第1話 「追放された荷物持ちの朝」
午前四時半。
街灯がまだ点いている時間に、風見晴人は公園へ入った。
三十二歳。少し猫背。地味な灰色のジャージ。手には木の枝。ダンジョン用のリュックは肩にぶら下がっている。見た目は早朝ジョギングを始めた中年会社員と見分けがつかない。
いつもの場所へ立つ。
街の中心にある小さな公園の、砂場の隣。三本の桜が並んでいる角。夏の夜明けはまだ来ていない。空気の奥に少しだけ青がまじっている。それだけの明るさ。
晴人は木の枝を握り直した。
本当は木刀を使いたい。ただ、三日前にヒビが入った。買い直そうと思ってはいるが、木の枝でも同じような重さの枝を選べば、それなりに素振りはできる。安上がりでもある。ダンジョンで木の枝が折れたら拾えばよい。
枝を持ち上げる。
息を止める。
振り下ろす。
「――一」
声には出さない。頭の中で数えるだけ。
振り上げて、振り下ろす。
振り上げて、振り下ろす。
風の切れる音がした。
これを一日千回やる。それが晴人の日課だった。
いつから始めたのかは、もうよく覚えていない。二十歳の頃、初めて冒険者のパーティに雇われた時、荷物持ち兼雑用として面接に行った。そこで先輩に「お前、剣も振れないんじゃ足手まといにもならないぞ」と笑われた。悔しくて、その日から始めた。
あれから十二年。
途中で何度か「もう意味がないのでは」と思ったこともある。パーティの荷物持ちは戦わない。剣を振る機会もない。それでも朝の素振りは続いた。習慣というより、生活の一部だった。歯を磨くのと同じくらい、やらないと気持ちが悪い。
振る。
振る。
振る。
最初の百本は体が起きていない。関節が硬い。木の枝の重さが手首にくる。
二百本を過ぎたあたりで、少しずつ肩が回るようになる。
五百本を超えると、動作から余計な力が抜けてくる。晴人はこの時間が好きだった。何も考えずに、ただ体を振る。頭の中には数字だけが積み上がっていく。
「……八百二」
小さく息を吐く。
空が薄い青に染まり始めていた。
晴人は動きを止めない。
昨日、パーティを追放された。
思い出したくもないが、勝手に浮かんでくる。
*
昨日の夕方。
場所は『暁の剣』のギルドオフィス。街の中央通りにある小綺麗なビルの三階。パーティのリーダー、レオンが借りている部屋だった。
「悪いけど、今日でクビだ」
レオンは椅子の背もたれに体を預けたまま、そう言った。
金髪。二十六歳。勇者職。ここ二年でぐんぐん配信者としても伸びていて、チャンネル登録者は百五十万人を超えている。革のジャケットに、首からはブランドのネックレス。派手さと若さが服の隙間から漏れ出ているような男だった。
晴人はドアの近くに立ったまま、レオンを見た。
「……はい」
「絵面がな、地味なんだよ」
レオンはスマホを机の上でくるくると回した。
「お前の荷物運びは正確だ。飯の手配も掃除も、うちのメンバー誰よりできる。ただ、視聴者はそこを見てないんだ。カメラに映るのはお前がリュックしょって歩いてる背中でさ、コメントに『あのおじさん誰』ってのが増えてきててな」
「そうですか」
「わかってくれるか」
「はい」
レオンは少し拍子抜けした顔をした。晴人は昔からこうだった。何を言われても、まず「はい」と返す。感情を出さない。追放を言い渡された今もそうだった。
「まあ、そういうことだから。ロッカーの荷物、今日中に持って帰ってくれ」
「わかりました」
晴人は頭を下げて、部屋を出た。
廊下で、他のメンバーとすれ違った。魔法使いのミア、盾持ちのカイ、僧侶のリラ。全員、目を合わせずに横をすり抜けた。三人とも、晴人よりずっと若い。三人とも、たぶんレオンからもう聞いていたのだろう。
晴人は静かにロッカールームに入り、私物をまとめた。
ロッカーの中身は少ない。着替えのシャツが二枚。予備の靴下。汗拭き用のタオル。それから、いつも肩にかけていた古いリュックがひとつ。それを畳んで、私物袋の中に入れた。ロッカーの内側に貼っていた、街の周辺のダンジョン地図を丁寧に剥がして、袋の一番上に乗せた。
最後にロッカーを閉めるとき、少しだけ手を止めた。
三年間、毎日ここにリュックを入れて、毎日ここから出勤していた。
なんとなく、扉の上を指でなでた。埃がついた。
「……お世話になりました」
誰もいない部屋に向かって、小さく言った。
ビルを出た。空はもう暗くなっていた。
その夜、家に帰って、飯を食い、風呂に入り、寝た。
朝、いつも通り四時に起きた。
いつも通り、公園に来た。
*
「……九百五十」
