第22話 「腰を入れる」
朝の公園に来て十一日目になった。
リナは構えを取る前に一度、丹田のあたりを確認するようになっていた。ここを意識する、という感覚は十日で定着した。問題はその先だった。
晴人に次の段階を告げられた日から、リナは腰の動かし方を考え続けていた。
腰を入れる、というのは剣術の世界ではよく聞く言葉だ。TVの剣士が言う「腰で斬る」も同じことを指しているはずだった。ただ、言葉として知っていることと、実際にやることの間に、埋まらない何かがある。
昨夜も寝る前にイメージをしてみた。振り始めに肩と腕を使って、半分のところで腰が追いかけてくる感じ。頭の中ではわかる。体がついてこなかった。
それでも朝が来たので公園に来た。それだけのことだった。
空が明るくなり始めていた。晴人はすでに四百本以上を終えているはずだった。いつもそうだ。リナがどれだけ早く来ても、晴人は先にいた。
構えた。
丹田を意識する。一振り目。二振り目。
感覚はある。丹田が抜けずに十振りを続けられる。それはもうできていた。
問題は十一振り目だった。
「腰は、振りの中盤で入れます」
晴人の声が横から来た。素振りを続けたまま言っている。
「振り始めは肩と腕です。半分くらいのところで腰が追いかけてくる感じ」
「追いかけてくる……」
「引っ張るんじゃなくて、乗せる感じです。タイミングの問題なので、最初は遅くていいです」
リナはゆっくり振った。
腰を意識した瞬間、丹田が抜けた。
「……抜けました」
「そうです」
晴人の返事は相変わらず短かった。そうです、以外に言葉を足さなかった。
リナはもう一度構えた。今度は腰のことを考えないでおいた。丹田だけ。一振り。二振り。七振り目まで来たとき、晴人が言った。
「今の七振り目」
「はい」
「少し乗ってきました」
リナは自分では気づかなかった。七振り目に何が違ったのかわからなかった。
でも晴人にはわかったのだ。
そう思うと、少し立ちすくみたい気持ちになった。感情が顔に出る前に、リナは枝を持ち直して構えた。
一時間の終わり近く、リナは腰の動きを諦めて丹田だけに絞った。
十振りが来た。
十一振り。
丹田が抜けなかった。十二振り。十三振り。
枝を下ろしたのは十四振りで肩が上がったからだった。
「今の」
晴人が言った。
「はい」
「腰が、少しだけ入りました。十一振り目」
リナは十一振り目の感覚を手繰り寄せた。意識していなかったのに入っていた。それが本当のことなのか確認できなかった。
「意識していませんでした」
「それでいいです」
晴人が枝を振りながら続けた。
「最初から意識すると体が硬くなります。ある日気づいたら乗っていた、というのが正しい入り方です」
「ある日……」
「今日が、その日でした」
短い言葉だった。リナは返事ができなかった。
視線を枝に戻して、もう一度構えた。
十一振り目の感覚を探しながら、ただ振り続けた。
*
レオンは四十五本目を終えたところで、ふと気づいた。
腕が重くない。
昨日まではこのあたりで腕に疲れが出ていた。今日はまだ出ていなかった。
別に鍛えたわけではなかった。ただ四日続けただけだ。腕の筋肉が強くなったにしては早すぎる。
何かが変わったのだと思う。ただ何が変わったのか、自分にはわからなかった。
振り続けた。五十本。五十五本。
「レオンさん」
晴人が横を向かずに言った。
「はい」
「手首が少し落ち着いてきました」
レオンは返事の言葉を選んだ。
「……そうですか」
「まだ先行しますが、一割くらい減っています」
一割という言葉が不思議だった。どうやって計るのか聞こうとして、やめた。晴人にはわかるのだろう。そういうことだ。
レオンは六十本目を振った。
腕が、まだ重くなかった。
*
『 レオン四日目の変化きてる!! 』
『 手首の先行が一割減ってるって師匠どこで見てんの 』
『 マジで走査機能ついてる? 』
『 [ENG] "about 10% less" who measures sword swings in percentages 』
『 見てる側にもわかる、なんか音が変わってきた 』
『 元S級のくせに師匠に一から習ってる絵面が好きすぎる 』
『 「そうですか」って返したレオンの顔が素直でよかった 』
『 リナちゃんの七振り目、確かに何か違った 』
『 師匠以外でも気づいたの自分だけじゃないよな? 』
『 わかった。でも何がって言えない 』
『 それが素振り宗の入信 』
