第25話 「裂け目」
月曜日の朝は、いつも通りだった。
四時に起きた。顔を洗って水を飲んで、公園へ歩いた。木の根元に枝が四本立てかけてあった。昨日ミアが端に置いた一本も、夜の雨に少し濡れていたが倒れずにいた。
自分の枝を取って、構えた。
昨日の角度の調整を続けた。腰の回転で斜めに入れる。手首は動かさない。
一本目から意識した。空気を切る音に耳を澄ませた。
音が安定するまで二十本ほどかかった。昨日は五本目で変わったが、今日は二十本。日によって入り方が違う。
それでいい。毎日同じにはならない。同じにならないから、毎日やる意味がある。
四百本を過ぎた頃、リナが来た。
「おはようございます」
「おはようございます」
リナが根元から枝を取って並んだ。
五百本を過ぎた頃、レオンが来た。
「おはよう」
「おはようございます」
レオンは「落とす」を三回やってから素振りに入った。今朝は何かが違ったらしく、十五本目あたりで首を傾げた。
「手が勝手に止まったんですが」
レオンが振り返らずに言った。
「止まるのは悪くないです」
晴人が返した。
「体が何か気づいたときに止まることがあります」
「何に気づいたかわからないんですが」
「わからなくていいです」
レオンはもう一本振った。今度は止まらなかった。
三人が並んで振る朝が続いた。
千本が終わった。
「今日もありがとうございました」
枝を根元に立てかけて、晴人はアパートに戻った。
*
スーパーの開店時間の九時に合わせ、アパートを出た。
今日の目的は味噌と長ネギの追加だった。昨日買った分で足りると思ったが、冷蔵庫を確認したら味噌が切れかけていた。
味噌は七百五十グラムで二百九十八円のものを取った。長ネギは昨日買ったから今日は要らない。
卵の残りがあと四個。水曜日までは持つ計算だった。
会計は三百十二円だった。
帰り道、スマホが震えた。通知ではなかった。ニュース速報だった。
画面にテロップが流れていた。
「東京都心部に巨大な空間異常が出現——半径推定二百メートル——付近住民に避難指示」
晴人はテロップを読んだ。
空間異常。
ダンジョンの入口と似たようなものだろうかと思った。都心に出るのは珍しいかもしれない。
帰宅して味噌を冷蔵庫に入れた。
*
晴人がスーパーに出かける少し前、東京都千代田区。
空に裂け目が開いていた。
裂け目、としか表現できなかった。空の一点から左右に亀裂が走り、そこから光とも闇ともつかない色が漏れていた。高さは地上から約百メートル。幅は時間とともに広がっていた。
午前八時十二分に最初の通報が入った。
午前八時十五分に警視庁が現場を確認した。
午前八時二十三分に冒険者ギルド日本本部に第一報が入った。
東條は執務室のモニターで映像を見ていた。
裂け目は縦に長かった。上端が見えない。下端は地上のビルの屋上付近にあった。周囲のビルの窓ガラスが振動している映像が中継されていた。
東條の手元の電話が鳴った。内線ではなかった。政府直通の回線だった。
「東條です」
「内閣官房安全保障局です。現在、千代田区上空に出現した空間異常について、冒険者ギルドとしての所見を求めます」
「所見と申しますと」
「ダンジョンゲートとの類似性、および対処可能かどうかの見解です」
東條はモニターを見ながら答えた。
「ダンジョンゲートとの類似性はあります。ただし、規模が桁違いです。通常のゲートは直径数メートルから十数メートル。これは推定幅が二百メートルを超えています。過去に記録がありません」
「対処は」
「現時点では、対処可能な冒険者は確認されていません」
嘘ではなかった。確認されていない、とだけ言った。
電話を切ってから、東條は椅子の背に手を置いた。
心当たりが一人いた。
ただし、その人物は今頃スーパーで味噌を買っているかもしれなかった。
*
午前九時、裂け目の幅が三百メートルに拡大した。
午前九時三十分、裂け目の下端から何かが落ちてきた。
黒い球体だった。直径十メートルほど。地上に着地すると、そのまま動かなかった。
午前十時、黒い球体が二つ目、三つ目と落ちてきた。
午前十時十五分、内閣総理大臣が緊急記者会見を開いた。
「本日午前八時頃、東京都千代田区上空に巨大な空間異常が出現いたしました。政府は本件を国家非常事態と認定し、対策本部を設置いたします。都心部の住民の皆さまには速やかな避難をお願いいたします」
テレビの画面が切り替わった。
上空の裂け目が映った。幅はさらに広がっていた。推定四百メートル。
カメラが引いた映像では、皇居の上空あたりに巨大な亀裂が浮かんでいるのが見えた。
*
『 え 』 『 え????? 』
『 ニュース見てる?? 』
『 東京にゲート????? 』
『 ゲートなのかこれ??でかすぎない?? 』
『 四百メートルって何??? 』
『 非常事態宣言出た…… 』
『 師匠の配信どころじゃないけどここに集まってしまう 』
