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第26話 「東京」

 火曜日の朝、四時半。


 晴人は公園に着いた。木の根元に枝が四本立てかけてあった。ミアの枝は昨日の雨でさらに濡れていたが、まだ倒れていなかった。


 自分の枝を取った。構えた。


 一本目から角度を意識した。昨日の感覚はまだ手に残っていた。斜めに入れる。腰の回転で。


 音が五本目で安定した。昨日は二十本かかったのに、今日は五本。一日で変わる。


 四百本を過ぎた頃、リナが来た。


「おはようございます」


「おはようございます」


 リナの表情がいつもと違った。いつもは素振りに集中した顔をしている。今日は何かを言いたそうな顔をしていた。


 枝を取って、並んで振り始めた。


 五百本を過ぎた頃、レオンが来た。


「おはよう。……ニュース、見たか」


 レオンがリナに聞いた。リナが頷いた。


「見ました」


「どう思う」


「どうも何も……」


 リナが晴人をちらりと見た。晴人は振り続けていた。会話に加わる様子がなかった。


 レオンは少し黙ってから、太めの枝を取った。素振りに入った。


 三人が並んで振っている間、空が白み始めた。


 東の空はいつも通りだった。西の空が少しだけ赤みを帯びていた。昨夜よりは薄い。日光が出てくれば消えるかもしれなかった。


 リナは今朝、集中が途切れがちだった。丹田を意識しても七振り目で外れる。昨日は十八振り維持できたのに、今日は半分もいかない。


 頭の中に東京のニュースがある。裂け目が広がり続けている。自衛隊の攻撃が効かない。避難指示が拡大している。


 その全てが横で黙々と振り続けている人の上に降りかかろうとしている。


 十一振り目で丹田が抜けた。


 リナは一度枝を下ろして、深呼吸した。


 隣の晴人を見た。千本のうちの何本目かわからないが、一本も変わらない音で振り続けていた。音が安定していた。角度を変えたはずの素振りが、もう完全に馴染んでいた。


 リナは枝を持ち直した。


 今は振ることだけを考える。


 構えて、振った。


 千本が終わった。


「今日もありがとうございました」


 晴人が枝を根元に立てかけた。


 リナとレオンも立てかけた。


「風見さん」


 リナが声をかけた。


「はい」


「東京のこと……何か聞いていますか」


 晴人は少し間を置いた。


「本部から打診が来ています」


「打診」


「東京に行ってほしいそうです」


 リナとレオンが顔を見合わせた。


「行くんですか」


「今日、段差の先を確認してからお返事します」


 それだけだった。


 リナは何か言おうとして、やめた。


 レオンが口を開いた。


「俺たちに何かできることはあるか」


 晴人が少し考えた。


「明日も朝の素振り、よろしくお願いします」


 レオンは少し笑った。笑ってから、頷いた。


 三人が公園を出た。


  *


 詰所に着いた。


 萩田が窓口にいた。テレビが点いていた。画面に裂け目が映っていた。


 テロップが流れている。「空間異常、推定幅一キロメートル超——黒い球体計十二個に到達——自衛隊による攻撃は効果なし」


 一キロメートル。


 昨夜は八百メートルだった。


「おはようございます」


「おはようございます。風見様、今日も七階層ですか」


「はい。段差の先の確認をしてきます」


 萩田が書類を処理した。いつもの手順だったが、手が少し震えていた。


 晴人は地下へ下りた。


  *


 六階層を通過した。七階層に入った。水の張った地面を歩く。


 分岐を右へ。上り坂。大空間を通過して、奥の通路へ。段差を下りた。


 壁が暗い緑。空気が重い。天井から水が滴る。


 通路を進んだ。緑の四足が一体いた。一振りで仕留めた。角度は安定していた。


 さらに奥へ。もう一体。一振り。


 広い空間に出た。


 緑色の大きなものがまだそこにいた。脈動している。昨日と同じ位置だった。


