第20話 「三人目」
月曜日。午前四時二十分。
リナは公園の入り口に立っていた。合流六日目。枝を握る手には豆ができ始めていた。
四時二十二分。南側の道から晴人が歩いてきた。いつもの地味なジャージ。右手に樫の枝。
「おはようございます」
「おはようございます、風見さん」
晴人はリュックを桜の木の根元に置いた。それからふと東側の入り口のほうを見た。
「レオンさん、来ますかね」
「来ると思います」
リナの声には確信があった。昨日のレオンの顔を見ていた。あの目は本気だった。
四時二十八分。
東側の入り口から、金髪の若い男が走ってきた。革のジャケットではなかった。グレーのスウェット。スニーカー。首にタオルを巻いている。息が上がっていた。
「すまん、遅れた」
「おはようございます、レオンさん。遅れてないですよ。まだ四時半前です」
レオンは膝に手を付いて息を整えた。顔を上げて晴人を見た。それからリナを見た。
「……おはよう」
「おはようございます」
リナの返事は短かった。レオンに対する彼女の感情は複雑だった。この男が風見晴人を追放した。そのおかげで晴人は素振りに集中し、自分はこの師に出会えた。恨みはなかった。だが親しみもまだなかった。
晴人はそんな二人の空気を気にする様子もなく、リュックから枝を一本取り出した。昨日レオンが使った枝とは別の、少し太めのものだった。
「レオンさん、昨日の枝より少し太いものを用意しました。レオンさんは手が大きいので、細い枝だと指に力が入りすぎてしまいます」
「……わざわざ用意してくれたのか」
「帰り道で拾いました」
レオンは枝を受け取った。握ってみた。確かに昨日より握りやすかった。
「ストレッチから始めましょう。レオンさんは初めてなので説明しますね」
晴人は肩甲骨のストレッチを三種類やって見せた。レオンはそれに倣った。リナも隣で同じ動きをした。
三人が並んで肩甲骨を動かしている光景が、朝の公園に現れた。
*
「では始めましょう。リナさんは百本。レオンさんは二十本から」
「二十本でいいのか」
「昨日十本で息が上がっていましたから。最初は少なめのほうがいいです」
レオンは何か言いかけたが、黙って頷いた。
晴人はドローンを飛ばし、スマホの青いところを押した。
三人が桜の木の下に並んだ。左からリナ、晴人、レオン。晴人が中央にいた。
一本目。
晴人が振った。リナが振った。レオンが振った。
三つの枝が同時に空気を切った。だが音は三つとも違った。晴人の枝は鋭く短い音を立てた。リナの枝は晴人より少し柔らかい音がした。レオンの枝は鈍く重い音がした。
レオンは二本目を振りながら、隣の晴人の動きを見た。
昨日、十メートルの距離から五振りを見た。だが一メートルの距離で隣に立って同時に振ると、見えるものが全く違った。
晴人の体は音を立てなかった。足の裏が地面を踏む音と枝が空気を切る音だけがあり、体そのものは無音で動いていた。関節が鳴らない。服が擦れない。呼吸すら聞こえない。
レオンは三本目を振った。自分の体は音だらけだった。肩が軋んだ。膝が鳴った。スウェットが擦れた。息が漏れた。
五本目。レオンは肩に力が入っていることを自覚した。昨日も同じことを言われた。肩の力を抜いて丹田を意識する。だが勇者職の三年間で鍛え上げた筋肉が、力を抜くことを拒んでいた。
十本目。
「レオンさん、一度止めましょう」
「まだ行ける」
「肩甲骨が固まり始めています。ストレッチを入れます」
レオンは枝を下ろした。言われた通りストレッチをした。肩甲骨が少し緩んだ。
「十一本目から。今度は振り下ろす時に、腰から動かすイメージで」
十一本目。腰から動かす。イメージはできた。だが体がそのイメージに従わなかった。腕が先に動いた。
十五本目。十八本目。二十本目。
「二十本です。お疲れさまでした」
レオンは枝を下ろした。額に汗が流れていた。二十本の素振りで汗をかいている。勇者職としてモンスターと三時間戦っても汗一つかかなかった男が。
リナはまだ振っていた。五十本を超えたあたりだった。彼女の動きは六日前とは明らかに違っていた。肩の力が抜け始め、丹田から力が動く瞬間が増えていた。
レオンはベンチに座ってリナの素振りを見た。
六日前。リナが百本で膝を震わせていた映像を資料室で見た。あの時、レオンはまだ画面の向こうにいた。今は同じ公園の中にいる。
リナが百本を振り終えた。
「百本です。お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
リナは息を整えながらベンチに座った。レオンの隣だった。二人は無言で水を飲んだ。
「……お前、何日目だ」
レオンがリナに聞いた。
「六日目です」
「六日目で、あれだけ変わるのか」
