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第21話 「三人目の朝」

 三日目の朝、レオンはまだ慣れていなかった。


 夜明け前に起きることも、公園までの道を早足で歩くことも、到着したらすでに晴人が素振りをしていることも——全部わかっていた。わかっていたのに、実際に目の当たりにするたびに「あ、本当にいるんだ」という感覚が先に来る。


 公園の入口から見ると、東側の広場にシルエットが二つあった。


 右側のシルエットが淀みなく振る。左側のシルエットがそれをじっと見てから、慎重に振る。


 レオンは少し立ち止まった。


 二人は自分のことに集中していた。話すでもなく、こちらを振り返るでもなく、ただ黙って振っている。三年間一緒にいた仲間の姿が、どこか遠く見えた。遠いのではなく、自分が遅れているだけだとわかっていた。それがかえって居心地よかった。


「おはようございます」


 晴人が振り向かずに言った。枝を振る動きは止まらない。


「……おはよう」


 レオンは荷物を置いてから、昨日と同じ場所にある太めの枝を拾った。


 リナが小さく会釈した。彼女も素振りの途中だった。七振り目だったのか八振り目だったのか、レオンには数えていなかった。


 レオンは枝を構えた。足幅が合っているかを確認して、肩の力を意識して抜いて


——抜いたと思っているだけで、たぶん抜けていないのだろうと三日でわかってきた


——ゆっくりと振り下ろす。


 空気を切る音がした。


 晴人の素振りの音とは全然違う。当たり前なのだが、並べて聞くと差が音として出ていることが少し不思議だった。


  *


 二十本を過ぎたあたりで背中に汗が出てきた。


 腕ではなく体幹で振る、というのが頭ではわかっていた。剣士として三年やってきて、それくらいの理屈は知っていた。知っていたのに、枝を持った瞬間に手が先に動く。昨日も同じことを考えて、同じように失敗した。


「手首から先が動いています」


 晴人の声が横から来た。


「わかってます……いや、わかってるつもりで、できないんですよね」


「そうです」


 短い返事だった。否定でも肯定でもない。ただそういうものだ、という感じで言った。


 晴人はもう一振り入れながら続けた。


「最初の一週間は手から覚えます。それで合ってます」


「そんなもんですか」


「そんなものです」


 レオンはもう一度振った。手首が先に行く。また同じ。


 それでも昨日よりは少しだけ、音が変わった気がした。


  *


 三十本を過ぎると、腕の重さがはっきりしてきた。


 剣の素振りなら重さには慣れている。ただ枝は軽すぎた。軽すぎるのに腕が重くなる。それがまだわからなかった。腕じゃなくて体で振れていたら軽いはずです、と昨日言われた。まだそこまで行っていなかった。


 四十本。


 レオンは一度枝を下ろして、肩をほぐした。


 晴人が横で振り続けていた。止まらない。一本一本の間隔が均等で、迷いがない。同じ動きを繰り返しているように見えて、本人にはたぶん毎回違うものが見えているのだろうと思った。


 そういう時期が剣士にもある。千本振って、一本ずつに差があると感じられるようになるかどうか、その手前にいるか向こう側にいるかで全然違う。


 晴人はたぶんそのずっと先にいた。


 レオンは枝を持ち直して、また構えた。


  *


 朝の素振りは一時間で終わる。


 終わりの合図があるわけではなかった。晴人が最後の一本を振り、枝を下ろし、

「今日もありがとうございました」と言う。それが終わりだと三日でわかった。


「リナさん」


 晴人が振り返った。


「はい」


「今日は何振りでした」


 リナが指を折って数えた。少し間があった。


「……九振りです。七振りが二回と、八振りが一回と、九振りが一回」


「最長で九振り」


「そうなります」


 晴人は少し考えるような間を置いた。


「もう少しです」


 それだけ言って、タオルで手を拭いた。


 レオンはその会話の意味がよくわかっていなかった。何かの基準があるのだろうとは思ったが、聞かなかった。聞いてもたぶん晴人は「そういうものです」と言うだけだろうと思ったからだ。