振る。
振る。
振る。
朝日が少しだけ木々の間から差し込み始めた。
晴人は最後の一振りをした。
振り抜いた枝の先端が、空気にほんの少しだけ跡を残したような気がした。ただ、そういう錯覚は前にも何度かあった。木の枝は木の枝だ。空気に線が残ることはない。
深く息を吐く。
「……悪くないな」
一言だけ。
誰に言うでもない独り言。それが済むと、木の枝を軽く振って砂を払い、リュックを背負い直した。
公園を出る。
朝五時半。街はまだほとんど眠っている。コンビニの明かりだけが道の途中にぽつんと灯っている。晴人はいつもの角を曲がり、いつものスーパーの前を通り、いつものパン屋の匂いを通り抜けた。パン屋は六時から開く。今日は寄らない。
家に着く。木造アパートの二階、角部屋。
シャワーを浴びた。麦茶を飲んだ。冷蔵庫の中を確認した。卵の賞味期限が三日前。まだ食べられる。パックの豆腐が今日まで。これも食べる。冷凍のご飯を電子レンジで温めた。
朝食を終えて、テーブルの上のノートを開いた。
家計簿だった。
昨日の支出、電車代二百八十円と昼食のコンビニおにぎり二百円と晩の弁当の五百八十円が並んでいる。晴人は今日の欄に、まだ何も書かない。
その隣に、小さな別のノートが置いてある。
貯金の推移をつけているノートだった。
三年間、パーティで働いた給料の大半をここに書き込んできた。派手な買い物はしていない。家賃と食費と光熱費以外は、ほとんど銀行に入れっぱなしにしていた。だから、追放されても当分は生活に困らない。数字はそう告げていた。
ただ、当分は、である。永遠ではない。
晴人は少し考えた。
これからどうするか。
三十二歳。冒険者としてのランクは荷物持ち登録のD。戦闘実績はゼロ。他のパーティに雇ってもらえる見込みは低い。かといって、他の職業に就こうにも、朝の素振りだけは続けたい。それが崩れるのはどうしても嫌だった。日課は日課だ。
しばらく机の前に座っていたが、答えは出なかった。
窓の外を見た。日が高くなり始めていた。
ふと、気持ちを切り替えるように、晴人は棚から一枚のチラシを取り出した。
街の駅前にある家電量販店のチラシだった。ここ数日、ポストに入っていたのを取っておいたものだ。特売品の欄に赤い印がついている。晴人自身がつけた印だった。
『特価 小型ドローン 三万九千八百円』
安いな、と、素直に思った。
昔から、動きを撮影する機材が欲しかった。素振りを自分で見ることは難しい。鏡に映しても正面しか映らない。誰かに撮ってもらうのは頼みづらい。パーティの遠征中に、たまにレオンがふざけて自分の顔だけを撮っている隣で、こっそり素振りを映してもらえたことがあった。それを後で見返すと、いろいろ気付くことがあった。腰の位置が甘い。足の踏み込みが浅い。次の一振りに引きずるように動いてしまっている。文字通り、目からうろこが落ちるとはこういうことか、と思った。
あの時から、いつか自分専用の撮影機材が欲しいと思っていた。
ドローンなら、離れた位置から自動で追尾してくれるらしい。宙に浮いているから、上からも横からも撮れる。晴人が公園で振っている姿を、ずっと録画してくれる。
三万九千八百円。
家計簿の残高と見比べた。
……買える。
晴人は少し考え、それから頷いた。
「買うか」
声に出した。
どうせ、追放されて時間はある。今日、駅前の家電量販店に行こう。
*
午前十時。
駅前の家電量販店は、平日の朝としてはそこそこ人が入っていた。夏休みの子供連れの家族と、暇そうな学生と、それから晴人のような一人客がぽつぽつと店内を歩いている。
晴人は入り口でチラシをたたみ、まっすぐドローン売り場に向かった。
目当ての機種は、二階のカメラコーナーの奥にあった。
棚の前に立って、パッケージを手に取る。
箱の裏に、細かい文字で色々書いてある。飛行時間、追尾機能、四K撮影、対応アプリ、あと何やらいろいろ。晴人は箱の一番大きな文字を見た。
『初心者でもかんたん』
その言葉だけで、なんだか安心した。
近くを歩いていた店員に、声をかける。
「これ、いただきたいのですが」
店員は少し驚いた顔をした。三十過ぎの、眼鏡をかけた男性店員だった。
「ありがとうございます。この機種でよろしいですか」
「はい」
「用途は、何かご趣味でしょうか」
「素振りの、録画に」
店員は一瞬、話が理解できなかった顔をした。
「素振り、といいますと」
「木の枝で、公園で、素振りをしています」
「はあ、なるほど」