「まだ全然です。丹田の感覚が十振り続けば次の段階に入れると言われていますが、最長で七振りです」
レオンは黙った。六日で七振り。自分は一日目で零振り。丹田の感覚は一度も来なかった。
リナがレオンを見た。
「焦らないほうがいいですよ。風見さんも言っていました。体が覚えるまで待つしかないと」
「……ああ」
レオンは空を見上げた。東の空が明るくなっていた。
*
晴人は二人が休んでいる間に残りの九百八十本を振った。
千本を終えて深く息を吐いた。
「……悪くないな」
ドローンを回収し、スマホの青いところを押した。
「リナさん、今日はダンジョンに一緒に行きますか」
リナは頷いた。昨日は休みの日だったので行かなかったが、今日から再開だった。
「六階層まで進んでいます。通路は冷たいので上着があったほうがいいです」
「持ってきています」
晴人はレオンを見た。
「レオンさんはどうされますか」
「俺は今日は帰る。朝の二十本で十分、体にきてる」
「明日も来てくれますか」
「来る」
「お待ちしています」
レオンは立ち上がり、軽く手を振って公園を出た。背中が少しだけ丸まっていた。二十本の素振りが体に残っていた。
晴人とリナは公園を出て、駅に向かった。始発の電車に乗り、山道を登り、詰所に向かった。
*
翠嵐ダンジョン、六階層。
二人は青白い光の通路を並んで歩いていた。リナは黒いウインドブレーカーを羽織っていた。吐く息が白かった。
「冷たいですね」
「壁の結晶が冷気を出しているようです。奥に行くほど密度が上がります」
通路の先に白い人型が立っていた。結晶の体。頭部のない胴体。板のような両手。
リナの目が細くなった。彼女はA級冒険者だった。六階層の結晶兵のデータは知っていた。斬撃系の攻撃能力を持つ防衛体。A級冒険者でも単独撃破は困難とされている。
晴人は樫の枝を構えた。
「リナさん、あの造り物の腕の動きを見ていてください。胴体の回転で腕を振っています。体の中心から力を動かすという感覚の参考になると思います」
白い人型が左腕を上げた。板が横に薙がれた。切断線が壁に走った。
リナはその動きを目で追った。確かに腕単体ではなく胴体全体が回転して腕を振っていた。人間の体の動きではなかったが、力の発生源が中心にあるという原理は共通していた。
晴人が枝を振った。一振り。
白い人型の胴体が上下に分かれた。結晶の破片が散らばり、青白い光を発しながら消えた。
「今の一振りで、あの造り物と同じことをやっています。体の中心から力を動かして、枝に伝える。原理は同じです」
リナは散らばった結晶の破片を見た。A級冒険者でも単独撃破が困難な防衛体を、この人は木の枝一振りで両断した。そしてその動きの原理を「あの造り物と同じ」と説明している。
「風見さん」
「はい」
「今の一振り、朝の素振りと全く同じフォームでしたか」
「同じです。朝の素振りと同じです」
リナは頷いた。朝の公園の素振り。ダンジョンの戦闘。その二つが彼の体の中で完全に繋がっている。九日間ファミレスの二階から観察して気付いたことが、今は隣に立って直接確認できていた。
二人は通路の奥に進んだ。二体目の白い人型が現れた。晴人が一振りで両断した。三体目も同じだった。
通路の先が開けた。大きな空間が広がっていた。
天井が高かった。三十メートル以上はあった。空間全体が結晶で覆われていた。壁も床も天井も青白い結晶が密集していた。空間の中央に巨大な結晶の柱が一本立っていた。柱の高さは天井まで届いていた。柱の表面に複雑な紋様が刻まれていた。
「……きれいだな」
晴人が小さく呟いた。
リナは息を呑んだ。彼女はA級冒険者として五階層まで二回遠征したことがあった。だが六階層のこの光景は初めて見た。記録上、ここに到達した者は過去三十年で一度だけ。A級冒険者五人の合同遠征だった。
今、自分はここに立っている。木の枝を持った男の隣で。
結晶の柱の根元に、何かが蹲っていた。白い人型よりも大きかった。四メートルほどの高さ。四本の腕。胴体は太い結晶の束で構成されていた。頭部に相当する部分に、大きな青い結晶が一つ嵌め込まれていた。
それがゆっくりと立ち上がった。四本の腕が同時に動いた。
リナは反射的に剣の柄に手を掛けた。
晴人は枝を構えた。いつもの姿勢。
「リナさん、下がっていてください」
「はい」
リナは三歩下がった。
四本腕の結晶体が右上の腕を振り下ろした。衝撃波が床を走った。晴人は半歩横にずれて避けた。左上の腕が横に薙いだ。切断線が走った。晴人は身を屈めて避けた。
残りの二本の腕が同時に振り下ろされた。
晴人は枝を一回振った。
四本腕の結晶体の胴体が斜めに切れた。上半身が滑り落ちた。青い結晶が床に転がった。結晶体は動かなくなった。
「……悪くないな」
晴人は枝を軽く振って結晶の粉を落とした。