『 師匠なら何かできるんじゃないかって思ってしまう自分がいる 』
『 いやでも師匠はたぶんまだ知らない 』
『 通知全部消してるからな…… 』
『 [ENG] Tokyo gate. This is real. This is not a drill. 』
『 [ENG] Is it crazy that my first thought was "where is the branch man" 』
『 [ENG] He's probably grocery shopping right now 』
『 笑えない 笑えないけど絶対そう 』
『 師匠にどうやって伝えるの 』
『 通知消すから無理では?? 』
『 リナちゃんかレオンが伝えるしかない 』
『 萩田さんの詰所ルートもある 』
『 頼む……誰か師匠に…… 』
*
晴人は午前中、家にいた。
休日の翌日は洗濯をすることにしていた。洗濯機を回して、ベランダに干した。天気は曇りだった。午後から晴れる予報だったので、乾くはずだった。
昼食は卵かけごはんにした。
食べ終えてからダンジョンへ行く準備をした。枝と、メモ帳と、ボールペンと、タオルと、水筒。
玄関を出る前にスマホを確認した。
通知が三百件を超えていた。
さすがに多い。
迷惑メールにしては異常な数だった。一瞬、全消去のボタンに指を置いたが、やめた。三百件は今までで一番多かった。何か別のことが起きているのかもしれない。
通知の一つを開いた。
ニュースアプリだった。
「【速報】東京都心上空の空間異常、幅五百メートルに拡大——黒い球体が複数落下——国家非常事態宣言発令中」
晴人は画面を見た。
空間異常。五百メートル。黒い球体。非常事態宣言。
しばらく画面を見ていた。
動画のリンクが貼ってあった。タップした。
空に裂け目が映っていた。
晴人は動画を最後まで見た。三十秒の映像だった。裂け目の下から黒い球体が落ちてくる映像。地上に着地する映像。周囲のビルのガラスが揺れている映像。
見終わってから、スマホをポケットに戻した。
ダンジョンの支度はそのままだった。
少し考えた。
今日はダンジョンに行く予定だった。段差の先にもう一度行って、角度を試すつもりだった。
予定を変える理由があるかどうかを考えた。
東京は遠い。ここからでは何もできない。非常事態宣言が出ていても、自分にできることがあるかどうかはわからなかった。
ダンジョンに行く方が意味があると思った。
玄関を出た。
*
詰所に着いた。
萩田が窓口にいた。顔色がいつもと違った。
「風見様」
「おはようございます」
「今日も七階層ですか」
「はい」
萩田は少し間を置いた。
「……東京のニュースはご覧になりましたか」
「見ました」
「何か、お考えはありますか」
晴人は少し考えた。
「大きいですね」
それだけだった。
萩田は何か言いかけて、やめた。書類を処理して、記録を更新した。
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
晴人は地下へ下りていった。
萩田は窓口に残った。横にいる女性職員が画面を見ていた。テレビのニュースが流れていた。裂け目がまた広がっていた。推定幅が六百メートルになったとキャスターが言っていた。
「萩田さん」
女性職員が声をかけた。
「はい」
「本部から通達が来ています。全国のダンジョン管理詰所に対して、冒険者の出入りを継続監視するよう指示が出ました」
「わかりました」
「それと……」
女性職員が少し言葉を選んだ。
「風見様を東京に派遣する可能性についての打診が来ています。東條本部長名です」
萩田は画面を見た。
通達の文面を読んだ。
「風見晴人氏の意思確認を行い、結果を報告すること」
萩田は通達を閉じた。
意思確認。
あの人に聞いたら何と答えるだろう。
「大きいですね」と言って、七階層に下りていった人だ。
萩田は答えがわからなかった。
*
晴人は六階層を通過して、七階層に入った。
水の張った地面を歩いた。通路の壁に岩系のものが一体いた。一振りで仕留めた。
分岐を右へ。上り坂を登って、大空間を通過。奥の通路へ入り、段差を下りた。
段差の先。壁が暗い緑色の領域。空気が重い。
前方に気配があった。
前回と同じ種類の緑色の四足がいた。一体だった。
晴人は枝を構えた。
角度を変える。腰の回転で斜めに入れる。今朝の公園で二十本かけて掴んだ感覚を、ここで試す。
相手が動いた。速い。
晴人は半歩横にずれた。通り過ぎる直前に踏み込んだ。
角度を斜めにして振った。
音が変わった。前回とは違う音だった。抵抗が少なかった。
相手が二つに分かれた。
一振り。
晴人は枝を下ろした。
断面を確認した。前回は浅かった。今回は深く入っていた。粘りのある表面を、斜めの角度で切ることで刃の通りが変わった。
悪くない。
メモ帳を取り出して書いた。「角度変更で一振り。腰の回転と角度の連動を確認」