  *


 朝の公園が終わった後、晴人はスーパーに寄った。


 今日の目的は卵と豆腐と、できれば鶏むね肉が特売に入っていれば、という感じだった。先週の木曜日に確認した折り込みチラシで鶏むね肉が百グラム五十八円になっていたが、今週は広告に載っていなかった。広告に載っていない場合でも店頭で値下げになっていることがあるので、まず売り場を見てから判断する方針だった。


 卵は十個入りが一パック百九十八円だった。先月より少し高い。


 二パック取ってから鶏むね肉の棚に移動した。


 特売ではなかった。百グラム七十八円。通常価格かどうか判断しかねたので一枚だけ取った。


 豆腐は絹と木綿が並んでいた。今夜の予定は味噌汁と冷奴だったので絹を選んだ。


 レジに並んでいる間、ポケットのスマホが震えた。取り出して画面を見る。通知が積み上がっていた。


 五十件以上。


 数字が更新されるたびに増えた。


 迷惑メールの種類が増えたのかもしれない。最近、新手の業者が多いと聞いていた。レジに並びながら全部まとめて消去した。


 会計は八百四十円だった。思ったより抑えられた。


  *


 翌日の朝。


 公園に着いたとき、晴人はすでに四百本を過ぎていた。


 リナが到着したのはその後すぐ、レオンが最後だった。三日目と同じ順番。


 素振りが始まった。


 リナが四振り目に差し掛かったとき、少し何かが変わった気がした。本人が気づいたのか、枝を下ろして止まった。


「……あ」


 晴人が横を見た。


「何かありましたか」


「わかりません。何か、いつもと違う感じがして」


 晴人は少し待った。


「もう一度」


 リナが構えた。ゆっくり振る。二振り。三振り。四振り目で、また何かが変わった——ように見えた。リナの背筋がわずかに伸びたような気がした。


 五振り。六振り。七振り。


 音が変わっていた。レオンにもわかった。同じ枝を同じ速さで振っているように見

えるのに、空気を切る音の質が違う。昨日までと今日では何かが異なっていた。


 八振り。九振り。十振り。


 リナが枝を下ろした。


 しばらく誰も何も言わなかった。


 晴人が口を開いた。


「おめでとうございます」


「……届きました」


「届きました」


 晴人が静かに繰り返した。それだけだった。大げさに褒めるでもなく、次の課題を急いで出すでもなく、ただそれだけ。


 リナは枝を持ったまましばらく動かなかった。


 レオンは横から見ていた。十九歳が何かを受け取った顔をしていた。何を受け取ったのかはわからなかった。


  *


  *


 同じ朝の映像が、世界の反対側で流れていた。


『 師匠!!リナ10振り達成!! 』


『 見た??あの音の変化!明らかに違う!! 』


『 泣いてる俺おかしい? 』


『 おかしくない、みんな泣いてる 』


『 三日前は7振りだったのに……師匠の指導がすごいのかリナちゃんがすごいのか 』


『 両方だろ 』


『 風見さんの「おめでとうございます」が静かすぎて逆に刺さった 』


『 英語字幕版まだ? 』


『 「Congratulations」って静かに言うだけなのに何でこんなに重いんだ 』


『 朝5時起きが習慣になってしまった国 → コメント欄全員 』


『 [ENG] I can't believe I set an alarm for 4AM Japan time every day now 』


『 I live in Berlin and I wake up at 11PM for this 』