リナは三歩後ろから、その一振りを見ていた。四本の腕の同時攻撃を半歩と身屈みだけでかわし、一振りで胴体を斜めに両断した。A級冒険者五人が重傷を負って撤退した六階層の中央で、この男は「悪くないな」と呟いている。
「風見さん。あの青い結晶はお土産にどうですか」
リナの声は少し震えていた。だが笑っていた。
「そうですね。綺麗なので」
晴人は青い結晶を拾い上げた。拳ほどの大きさだった。冷たく、重かった。
「レオンさんにも一つ持って帰りましょう」
リナは小さく頷いた。
*
視聴者たちは、朝の公園と六階層の光景を全て見ていた。
『三人並んでる。レオンが来た。本当に来た』
『グレーのスウェットのレオン、なんか新鮮』
『レオン二十本で汗だく。元勇者職が二十本で汗だく』
『リナが「焦らないほうがいいですよ」ってレオンに言ってる。六日先輩が二十六歳の元勇者にアドバイスしてる構図、最高すぎる』
『六階層の映像やばい。結晶の空間、綺麗すぎる』
『結晶兵を一振りで両断してる。何回見ても慣れない』
『中央の大空間。あれ過去三十年で一回しか到達記録ないやつでは』
『A級五人で全員重傷撤退したところに木の枝で来てる』
『四本腕。でかい。やばい。リナが剣に手を掛けた』
『「リナさん、下がっていてください」。かっこいい台詞のつもりないんだろうな、この人』
『一振り。一振りで四本腕を斜め両断』
『「悪くないな」じゃないんだよ』
『リナが笑ってる。震えながら笑ってる。分かる。あの気持ち分かる』
『「レオンさんにも一つ持って帰りましょう」。お土産文化、健在』
『素振りおじさん、六階層の中央で結晶を拾ってお土産にしてる』
『師匠!』
『師匠!』
『師匠!』
視聴者数。朝の公園で四十五万人。六階層の中央の大空間に到達した瞬間に八十万人を突破した。海外の配信プラットフォームでも切り抜き動画が拡散され始めていた。英語の字幕がついた「One Swing」というタイトルの動画が、二十四時間で再生回数一千万回を超えた。
世界が、朝の公園の素振りおじさんを見つけ始めていた。
*
夕方。
晴人とリナは詰所を出て山道を下った。
詰所の女性職員は二人を見送る時、いつもより深く頭を下げた。六階層中央到達の報告を受けた時、彼女は一瞬声を失っていた。だが晴人には「お疲れさまでした」とだけ言った。萩田の指示通り、余計なことは伝えなかった。
山道を歩きながら、リナが聞いた。
「風見さん。あの四本腕の造り物を見た時、怖くなかったですか」
「怖いというより、珍しいなと思いました。四本の腕が同時に動く構造は初めて見ました」
「あの動き、参考になりましたか」
「なりました。四本の腕が胴体を中心に連動して動いていました。腕が四本あっても力の発生源は一つなんです。丹田と同じです」
リナは黙って頷いた。この人はモンスターの動きすら素振りの教材にしている。
「リナさんの丹田の感覚、もうすぐ十振り続くと思います。十振り続いたら、今日見た造り物の動きの原理を使って次の段階に入りましょう」
「はい」
二人は駅で別れた。晴人は自宅の最寄り駅で降り、リナは都心方面の電車に乗り換えた。
改札を出る時、リナは振り返った。
「風見さん。明日もよろしくお願いします」
「こちらこそ。明日も四時半に」
リナは頭を下げて歩き去った。ポケットの中に青い結晶が一つ入っていた。
*
夜。
風見晴人は自宅のテーブルの前に座っていた。素振りノートを開き、今日の欄に書き足した。
『朝の素振り。レオンさん初日。二十本。肩の力がまだ抜けない。手が大きいので太めの枝に変更。リナさん六日目。百本。丹田の感覚が安定してきた。十振り連続まであと少し。三人で並んで振るのは初めてだった。悪くなかった』
『六階層。中央の大空間に到達。結晶の柱と四本腕の大きな造り物。一振りで倒せた。四本の腕が胴体を中心に連動する構造が参考になった。力の発生源は一つ。青い結晶をリナさんとレオンさんに一つずつお土産』
三行書いた。
テーブルの上に青い結晶を置いた。自分の分の一つ。窓から入る夕日を受けて深い青に光った。
スマホが震えた。通知が五十件以上溜まっていた。
「……最近、本当に多いな。設定を変えたほうがいいのかもしれない」
彼は通知を全て消した。設定を変える方法が分からなかったので、そのままにした。
明日の朝も四時半に公園に行く。リナさんとレオンさんが来る。三人で素振り。それからダンジョンに行く。六階層の奥にまだ進んでいない通路がある。
彼は目を閉じた。
八十万人が彼の今日の一振りを見ていたことを、彼はまだ知らなかった。海外で「One Swing」という動画が一千万回再生されていることも知らなかった。
彼は明日の朝の素振りの段取りを考えながら、静かに眠りに落ちた。
第二十話 了