先へ進んだ。
*
『 師匠がダンジョンに行った!!!!! 』
『 東京で非常事態宣言出てるのに!!!! 』
『 出てるのに普通にダンジョン入った!! 』
『 一振りで仕留めた!!!角度変えて!!! 』
『 #TwoSwingsの反省完了してるじゃん!!!! 』
『 師匠にとっては東京のゲートよりダンジョンの角度調整の方が優先度高い 』
『 正直それどころじゃないんだけど師匠見てると落ち着く 』
『 わかる 世界が壊れそうなときに素振りしてる人がいるの安心感ある 』
『 萩田さんの顔…… 』
『 「大きいですね」だけで七階層に下りていった男 』
『 [ENG] The world is ending and this man is calibrating his swing angle in a dungeon 』
『 [ENG] Honestly? This is the calmest stream on the entire internet right now 』
『 [ENG] 1.4 million people watching a man swing a stick while Tokyo burns 』
『 師匠に東京行ってほしい派と日常を守ってほしい派がいる 』
『 どっちもわかる 』
『 でも師匠が決めることだから 』
『 派遣の打診が来てるらしい……萩田さんの画面に映ってた 』
『 読唇術使ってるやつ出てきたな?? 』
『 視聴者の解析班怖すぎる 』
*
晴人は段差の先をさらに進んだ。
通路が続いていた。壁の緑が濃くなっている。天井から水滴が落ちていた。
二体目の緑の四足が現れた。今度は一振りで仕留めた。角度の感覚が安定してきていた。
さらに奥へ進むと、通路が広くなった。
天井が高くなった。地面の水が消えて、代わりに細かい砂になった。
空間の奥に、何かあった。
大きい。前回の大岩体より大きかった。ただ、形が違う。岩ではなかった。
緑色の表面だった。壁と同じ色をしているが、壁ではない。動いていた。ゆっくり、脈を打つように動いていた。
晴人は立ち止まった。
しばらく眺めた。
大きさは部屋くらいあった。高さは天井に近い。形はいびつで、何かに似ているとも言えなかった。
脈動している。
生きている。
晴人は枝を構えなかった。
今日はここまでにした。
相手の動きを観察する必要があった。大岩体のときは立ち上がって攻撃してきた。この相手が同じように動くかどうかはわからなかった。
観察が先だった。
メモ帳を取り出して書いた。「段差の先、二体撃破後の広い空間。緑色の大きなもの。脈動している。攻撃的かどうか未確認。明日もう一度来て確認する」
来た道を戻った。
*
地上に出ると、空の色が変わっていた。
西の空が赤みを帯びていた。夕焼けにしては色が強い。
晴人はしばらく空を見上げた。
赤い。普段の夕焼けとは違う色だった。
スマホを取り出した。通知が五百件を超えていた。
さすがに全消去する気にならなかった。
一つ開いた。
「【続報】東京都心空間異常、幅八百メートルに拡大——裂け目から発生する光が周辺上空の色を変化させている模様——政府、自衛隊に災害派遣命令」
八百メートル。
朝は五百メートルだった。
晴人は空を見た。ここは東京ではない。東京から離れた場所の空が赤いということは、影響がここまで来ているということだった。
詰所に戻った。
萩田が窓口にいた。テレビが点いていた。裂け目の映像が流れていた。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます。段差の先で二体撃破しました。奥に大きなものがいます。明日もう一度確認に来ます」
萩田がメモ帳を受け取った。読んだ。
「わかりました」
萩田が少し間を置いた。
「風見様。本部から通達が来ております」
「はい」
「東京の空間異常について、風見様のお力をお借りしたいとの打診です。東條本部長からのものです」
晴人は少し考えた。
「東京ですか」
「はい」
「遠いですね」
「交通手段は本部が手配すると書いてあります」
晴人はまた少し考えた。
「明日、段差の先にもう一度行く予定があるんですが」
萩田は何も言わなかった。
「確認してから、お返事してもいいですか」
「わかりました。本部にはそのように伝えます」
晴人が頭を下げて、詰所を出た。
萩田はしばらく出口を見ていた。
女性職員が横にいた。
「明日の段差の確認の後、と仰っていましたね」
「ええ」
「……風見様にとっては、東京のゲートも段差の先の確認も、同じ重さなんでしょうか」
萩田は答えなかった。
答える言葉が見つからなかった。
テレビではまだ裂け目が映っていた。八百メートルの裂け目。非常事態宣言。自衛隊派遣。
あの人は、明日もここに来る。
それだけは確かだった。
第二十五話 了