『 師匠の「届きました」の繰り返し、あれ反射的に出たやつだろ完全に 』


『 無自覚すぎる……好き…… 』


 配信の視聴者数は、朝の時点で九十万を超えていた。


  *


 晴人がリナに言った。


「次は腰の位置を動かします」


「腰……ですか」


「丹田を意識できるようになったら、今度は丹田を軸に腰を入れます。振りが変わります」


 リナは少し間を置いた。


「どれくらいかかりますか」


「人によります」


 それ以上の説明はなかった。人によります、というのが答えのすべてだった。


 レオンが口を挟んだ。


「俺には丹田がどこにあるのかまだわかりませんが」


「それも人によります」


 二人に同じ答えが返ってきた。


 レオンは少し笑った。前に出るわけでもなく、へこむわけでもなく、ただ少し笑っただけだった。


 晴人はもう枝を構えていた。


 リナも構えた。


 レオンも構えた。


 三人が並んで、朝の公園に素振りの音が続いた。


  *


 その日の夕方、晴人は七階層へ下りた。


 六階層の通路は相変わらず冷気が強かった。壁の結晶が青白く光っている。先日倒した四本腕の場所を通り過ぎると、中央大空間の奥に続く通路が見えた。


 通路の入口は狭かった。人一人が通れる幅で、天井も低い。壁の結晶が密度を増していて、その分だけ光が強い。


 晴人は枝を軽く持ち直して入った。


 通路が曲がっていた。左に折れると、また真っ直ぐ。さらに右に折れると、下り坂になっていた。


 坂を下りきると、空間が開けた。


 七階層は六階層とは雰囲気が違った。結晶の柱はなかった。天井も低め。壁面は灰色に近い岩肌で、ところどころ細い水脈が走っていた。地面が湿っていた。


 足音が変わった。


 晴人は少し止まって、足元を見た。水が薄く張っていた。深さは一センチあるかないか。


 進む方向を確認した。


 奥から、何かの気配がした。人の声ではなく、動物でもなく、何かが動いている音だ。軋むような、擦れるような音。


 晴人は枝を持ったまま、静かに進んだ。


  *


『 来た!七階層!新マップ! 』


『 水!地面に水張ってる!!! 』


『 結晶ゾーン終わって今度は洞窟系か 』


『 足音変わったね水踏んでる 』


『 師匠の「枝を軽く持ち直す」が好きすぎる 』


『 武器として認識してないよね明らかに 』


『 [ENG] Is he treating that branch like a warm-up stick?? 』


『 「warm-up stick」で笑った 』


『 奥から音してる…… 』


『 師匠気づいてる気づいてない? 』


『 気づいてると思う、ちゃんと立ち止まって確認した 』


『 気づいてても気にしてないだけでは?? 』


『 それが一番怖い 』


『 今夜は眠れない 』


『 いや明日の朝配信のために早く寝て 』


 視聴者数が更新された。


 百万を超えていた。


  *


 音の発生源は通路の突き当たりにいた。


 岩の壁に溶け込むように動いているものが四体。それぞれが独立して動いていたが、晴人が近づくと一斉にこちらを向いた。


 晴人は立ち止まって、少し眺めた。


 岩と同じ色をしていた。表面が荒い。動くたびに低い摩擦音がする。


 四体が同時に動き始めた。


 晴人は枝を構えた。


 最初の一体が距離を詰めてくる。動きが直線的だった。前後のフェイントがない。六階層の四本腕より単純だが、四体が同時に動いていることで、どこに軸を置くか判断が必要だった。