店員は微妙に困った表情のまま、ドローンの箱に貼られた値札を確認し、レジに持っていくよう指し示した。晴人はゆっくり歩いて、二階のレジに向かった。
途中で、大きな液晶モニターの前を通った。
モニターには、配信サイトの映像が流れている。夏の特別枠として、店内のディスプレイに、上位配信者の映像を映しているらしかった。
『暁の剣 ダンジョン攻略五百連戦記念 特別配信』
派手なテロップと共に、レオンの顔が大写しになっていた。
晴人は少しだけ足を止めた。
画面の中のレオンは、いつもの革のジャケットで、盛大に笑っていた。隣にはミアがいて、カイがいて、リラがいる。全員、揃って何かを宣伝している。次のダンジョン攻略。新装備。スポンサー。コメント欄が右側で高速に流れていた。
晴人はそれを二秒ほど眺めて、また歩き出した。
どうということはなかった。
昨日まで彼らのそばで働いていた。今日からは違う。それだけの話だった。
レジに着いて、ドローンの箱を差し出した。
「ラッピングは……いえ、大丈夫です」
「ありがとうございます。お支払いは、ポイントカードは」
「ありません」
「かしこまりました」
三万九千八百円。晴人はカードで払った。数字だけの取引が済んで、袋に入ったドローンを受け取る。
店を出る。
外の日差しが強くなっていた。晴人は袋を大切に抱えて、駅の方へと歩いた。
途中、スーパーに寄って、卵と豆腐と特売のうどんを買った。夕方の献立が決まった。冷蔵庫に入れる物と、明日の分の食パンも忘れずに買った。
バスに乗って家に帰った。
午後一時。
*
家に着くと、晴人は昼食を済ませ、ドローンの箱を開けた。
中には本体と、コントローラーと、予備のバッテリーと、分厚い説明書と、あと薄いスマホ用のアプリの案内が入っていた。
説明書を読む。
字が小さかった。老眼が始まっているのかもしれない、と少し考えたが、まだ気のせいだろうと打ち消した。
最初に本体を充電する。バッテリーを装着する。専用のアプリをスマホにインストールする。スマホと接続する。位置情報を許可する。カメラのアクセスを許可する。マイクを許可する。
「……多いな」
小さくつぶやく。
説明書によると、飛行モードは三種類あるらしかった。手動モード、自動追尾モード、それから――
『ライブ配信モード』
その項目が説明書の中にあった。
晴人はそこを読み飛ばした。
自分には関係がない。他人に見せるつもりもない。自分の素振りを録画するだけだ。動作を後で確認して、修正できるところを見つけるだけ。あくまで自習のためのものだった。
自動追尾モードのボタンの位置を、しっかり確認した。
電源ボタンの隣に、大きめの赤いボタンがある。説明書には『撮影開始』と書いてある。晴人は指でその位置をなぞり、覚えた。
その隣にもう一つ、青いボタンがあった。
『配信開始』
この二つは、うっかり押し間違えないように、と説明書には書いてあった。特に――
「……青は押さないように、と」
声に出して確認する。
うん、覚えた。
晴人はドローンを机の上に置いた。今日はもう、電源を切っておく。明日の朝、公園で試すつもりだった。
外はもう夕方だった。
窓を開けると、湿った夏の風が入ってきた。遠くで蝉が鳴いている。空が少しずつ赤く染まっていく。
晴人は麦茶を注いで、椅子に腰を下ろした。
「……悪くないな」
誰に言うでもなく、そう言った。
明日から、少しだけ、日常が変わる。
ダンジョンに行こう、と思った。パーティを組まなくても、荷物持ちのD級ライセンスを使えば、初級ダンジョンには入れる。一人で歩いて、モンスターの気配を避けて、奥まで進んで、体を動かして、戻ってくる。素振りだけでは飽きが来る。ダンジョンは、いい鍛錬場になる。それに、一人で入るなら、ドローンで録画したっていい。誰にも迷惑がかからない。
明日は自宅から徒歩三十分の、あのダンジョンに行ってみよう。
電車で一駅、そこから山道を三十分。ちょうどいい散歩の距離。
窓の外の空が、深い青に変わっていった。
晴人はもう一度、机の上のドローンを見た。
赤いボタンと、青いボタン。二つが並んでいる。
……青は押さない。
そう心に決めて、晴人は明日の朝に備えた。
その日はそれで終わった。
翌朝、彼はまだ知らない。
三十二歳、追放された元荷物持ち、風見晴人の日常が、明日の朝を境に、静かに、まったく本人の与り知らないところで、世界と地続きになろうとしていることを。
窓の外の夏の空が、静かに夜へと変わっていく。
その夜、彼はいつも通りに眠り、いつも通りの明日を疑わなかった。
第一話 了




