第23話 「段差の向こう側」
公園十三日目の朝、リナは十六振りまで丹田が抜けなかった。
そのうち腰が乗ったのは三振り。自分では四振り目と九振り目しかわからなかったが、晴人が「十二振り目にも入っていた」と言ったので三振りだった。
「十二振り目は意識していませんでした」
「昨日もそうでした。意識していないときの方が乗っています」
リナは頷いた。意識すると丹田が抜ける。意識しないと腰が入る。矛盾しているようで、体の仕組みとしてはそうなっていた。頭で追いかけるものではないと十三日でわかってきた。
レオンは七十本を過ぎていた。
今朝は八十本を目標にしていた。腕の重さは五日前から出なくなっている。代わりに肩の力が抜けにくくなってきた。抜こうとすると手首が先行する。手首を抑えると肩に力が入る。どちらかが消えるともう片方が出る、という段階だった。
「レオンさん」
晴人が横を向かずに言った。
「はい」
「肩を下に落とすとき、腕ごと落としてください」
「腕ごと……」
「持ち上げるのではなく、落とすだけです。枝の重さで」
レオンは試した。
枝を構えた状態から、腕ごと下に落とす。力を入れるのではなく、力を抜く方向だった。
枝が落ちた。ただ落ちただけだった。
「今の感じです」
「これは素振りですか」
「素振りの準備です」
レオンは少し黙った。素振りの準備。八十本振ってきて、まだ準備の段階だった。
ただ、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。一ヶ月前なら焦っていた。勇者職を持ったまま素振りの準備もできていないと言われたら、プライドが先に動いたはずだった。
今はそうならなかった。
理由は自分でもよくわからなかった。ただ横で晴人が千本振っている音を聞いていると、八十本の自分が焦る意味がないと感じた。
もう一度、腕ごと落とした。
枝が下りる。力を入れていない。落ちているだけ。
「そうです」
晴人が言った。
「その落ち方を覚えてください。それが丹田の入口です」
レオンはもう三回繰り返した。
三回とも同じように落ちた。何も変わっていないように見えた。ただ三回目に、少しだけ手のひらの感触が変わった気がした。枝の重さを、手のひらではなく肘の裏あたりで受けた感覚があった。
気のせいかもしれなかった。
晴人には聞かなかった。これが何かなのか何でもないのか、自分で数日かけてわかればいいと思った。
*
朝の素振りが終わった。
千本を終えた晴人が枝を下ろした。
「今日もありがとうございました」
リナが枝を地面に立てて、少し息を整えた。今朝は十六振りの間に腰が三回乗った。昨日より一回多い。
レオンが肩を回した。
「八十六本でした。明日は九十行きたいですね」
誰に言うでもなく言った。晴人は特に返事をしなかった。
*
『 レオンに新しい指示出た!!「落とす」!! 』
『 持ち上げるんじゃなくて落とす 』
『 力を抜く方が難しいやつだろ 』
『 師匠の指導体系がだんだん見えてきた 』
『 リナちゃん→丹田→腰、レオン→肩抜き→落下→丹田の入口? 』
『 順番が人によって違うんだな…… 』
『 「素振りの準備です」←これ以上の謙虚はない 』
『 元勇者が素振りの準備を習ってる絵面が毎朝の癒し 』
『 レオンが焦らなくなってるの見てるとこっちも落ち着く 』
『 [ENG] "It's preparation for practice swings" this man just told a hero-class swordsman he hasn't started yet 』
『 [ENG] and Leon just... nodded. 』
『 成長が見える配信は尊い 』
*
朝の素振りが終わってから、レオンが晴人に聞いた。
「今日もダンジョンですか」
「そうです」
「リナは行くのか」
レオンがリナに聞いた。
リナは少し考えた。
「今日は遠慮します。昨日の二振りをもう少し考えたくて」
晴人が軽く頷いた。
「では明日もよろしくお願いします」
「いってらっしゃい」
レオンが手を挙げた。不思議な光景だった。元パーティのリーダーが、元荷物持ちを送り出している。しかも行き先はソロで七階層だった。
レオンは手を下ろしてから、リナに聞いた。
「昨日の二振りって」
「七階層で戦ったんです。一振りで仕留められなくて」
「……七階層のモンスターを二振りなら十分じゃないのか」
「風見さんは一振りです」
レオンは何も言えなかった。
*