 晴人は枝を構えずに近づいた。


 距離を五メートルまで詰めた。相手は動かなかった。脈動は続いている。ゆっくり、等間隔で。呼吸のようにも見えた。


 攻撃的ではなかった。


 晴人はさらに一歩近づいた。


 三メートル。


 表面が近くで見えた。暗い緑色の表面に、薄い筋が走っていた。筋は脈動に合わせて明滅していた。植物の根のようにも、血管のようにも見えた。


 もう一歩。二メートル。


 空間の温度がわずかに上がった気がした。この大きなものの体温なのか、それとも地下の地熱なのか判断がつかなかった。


 触れてみようか、と思った。


 手を伸ばした。


 指先が表面に触れた瞬間、脈動が一瞬止まった。


 晴人も止まった。


 一拍の沈黙があった。この空間のすべてが黙ったような静寂だった。天井の水滴も、地面の湿り気も、空気の流れも——全部が止まった。


 脈動が再開した。何も起きなかった。


 指先の感触は冷たかった。大岩体の空洞内部に似ていた。ただ、こちらの方がわずかに温かい。生きているものの温度だった。


 晴人は手を引いた。


 しばらく眺めた。


 この大きなものは、ダンジョンの一部なのかもしれなかった。ダンジョンそのものの核のようなものか、あるいは別の何かか。判断する材料が足りなかった。


 メモ帳を取り出した。「触れた。攻撃性なし。表面冷たい。脈動あり。筋が明滅。生体的な温度。ダンジョンの一部かもしれない」


 これで確認は終わった。


 明日また来ればいい。


 来た道を戻った。


  *


 地上に出た。


 空の色を確認した。西側がまだ赤かった。朝より濃くなっていた。午後の日差しの中に赤が混じっている。


 詰所に戻った。


 萩田が窓口にいた。テレビの画面が変わっていた。


 映像は上空からの撮影だった。東京都心が映っていた。裂け目が空に走っている。幅が画面に収まりきっていなかった。


 裂け目の端が画面の外に出ていた。カメラが引いても全体が映らない。


 テロップ。「空間異常の幅、推定一・二キロメートルに拡大——裂け目内部から異形の存在が複数体出現——新宿・渋谷方面への避難指示拡大」


 異形の存在。


 晴人はテレビの画面を見た。


 映像の中で、裂け目の下端から黒い球体とは別の何かが降りてきていた。カメラが遠くて細部は見えなかったが、形は人には近くなかった。四つ足に見えるものもいた。二足で歩くものもいた。大きさはまちまちだったが、どれもビルの一階分以上の高さがあった。


 地上に降りた異形の一体が、交差点を横切っていた。周囲の信号機が揺れていた。車が何台か放置されている映像も見えた。


 自衛隊の装甲車が後退する映像に切り替わった。


「萩田さん」


「はい」


「東京の件、お返事します」


 萩田が書類の手を止めた。女性職員も振り向いた。


 晴人はテレビの画面をもう一度見た。異形が交差点を横切っている映像が流れていた。動きが直線的だった。


「行きます」


 短い言葉だった。


 萩田が少し間を置いた。


「……本部に連絡します」


「お願いします」


 晴人はもう一度テレビを見た。


「明日の朝の素振りが終わってからでいいですか」


 萩田は一瞬、顔が動いた。朝の素振りが終わってから。東京で異形が出現し始めているのに、明日の朝の素振りを優先している。


 ただ萩田はもう驚かなかった。この人はそういう人だった。


「本部に確認します。少々お待ちください」


 萩田が内線を取った。番号を押して、待った。三回の呼び出し音の後、東條の声が出た。


「萩田です。風見様から回答をいただきました。東京に行く意思があるとのことです。ただし、明日の朝の素振りの後に出発したいとのご意向です」


 電話の向こうで少し間があった。


 東條は執務室の椅子に座ったまま、窓の外を見ていた。都心の空が赤い。遠く離れた場所の空まで染まり始めている。国際連盟からの問い合わせは今日だけで十二件に達していた。各国が日本の対応を注視している。