*
朝の素振りが終わってから、晴人は公園の出口でリナに声をかけた。
「リナさんは今日も来ますか」
リナが少し間を置いた。
「……行ってもいいですか」
「ご都合が合えば」
レオンが横から言った。
「俺は遠慮しておきます。足手まといになりそうなので」
晴人は特に否定しなかった。
「またご都合が合えば」
それだけ言ってから、スーパーへ向かった。
今日の目玉は豚こまが百グラム九十八円だった。二パック取った。
*
その日の夕方、晴人とリナは詰所で落ち合った。
晴人が先に窓口の手続きを終えて待っていた。リナが入ってきたとき、萩田は書類から顔を上げて、また下げた。
「行きましょうか」
晴人が言った。
「はい」
リナが答えた。それだけで二人は地下へ向かった。
*
六階層の通路は相変わらず冷気が強かった。
リナは以前にも六階層には入ったことがあった。ただそのときは調査目的で、戦闘はなかった。今日は晴人の後を歩きながら、壁の結晶を改めて見ていた。青白い光が壁面に密集している。
「前に来たことがあります」
リナが言った。
「そうですか」
「調査で。そのときは戦闘なしで中央まで見て引き返しました」
「今日は通り過ぎるだけです」
晴人が前を向いたまま返した。
通り過ぎる。六階層をそういう感覚で歩ける人間が自分の前にいた。
リナは少し黙ってから、もう一度口を開いた。
「風見さんは、ここを最初に通ったとき何か感じましたか」
「冷えるな、と思いました」
「それだけですか」
「装備を一枚増やした方がいいかと思いましたが、持っていなかったので諦めました」
リナは正直に言った。
「私はかなり緊張しました、調査のとき」
「そうですか」
「……緊張しませんでしたか」
晴人が少し考えるような間を置いた。
「中央の空間がきれいだな、と思いました」
リナは返事をしなかった。
前を歩く人の背中を見た。薄い上着だった。寒くないのか聞こうとして、たぶん聞いても「問題ないです」と返ってくるだけだと思って、やめた。
*
六階層の中央大空間を通り過ぎ、七階層への通路を下りた。
地面が湿っていた。足音が変わる。
「水が張っています」
「わかります」
壁の岩肌に、岩と同化した何かが二体いた。
リナが気づいたのと、晴人が踏み込んだのがほぼ同時だった。二振りで両方とも終わっていた。
リナは立ち止まった。
二体。二振り。一体ずつに一振り。余計な動きがなかった。
「……風見さん」
「はい」
「私にやらせてもらえますか。次のが出たとき」
晴人が振り向いた。何かを判断するような間があった。
「問題ないと思います」
「大丈夫そうですか」
「六階層のものより動きが遅いので」
それが答えだった。
リナは剣を抜いた。手の中で柄が馴染む感覚を確かめた。
朝の公園で持つ枝とは違う。重さがある。ただ腰から下の感覚は朝と同じにしようと思った。丹田。足の踏み込み。それだけを意識した。
*
通路を進んでいくと、左の壁にまた一体いた。
晴人が少し足を遅らせた。リナに先を譲る形になった。
リナは止まらなかった。
間合いを計りながら近づく。相手が動き始めた瞬間に踏み込んだ。
剣を振る。
当たった。しかし仕留めきれなかった。一振りでは浅かった。
追い打ちをもう一振り。今度は深く入った。相手が崩れた。
リナは剣を下ろして、息を整えた。
「二振りでした」
晴人が横から言った。
「そうですね」
少し強い返し方になった。苛立ちではなく、自分への確認だった。
「一振り目のどこが足りませんでしたか」
晴人に聞かれた。
リナは少し考えた。
「腰が……抜けていたと思います。踏み込んだとき、丹田を意識したら腰を忘れてい
ました」
「そうです」
晴人が静かに言った。
「朝の感覚をそのまま持ち込もうとしていました。方向は合っています」
方向は合っている。
リナはその言葉を受け取った。大丈夫だとも、次はうまくいくとも言っていない。ただ方向は合っている、それだけだった。それで十分だった。
*
『 リナちゃん戦ってる!!七階層で!! 』
『 二振りだったけど倒した!倒したよ!! 』
『 師匠が先を譲った!!初めて!! 』
『 「問題ないと思います」←師匠なりの信頼だろこれ 』
『 踏み込む直前のリナちゃんの顔、公園の素振りと同じ顔だった 』
『 気づいた気づいた!同じだ!! 』
『 「方向は合っています」って師匠の最高の褒め言葉では? 』
『 褒め言葉として受け取れる民だけ素振り宗に入れる 』