詰所に着くと、萩田が窓口にいた。
いつもと少し雰囲気が違った。デスクの上に書類が重なっていた。普段は一枚か二枚しかないはずだった。
「おはようございます」
「おはようございます。風見様、本日も七階層ですか」
「はい」
「わかりました。記録を更新します」
萩田が書類を処理した。いつもより手際が早かった。
「お気をつけて」
「ありがとうございます。今日もよろしくお願いします」
晴人が頭を下げて、地下へ向かった。
晴人が見えなくなってから、萩田は机の一番下に置いた書類を手に取った。東條からの通達だった。今朝方届いていた。
「風見様の活動が七階層以深に達した場合、以下のフォロー体制に移行すること——」
以深。
今日すでに七階層に入った。この通達に書かれている内容が適用される日は、もうすぐだった。
萩田は通達を読み終えてから、横の席にいる女性職員に声をかけた。
「本部からの通達です。内容を共有します」
女性職員が椅子ごと寄ってきた。
二人で通達を読んだ。
女性職員が一度だけ、小さく息を吐いた。
「……大ごとになってきましたね」
「ええ」
「でも、風見様は」
「変わらないでしょうね」
二人は同時に通達を見た。書類の文面は行政的な固い言葉で埋まっていたが、中身は要するに「風見晴人の安全確保を最優先にすること」という一点に集約されていた。
具体的には、七階層以深での滞在時間が三時間を超えた場合の確認手順、地上に戻った際の健康状態チェック、外部からの接触があった場合の対応方針が記されていた。
萩田は通達を閉じた。
「今日の帰りに確認事項を聞いておきます」
「はい」
女性職員が自分の席に戻った。
窓口から地下への入口が見えた。あの先で、今日も風見晴人が枝を持って歩いている。
*
六階層を通過して七階層に入った。
水の張った地面を歩く。通路の壁に岩と同化しているものが一体いた。踏み込んで一振りした。先へ進む。
分岐を右へ。上り坂を登り切って、昨日の大空間に入った。
岩体の残骸が散らばっていた。空洞の光はまだ残っていた。
晴人はメモ帳を取り出して、昨日書いた内容を確認した。分岐、左の水、右の上り坂、大岩体、空洞の光。合っていた。
今日はその先だった。
大空間の奥にある通路へ入った。昨日はここで引き返していた。
通路は狭かった。人一人が通れる幅。天井も低い。
しばらく歩くと、通路の先が下に向かって急に落ちていた。段差だった。一メートルほどの落差。
晴人は段差を見下ろした。
段差の先は別の通路になっていた。壁の色が変わっていた。七階層の灰色ではなく、暗い緑に近い色だった。
下りた。
着地した瞬間、空気が変わった。湿度が増した。六階層の冷気とも七階層の乾いた空気とも違う、重い空気だった。地面の感触も違う。岩ではなく、土に近かった。
靴の底が少し沈んだ。
天井からわずかに水が滴っていた。等間隔ではなく、ぽつりぽつりと不規則に落ちていた。
晴人はメモ帳を開いて書いた。
「段差。一メートル。壁が緑。土の地面。空気が重い」
書き終えてからポケットに戻した。
前を向いた。
通路が暗い。七階層までは壁の結晶や岩の反射で最低限の光があったが、ここは光源がほとんどなかった。スマホのライトで足元を照らした。
通路の幅は七階層より少し広い。二人並べそうだった。
三十メートルほど歩いたとき、前方から音がした。
聞いたことのない音だった。七階層の岩の摩擦音とも違う。高い音が混じっている。金属のような、あるいは何か細いものが震えているような音。
晴人は足を止めた。
音が近づいてきた。
スマホのライトを通路の奥に向けた。
何かがいた。
岩でも結晶でもなかった。
暗い緑色の表面をしていた。壁と似た色だが、動いている。四つ足。体高は晴人の腰くらい。顔に相当する部分が見えなかった。前面全体がのっぺりしている。
音はそれが出していた。体の表面が細かく振動して、金属質の音を発していた。
晴人は枝を構えた。
相手が動いた。速い。七階層のものとは明らかに違う速度だった。
晴人は半歩横にずれて躱した。通り過ぎた直後に振った。
当たった。
ただ、完全には仕留めきれなかった。
枝が通ったはずだが、相手は二つに分かれなかった。表面に裂け目が走っている。内側が見えた。光っていなかった。岩体の空洞とは違う、ただ暗い内部だった。
もう一振り必要だった。
相手が振り返ってきた。速い。
晴人は待った。間合いに入る直前に、踏み込んで振った。今度は深く入った。
相手が崩れた。地面に広がって動かなくなった。
二振り。