 その中で、一人の冒険者が「朝の素振りの後で」と言っている。


「……わかりました。手配します。明日の何時頃の出発になりますか」


 萩田は晴人を見た。


「朝の素振りは何時に終わりますか」


「七時です」


「七時終了とのことです」


 東條は少し考えた。車を出す。高速道路は都心への流入が規制されているが、ギルドの車両には通行許可が出る。所要時間は通常より長くなるだろう。

「では七時三十分に迎えの車を出します。詰所前で。到着は昼前になるかもしれません」


「わかりました」


 東條は電話を切る前に一つ付け加えた。


「萩田さん」


「はい」


「風見様の持ち物は」


「枝と、タオルと、水筒と、メモ帳だと思います」


 少し間があった。


「……それだけですか」


「それだけです」

 東條は受話器を置いた。


 窓の外の赤い空を見た。


 政府は自衛隊を投入した。ミサイルが効かない。A級冒険者の派遣も検討されているが、単独で対処できる者はいない。


 そこに一人の男が行く。枝を持って。


 東條は少し笑った。笑ってから、手配の書類を書き始めた。


  *


 萩田は電話を切った。


 晴人に伝えた。


「明日の七時三十分に、素振りをしている公園の前にお迎えの車が来ます。到着は昼前になるかもしれないとのことです」


「わかりました。ありがとうございます」


 晴人が頭を下げた。


「あの……風見様」


 女性職員が声をかけた。


「はい」


「お気をつけて」


「ありがとうございます」


 晴人が詰所を出た。


 女性職員はテレビを見た。一・二キロメートルの裂け目。異形の出現。自衛隊の攻撃が効かない。


 明日の朝七時半に、あの人がここから東京へ向かう。


 枝を一本持って。


 いや、枝は公園に置いてある。現地で拾うのかもしれない。


 女性職員は少し息を吐いた。


  *


 晴人は帰宅してから、冷蔵庫を開けた。


 明日の東京行きに備えて買っておいた材料で夕食を済ませておく必要があった。鶏むね肉の塩麹漬けが明後日用に仕込んであったが、明後日いるかどうかわからなかった。先に焼いてしまうことにした。


 キャベツと一緒に炒めた。味噌汁は長ネギとにんじんにした。


 食べながら、テレビを点けた。


 裂け目が映っていた。


 昼に見た映像から状況が変わっていた。裂け目の幅がさらに広がり、一・五キロメートルに達したとキャスターが言っていた。黒い球体は合計で十八個。異形の数は確認されているだけで三十体以上。


 自衛隊の車両が並んでいた。攻撃している映像があった。着弾しても異形は止まらなかった。火器が効かない。ミサイルも試されたが、裂け目の近くでは爆発しなかったという報告が読み上げられた。空間が歪んでいる影響かもしれないとコメンテーターが言っていたが、確定はしていなかった。


 晴人は箸を止めずに見ていた。


 異形の動き方が少し気になった。動きが直線的だった。フェイントがない。ダンジョンの六階層にいた白い人型のものと似た印象を受けた。


 ただ大きさが違った。テレビの映像で見る限り、ビルの二階くらいの高さがあった。


 大きい。


 大きいが、動きが直線的なら軸があるはずだった。軸があるなら、そこを一振りで通せばいい。


 問題は大きさだった。自分の枝で届くかどうか。


 届く、と思った。理由はなかった。ただ、素振りの延長で届くだろうと感覚が言っていた。


 晴人は味噌汁を飲んで、食事を終えた。


 食器を洗ってから、メモ帳を開いた。


 今日の段差の先の記録を書いた。脈動体への接触。攻撃性なし。生体的温度。


 その下に一行加えた。


「東京の異形。動きが直線的。軸の確認が必要」


 メモ帳を閉じた。


 明日の準備をした。枝は公園に置いてある。東京では現地で拾えばいい。太さと長さが合うものがあればいいが、なければ何でもいい。


 水筒とタオルをリュックに入れた。メモ帳とボールペンも入れた。着替えは要るだろうかと思ったが、日帰りのつもりだったのでやめた。一泊になるなら現地で考えればいい。


 スマホを充電器に繋いだ。通知が七百件を超えていた。


 全消去しようとして、やめた。東京に行くなら連絡が来るかもしれない。萩田の番号は登録していなかった。東條という名前は聞いたが番号は知らなかった。


 通知の中にギルドからのものがあるか確認した。一件あった。


「明日七時三十分に詰所前にお迎えの車が参ります。担当:冒険者ギルド日本本部 東條」


 それだけだった。


 晴人は通知を既読にしてから、残りを全消去した。


 電気を消して横になった。


 明日は五時に起きる。公園に行って素振りをして、七時に終わって、七時半に車が来る。


 東京まで何時間かかるかわからなかった。


 ただ、着いたらまずスーパーを探そうと思った。水筒の水だけでは足りないかもしれない。おにぎりか何か、軽いものを買っておきたかった。


 それから枝を拾う。


 それからあの裂け目を見に行く。


 テレビで見るのと近くで見るのは違うはずだった。ダンジョンでもそうだった。遠くから見るのと実際に間合いに入るのでは全く別の経験だった。


 まず見る。見てから考える。


 いつもそうしてきた。素振りもダンジョンもスーパーの特売も、まず見てから判断する。


 それだけのことだった。


  *


 同じ夜、リナは自分の部屋にいた。


 テレビの前に座っていた。裂け目の映像が流れ続けていた。


 異形が都心の交差点を横切っている映像が繰り返し放送されていた。解説者が「A級冒険者でも単独では対処困難」と言っていた。


 A級。


 リナはA級だった。国内最年少で取得した。それが今、何の意味もないと思った。あの映像の中に入って、自分が一人で何かできるかと問われたら、答えは「できない」だった。


 スマホを持っていた。何度かメッセージを打ちかけて、消した。


 風見さんに何か言うべきだろうか。気をつけて、とか。がんばって、とか。


 どちらも違う気がした。


 あの人に「がんばって」と言っても、がんばるという概念が当てはまらない。朝の素振りと同じ感覚で東京に行くのだろう。段差の先の確認をしてから返事をした人だ。東京の裂け目と段差の先が同じ重さの人だ。