『 リナちゃんが「わかっています」って返したの好きすぎる 』
『 依存しすぎてない関係 』
『 [ENG] Lina's stance before the swing — that was 100% morning practice form 』
『 [ENG] she's integrating the training 』
『 泣いてる なんで泣いてるんだろ 』
『 わかる 俺も泣いてる 』
*
通路をさらに進むと、分岐に出た。
「左右に分かれています」
晴人が両方を見た。
「右へ行きます。左は昨日確認しました」
「昨日来たんですか」
「はい」
昨日もここまで来ていた。リナは今初めて知った。
右の通路は上り坂だった。地面が乾いている。壁の質感が変わった。岩の密度が増している感じがした。
上り坂を登り切ると、空間が開けた。
天井が高い。壁に沿って岩の突起が並んでいた。空間の奥に、大きなものがいた。
大きい。
リナの口から声が出そうになった。人の背丈の二倍以上ある塊が、壁に溶け込むように止まっていた。表面がわずかに動いていた。
晴人が前に出た。リナは少し下がった。
「見ていてください」
「はい」
それだけで晴人が踏み込んだ。
大きな岩体が立ち上がった。天井に届くくらいの高さになる。腕に相当する部分が複数あった。
重い。地面が振動した。それだけ大きい。
岩体が腕を薙ぎ払った。晴人は一歩下がって躱した。
腕が通過する。その直後、踏み込んだ。
振る。
音がした。鈍く重い響きだった。岩体が二つに分かれた。断面がさらされて、そのまま崩れた。地面に広がって、ただの破片になった。
静寂。
リナは動けなかった。
一振りだった。
六階層の守護体もそうだった。知ってはいた。ただ、目の前で見るのは別の話だった。
晴人が断面に近づいてしゃがんだ。何かを確認している。空洞の内側が光っていた。
「光っています」
「そうです。昨日気づきました」
触れている。手のひらを確認して、また立ち上がる。
「特に変化はないです」
「触っているんですか」
「一度確かめた方がいいと思いまして」
リナは少し言葉に詰まった。
「……怖くないんですか」
「何がですか」
晴人が振り返った。本当にわからない顔をしていた。怖いという発想がないのか、あるいは怖い理由が見当たらないのか、どちらかだとリナは思った。
*
『 大岩体出た!!! 』
『 大きさやばい画面いっぱいある 』
『 リナちゃんが下がった正しい判断 』
『 師匠「見ていてください」←リナちゃんへの授業だ 』
『 一振りで終わった……またか…… 』
『 またなの!!!! 』
『 リナちゃんが固まってる固まってる 』
『 「目の前で見るのは別の話」←全視聴者の総意 』
『 「何がですか」←師匠に怖いという概念がない 』
『 リナちゃんが一番リアルな視聴者代理キャラになってきた 』
『 「授業に連れてきてもらった生徒」が的確すぎる 』
『 [ENG] Lina is all of us watching this man work 』
『 [ENG] she had the same reaction I had the first time I saw him fight 』
『 一億再生のうち半分はリナちゃんの代わりに驚くために見てる 』
*
帰り道、六階層の通路を歩きながらリナが口を開いた。
「朝と同じフォームで戦えていましたか」
「踏み込みは同じでした」
「一振り目の何が足りませんでしたか」
晴人が少し間を置いた。
「丹田は出ていました。腰が半拍遅れていました」
「やっぱり腰ですか」
「そうです」
リナは少し考えた。
「朝の十一振り目の感覚が、戦闘中に出せれば変わりますか」
「変わります」
短い返事だった。変わります、以外に言葉を足さなかった。
リナは前を向いた。
今日の二振りは失敗ではなかった。一振りではなかっただけで、倒した。ただ、その差が何なのかは今日はっきりした。朝の感覚が戦闘で出せていなかった。
出せるようになれば変わる、と晴人は言った。
それはいつかはわからない。ある日気づいたら、という言い方を今朝聞いた。ならば今日の二振りも無駄ではなかった。
「風見さんは最初から一振りで仕留めていましたか」
「いいえ」
意外だった。
「最初は?」
「素振りが、そのまま当たった感じでした。何振りかかったかは覚えていません」
素振りがそのまま当たった。
