるっと震えた。
係員は、それを見なかったふりをして、事務手続きを終わらせた。
「……お疲れ様でした」
「はい、ありがとうございました」
晴人は頭を下げて、詰所を出た。
係員は、扉が閉まった直後、スマホをようやく取り出した。
画面には、ギルド本部からの緊急通達と、SNSのハッシュタグと、大量の同僚からの通知が、爆発するように積み上がっていた。
その筆頭には、こうあった。
『翠嵐ダンジョン一階層に、B級モンスターが出現。現場に一般ライセンス保持者が一名滞在中。至急、確認せよ』
係員は窓の外を見た。窓の向こうを、地味なジャージの三十過ぎの男が、リュックを背負って、山道を静かに下っていくのが見えた。
「……あの、人?」
係員のつぶやきは、誰にも届かず、朝の風に消えた。
*
午前十時。
晴人は山を下り、始発の逆で電車に乗り、街に戻った。途中、スーパーで特売の卵と、豆腐と、今日の夕飯用のうどんを買った。冷蔵庫の中身と相談して、明日の朝食のパンも一斤買った。バスに乗って家に戻った。
昼食を食べたあと、彼はドローンを机の上に出して、電源を切り、静かに拭いた。
小さくつぶやいた。
「明日も、行こう」
外は夏の光が強くなっていた。
晴人はそれ以上、何も考えなかった。
朝の素振りが、少しだけ深まった気がした。ただ、それだけの朝だった。
彼はまだ、何一つ、気づいていない。
第二話 了