 テレビの画面で、異形の一体が自衛隊の車両を押し退けていた。銃弾が当たっている。効いていない。


 風見さんなら。


 リナは自分の思考を止めた。期待するのは違う。あの人は世界を救うために行くのではない。たぶん、大きいから見に行く、くらいの感覚だろう。


 リナはスマホを置いた。


 明日の朝、公園に行く。素振りをする。七時に終わる。


 そのとき何か伝えられるかもしれなかった。


 いや、伝えなくてもいいのかもしれない。


 リナは枕に顔を埋めた。


 明日の朝、いつも通りに振ればいい。それが風見さんが求めていることだと思った。


「明日も朝の素振り、よろしくお願いします」


 今朝、あの人はそう言った。


 東京に行く前に、よろしくお願いしますと言った人だ。


 リナは目を閉じた。


 明日、いつも通りに振る。それだけのことだ。


  *


 同じ夜、レオンも部屋にいた。


 テレビは点けていなかった。代わりにスマホで東京の裂け目のライブ映像を見ていた。


 異形が地上を歩いている映像が流れた。自衛隊の装甲車が後退していた。攻撃が効いていない。


 レオンは画面を見ながら考えた。


 自分に何ができるか。A級ではない。元勇者職と言っても、実力はパーティに支えられていただけだった。かつての暁の剣のパーティなら、ギリギリ六階層のモンスターを相手にできた程度だった。あの異形はそれより遥かに大きい。


 行っても足手まといだった。


 わかっていた。わかっていることが、元リーダーとしては一番きつかった。


 画面の中で、異形が建物の壁にぶつかった。壁が砕けた。煙が上がった。


 あの人は、明日あの中に入っていく。枝一本で。


 レオンはスマホの画面を閉じた。


 ベッドの横に目覚まし時計があった。五時にセットしてある。一週間前からそうしている。


 朝の素振りには行ける。


 それが今の自分にできることだった。


 レオンは横になった。


 明日、五時半に起きる。公園に行く。「落とす」をやる。素振りをやる。


 晴人が出発する前に、いつも通りの朝を作る。


 それが今の自分にできる、唯一のことだった。


  *


 世界中の配信視聴者が、同じ夜を過ごしていた。


『 師匠が東京に行く 』


『 行くのか!?本当に!? 』


『 萩田さんの電話聞こえた。明日の朝の素振りの後に出発 』


『 朝の素振りの後!!!! 』


『 どんな状況でも朝の素振りは崩さない 』


『 泣いてる ガチで泣いてる 』


『 師匠の持ち物:枝 タオル 水筒 メモ帳 ボールペン 以上 』


『 武器が枝!!!東京に枝で行く!!! 』


『 いや現地で拾うって言ってたぞ 』


『 現地調達!!!! 』


『 東條って人が電話で「それだけですか」って聞き返してた 』


『 気持ちわかる 世界の命運を託す人の装備が百均メモ帳 』


『 [ENG] He's going to Tokyo with nothing but a towel and a notebook 』


『 [ENG] And he said he'll pick up a branch when he gets there 』


『 [ENG] The military can't stop it. Missiles can't stop it. And they're sending one man with a stick. 』


『 一人の男と一本の棒。世界が見守っている 』


『 リナちゃんとレオンの表情が…… 』


『 「明日も朝の素振り、よろしくお願いします」←この人は本気で言ってる 』


『 出発前のお願いが素振りなんだよ 』


『 泣ける 普通に泣ける 』


『 明日の朝、絶対見る 』


『 世界中が明日の朝配信を待ってる 』


『 視聴者数もう二百万超えてる 』


『 まだ何もしてないのに二百万 』


『 明日、全部変わるかもしれない 』


『 でも師匠は変わらない 』


『 それが一番すごいことだと思う 』


 視聴者数が二百万を超えていた。


 翌朝まで、あと七時間。




第二十六話 了


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