リナはその言葉の意味を考えながら、六階層の出口まで歩いた。
地上に出た。外は暗くなっていた。
晴人がスマホを取り出した。通知が百件を超えていた。全部消去した。
「また多いですね」
リナが横から見て言った。
「迷惑メールが増えました。機種変更を考えています」
リナは何も言わなかった。
言えなかった。
*
『 「素振りがそのまま当たった」←師匠の最初の一言がこれ 』
『 最初から規格外だった…… 』
『 リナちゃんへの返答が全部宝石なんだが 』
『 「変わります」の一言の重さよ 』
『 リナちゃんが「いつかある日」を信じて帰れる構造になってる 』
『 機種変更発言に絶句するリナちゃんが視聴者代表 』
『 「言えなかった」←これ全員の気持ち 』
『 [ENG] "it just hit like a morning swing" I'm done 』
『 [ENG] he doesn't even know how wild that statement is 』
『 100万視聴者全員が今「言えなかった」 』
『 師匠、機種変えても通知消し続けると思う 』
『 絶対そう 』
視聴者数が更新された。百二十万を超えていた。
*
晴人は帰り道に百円ショップに寄った。
ダンジョンの記録を書き留めておく用に、小さいメモ帳を買った。ボールペンも一本。合わせて二百二十円だった。
家に帰ってから、メモ帳を開いて今日の分を書いた。分岐の位置、左の行き止まり、右の通路の距離、大きな岩体、空洞の光。
リナについては書かなかった。
書く必要がある内容ではなかった。
明日は豚こまを使う予定だった。冷蔵庫の残りと合わせて何を作るか、帰り道でだいたい決めていた。
*
晴人が帰り道に百円ショップに寄っている頃、別の場所ではまた別の動きがあった。
国内ニュースサイトのランキングに、見慣れない単語が入り込んでいたのは夜の十時頃だった。
「ソロ配信者が七階層踏破か——無名冒険者の映像が世界で一億再生を突破」
記事の本文には、配信者の顔は映っておらず、本名も非公開である旨が書かれていた。映像の中で冒険者が使っている武器が「木の枝のように見える」という海外メディアの指摘も紹介されていた。
冒険者ギルド日本本部の東條は、執務室でその記事を読んでいた。
記事を読み終えてから、モニターから視線を外した。
窓の外は都心の夜景だった。高層ビルの光が並んでいる。
東條は内線電話を取った。
「風見様の本日の行動記録を確認してください。七階層の進行状況を……はい。わかりました」
受話器を置いてから、東條はもう一度記事を開いた。
「一億再生」という数字を見た。
世界がこの映像を見ていた。正体を知らないまま、一億回。
東條は椅子に背を預けた。
詰所の萩田に通達を一本入れる必要があった。風見様の活動範囲が七階層に達した以上、地上側のフォロー体制を見直さなければならない。
ただそれは明日でいい。
今夜は、記事の端に貼られた映像のサムネイルをもう少し見ていた。
木の枝を持った人物が、岩を一振りで両断した瞬間が切り取られていた。
特別なポーズではなかった。踏み込みも最小限。ただ、静かだった。
東條には剣士の経験がなかった。それでも、このフォームは普通ではないとわかった。
翌朝に備えて、東條は席を立った。
*
同じ時間、地方監査室の詰所でも画面を見ている人間がいた。
萩田は手元のモニターにニュース記事を出していた。「一億再生」という数字を三回読んだ。
読んだが、実感が追いつかなかった。
数字としては知っていた。この国で一億再生というのがどれほどのことか、わかっているつもりだった。ただ、それが自分たちの詰所の管轄にいる人物の映像だということが、なかなか頭に落ちてこなかった。
横の席で女性職員がお茶を飲んでいた。
「見ましたか」
萩田が言った。
「記事は見ました」
「どう思います」
女性職員は少し考えた。
「……翌日も普通に来るんだろうな、と思いました」
萩田はそれを聞いてから、少し笑った。
「そうですね」
明日の朝、風見晴人はたぶん七時前に詰所の窓口に来る。挨拶をして、階層記録を更新して、「今日もよろしくお願いします」と言って、地下へ下りる。
それだけのことだ。
一億再生とは関係なく、明日も素振りの続きをしに来る。
萩田はモニターを閉じた。
フォロー体制の見直し資料は明朝に回して、今日は帰ることにした。
第二十二話 了