 右から来る一体と左から来る一体、どちらが先に間合いに入るか。


 右。


 晴人は右に半歩踏み込んで振った。


 音もなく、最初の一体が両断された。断面が乾いた岩のように見えた。


 次。


 左の一体が間合いに入る前に振った。同じく。


 残り二体が一瞬止まった。


 晴人はそのわずかな間を、フォームの確認に使った。肩が上がっていないか、丹田が抜けていないか。


 問題なかった。


 残り二体が動き出した。今度は同時ではなく、片方がやや先行した。囲い込むような動きだった。


 晴人は動じなかった。


 先行した一体が間合いに入る直前、横に一歩。それだけで先行した一体と後続の一体が縦に並んだ。


 一振りで二体。


 空間に静寂が戻った。


  *


『 え……え?? 』


『 四体同時に来たのに四振りじゃなく三振りで終わった 』


『 最後二体纏めた!!纏めた!!! 』


『 「フォームの確認してる」ヒエッ 』


『 戦闘中にフォーム確認するな普通 』


『 師匠にとっての七階層が素振り道場である件 』


『 普通にすごいのにこの人が一番気にしてないの何? 』


『 [ENG] He literally did a form check DURING the fight 』


『 [ENG] what kind of training arc is this man on 』


『 岩系モンスターの断面が綺麗すぎて画面に顔貼り付けてる 』


『 先週のクリスタル体に続いて今週は岩系か 』


『 七階層全部踏破するつもりだこの人 』


『 いや今日初日じゃん??でもそう見える 』


『 やめて視聴者の心が保たない 』


 晴人は断面をひとつ確認してから、先へ進んだ。


 水の張った地面を歩く。足音がわずかに響く。


 通路の幅が少し広がった。壁の岩肌に、先ほどのものと同じ種類のが三体いた。こちらに気づいていないのか、壁と同化するように止まっていた。


 晴人は足を止めた。


 三体の配置を確認した。左の壁に二体、右の壁に一体。間隔は不揃いだった。六階層の守護体のように連携した動きはなさそうだった。


 素振りの感覚で振るなら、左から入る。


 一歩踏み込んで、左の二体が反応する前に振った。一体目が両断され、そのまま振り抜いた軌道の延長で二体目も入った。


 右の一体が動き出した。


 晴人は枝を戻しながら右へ半歩。間合いに入ってきた一体を正面で受け、振り下ろした。


 静寂。


 断面を一瞥した。岩の断面は乾いている。七階層のものは結晶体より硬度がありそうだったが、枝への抵抗感はほとんど変わらなかった。


 晴人は先へ歩いた。


 通路がまた曲がっていた。右に折れると短い上り坂があり、その先が広い空間に出た。


 天井が高くなった。水は消えていた。代わりに地面が乾いた細かい砂になっていた。足音が吸い込まれるように静かになる。


 空間の中央に、何かあった。


 岩とは違う。動いていない。球体に近い形をしていて、表面がくすんだ光を帯びていた。


 晴人は近づいた。


 球体の直径は自分の胸くらいあった。持ち上げようとしたら重そうだった。表面に触れてみると、ひんやりしていた。六階層の結晶とは違う冷たさで、石に近い感触だった。


 しばらく眺めてから、晴人は立ち上がった。


 今日はここまでにする。スーパーの閉店時間まであまり余裕がなかった。


 奥にまだ通路が続いていたが、今日の鶏むね肉の焼き加減を考えると早めに帰った方がいい。


 晴人は来た道を戻った。


  *


『 球体!新しいオブジェクト! 』


『 触った!師匠ためらいなく触った! 』


『 冒険者なら普通調べるけど師匠の「触ってみた」が完全に公園の石と同じノリ 』


『 石の感触確認してる人の顔じゃないんだよなぁ 』


『 [ENG] He just poked it like a curious kid at a museum 』


『 帰り出した……なんで?? 』


『 スーパー???スーパーの時間??? 』


『 世界初踏破しながら閉店時間気にするな!!!! 』


『 でも師匠的には鶏むね肉の方が優先度高い 』


『 それがこの配信 』


『 次いつ来るんだろ 』


『 明日か明後日だろ。朝の素振り→スーパー→ダンジョン→スーパーのルーティン絶対崩さないから 』


『 信頼感ある 』


『 視聴者数100万超えてるのにこの男には届いてない 』


『 それも含めて好き 』


 通路はまだ続いていた。


  *


 公園への帰り道、晴人は今日の鶏むね肉のことを考えた。


 七十八円で一枚買った分を、夜に塩麹に漬けておいた。明日の夜に焼く予定だった。塩麹漬けは二日置く方が味が乗る。


 ダンジョンでの時間は一時間ほどだったと思う。スマホで確認しようとしたら通知がまた溜まっていた。


 かなりの件数だった。


 百件以上あった気がした。


 全部消去した。


 迷惑メールの種類がまた増えたようだった。業者が多い時期なのかもしれない。


 帰りにコンビニでお茶を買った。百五十円だった。


  *


 夜、冷蔵庫の鶏むね肉を確認した。


 塩麹が馴染み始めていた。明日の焼き上がりが楽しみだった。


 豆腐と卵の残りもある。週の中頃まではいける計算だった。


 窓の外は静かだった。


 リナの素振りが十振りになった。


 レオンは手首が先に出る段階から少し変わってきた。


 七階層にはまだ奥があった。


 晴人は電気を消して、横になった。


 明日も朝が早い。




第二十一話 了


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