晴人は枝を下ろした。
しばらく断面を見た。
岩体より硬い。正確には硬いのではなく、粘りがあった。一振り目で切れなかったのは硬度ではなく、素材の性質が違ったからだと思った。
フォームに問題はなかった。丹田も腰も抜けていなかった。
それでも二振り。
晴人は少し考えた。
枝を持ち直して、もう一度構えてみた。先ほどの一振り目を頭の中で再現した。
入りが浅かった。振りの速度ではなく、角度の問題だった。
メモ帳を取り出して、二行書いた。
「緑のもの。速い。粘りがある。角度を変える必要あり」
先へ進もうとして、やめた。
今日初めて見た種類だった。特徴を確認する時間が必要だった。
もう一体いれば試したかったが、通路に気配はなかった。
明日もう一度来ればいい。
晴人は段差まで戻った。
*
『 二振り!!!師匠が二振りかかった!!!! 』
『 初めてだぞ!!師匠が一振りで仕留められなかったの!! 』
『 七階層までは全部一振りだったのに!! 』
『 画面の前で正座してる 』
『 段差の先、別の世界だろこれ 』
『 壁の色も空気も地面も全部違う 』
『 八階層入ってないか??? 』
『 入ってるだろ明らかに 』
『 緑のやつ速かった!!七階層の岩系と全然違う! 』
『 師匠が「角度を変える必要あり」ってメモに書いた 』
『 反省してる!!!師匠が反省してる!!!!! 』
『 メモ帳が百円ショップのやつだと思うと泣ける 』
『 [ENG] HE NEEDED TWO SWINGS. THIS IS THE FIRST TIME. 』
『 [ENG] the branch man has found his wall 』
『 「wall」って言い方が完璧 』
『 でも師匠の反応が「明日もう一度来ればいい」なんだよな 』
『 焦らない 絶対に焦らない 』
『 それが風見晴人 』
『 明日が楽しみすぎて今日眠れない 』
『 寝ろ!!朝の配信に備えろ!! 』
視聴者数が百三十万を超えていた。
*
地上に出ると、もう暗かった。
スマホの通知は百五十件を超えていた。全部消去した。
スーパーはもう閉まっていた。帰りが遅くなった。段差の先で少し時間を使いすぎた。
コンビニで卵と牛乳を買った。卵は十個入りで二百四十八円だった。スーパーなら百九十八円だった。五十円の差だった。
五十円の差は大きい。
明日はスーパーが開いているうちに帰る計算で行こうと思った。
家に着いてから、メモ帳を開いた。
今日の分を整理した。段差の位置。壁の色の変化。土の地面。空気の重さ。緑色の四足のもの。速度。粘りのある表面。二振り必要だったこと。角度の問題。
全部書き終えてから、冷蔵庫を開いた。
昨日買った豚こまがあった。今夜は簡単に焼くだけにした。
食べ終えてから、窓の外を見た。
静かだった。
二振りの感触が手のひらに残っていた。
一振り目の角度。入りが浅かった。公園で振るときと同じ角度で入ったが、対象の性質が変わっていた。
粘りがある。刃が通っても、向こう側に抜けるまでに抵抗がある。七階層までの岩系は乾いていて、切れた瞬間にそのまま分かれた。今日のは違った。
公園では感触を気にしなくていい。空気しかない。ダンジョンでは相手がある。相手が変われば角度も変わる。
当たり前のことだった。
ただ、こういうことを考えるのは久しぶりだった。一階層から七階層まで、一振りで困らなかった。困らなかったから考えなかった。
考える材料をもらった、と思った。
悪くないな。
晴人は電気を消して横になった。
明日も朝が早い。
*
その夜、海外のSNSで新しいタグが生まれていた。
「#TwoSwings」
「史上初めて一振りで仕留められなかった」という事実が、配信を見ていた百三十万の視聴者に衝撃を与えていた。
衝撃の理由は、一振りで仕留められなかったことではなかった。
二振り目を振った後のあの男の顔だった。
反省していた。
メモ帳を取り出して、百円のボールペンで何かを書いていた。
その顔が、朝の公園で素振りの千本目を終えた後の顔と同じだった。
同じ人間が、朝に枝を振って、夕方に未踏の階層で二振りかかって、同じ顔をしている。
それが百三十万人を黙らせた。
「#TwoSwings」は三時間でトレンド入りした。翻訳動画が十七言語で投稿された。
風見晴人は、その全てを知らなかった。
*
翌朝、公園に着いた。
いつもの場所にいつもの時間。
晴人は構えて、振り始めた。
昨日の二振りのことを考えながら、朝の一本目を振った。
第二十三話 了




