第19話 「日曜日」
日曜日の朝。
風見晴人はいつも通り四時十五分に家を出た。今日は休みの日だった。ダンジョンには行かない。素振りだけ千本。それだけ済ませて、あとは家事と買い物で一日を終える。
それと、今日は九時にレオンさんと会う約束があった。
公園に着くと、リナが既にいた。合流してから五日目。彼女は毎朝四時二十分には公園に来ていた。
「おはようございます」
「おはようございます、風見さん」
リナの手には桜の枝が握られていた。初日に晴人が拾って渡した枝を、彼女は毎日持参していた。
「今日は休みの日なので、ダンジョンには行きません」
「分かりました」
「ストレッチから始めましょう」
二人は並んで肩甲骨のストレッチを五回ずつやった。五日目ともなると手順は体に馴染んでいた。
晴人はドローンを飛ばし、スマホの青いところを押した。
「では百本、始めましょう」
二人は桜の木の下に並んで立った。
*
リナの素振りは五日間で確実に変わっていた。
初日は百本で膝が震えた。二日目は立っていられたが丹田の感覚は一瞬しか来なかった。三日目は丹田の感覚が三振り続いた。四日目は五振り。昨日は八振り続いた。
今日、六日目。
リナは枝を振り上げ、振り下ろした。一本目から丹田を意識した。肩の力を抜く。おへその下に体の重さを集める。腕は添えるだけ。
七本目。丹田から力が動いた。八本目。続いた。九本目。続いた。十本目。消えた。
だが十五本目でまた来た。今度は五振り続いた。
晴人は隣で黙って振りながら、リナの動きを見ていた。
「三十本目。少し休みましょう」
「大丈夫です」
「肩甲骨のストレッチを一回だけ」
二人は枝を置き、ストレッチを三回やった。リナの右肩はもう上がらなくなっていた。
三十一本目から再開した。
五十本目。六十本目。七十本目。
七十三本目から七十九本目まで、リナの丹田の感覚が七振り連続で続いた。過去最長だった。
百本目。
リナは最後の一振りを終えて、枝を下ろした。息は上がっていたが、表情は穏やかだった。
「百本です。お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
リナはベンチに座り、水を飲んだ。
「風見さん」
「はい」
「七十三本目から七十九本目まで、七振り続きました」
「分かりました。もうすぐ十振り続くようになると思います。十振り続いたら次の段階に入れます」
「次の段階」
「丹田の感覚を維持したまま、腰の位置を動かす段階です」
リナは小さく頷いた。その段階は、彼女が九日間ファミレスの二階から観察していた、彼の腰の微妙な動きの再現だった。あの動きを自分の体でやるために、まず丹田の感覚を掴む必要があった。
「楽しみにしています」
晴人は少し笑った。
「リナさんは真面目ですね」
「風見さんほどではありません」
*
晴人はリナが休んでいる間に残りの九百本を振った。千本を終えて深く息を吐いた。
「……悪くないな」
ドローンを回収し、スマホの青いところを押した。
時計を見た。六時四十分。九時まで二時間以上あった。
「リナさん、今日は九時にこの公園で人と会う約束があるのですが、それまで時間があります」
「はい」
「朝ごはん、まだですよね。もし良かったら、うちで朝ごはんを食べませんか。卵料理くらいしか出せませんが」
リナは少し驚いた。
「いいんですか」
「素振り仲間ですから。家はこの公園から歩いて十分くらいです」
リナは頷いた。
*
晴人の自宅は、築三十年の木造アパートの二階だった。
一間のワンルーム。台所と六畳の居室。家具はテーブルと椅子が一脚、布団、本棚、小さな冷蔵庫。本棚には肩甲骨のストレッチの本と素振りノートが並んでいた。テーブルの上に透明な結晶が三つ並べてあった。
「散らかっていてすみません」
「いえ、綺麗です」
実際、部屋は綺麗だった。物が少なく、埃もなく、床は拭かれていた。
「この結晶は何ですか」
リナがテーブルの上の結晶を見た。
「ダンジョンの六階層で拾いました。お土産にと思って」
「いただいていいんですか」
「どうぞ。三つあるので、一つはリナさんに」
リナは結晶を手に取った。透明で冷たかった。青白い光はもう発していなかったが、窓から入る朝日を受けて静かに光っていた。
「ありがとうございます」
晴人は台所に立った。冷蔵庫を開けた。
「卵が六個あります。賞味期限はあと三日です。今日のうちに使い切りたいので、多めに作ります」
リナは椅子に座って晴人の背中を見た。A級冒険者として五階層の遠征に単独で入る実力を持つ男が、卵の賞味期限を気にしながら朝ごはんを作っている。
晴人はフライパンを温め、卵を二つ割り入れた。
「目玉焼きと卵焼き、どちらがいいですか」
「どちらでも」
「では両方作ります。味噌汁もあります。昨日の残りですが」
目玉焼きを二枚。卵焼きを一本。味噌汁を温め直した。ご飯は炊飯器に残っていた。
二人分の朝ごはんがテーブルに並んだ。目玉焼き、卵焼き、味噌汁、ご飯。
「いただきます」
「いただきます」
リナは目玉焼きを一口食べた。塩と胡椒だけの味付けだった。卵の味が濃かった。
「おいしいです」
「スーパーの特売の卵ですが、この店の卵は黄身が濃くて良いんです。十個入り百九十八円の日に買います」
リナは小さく笑った。
二人は静かに朝ごはんを食べた。窓の外から蝉の声が聞こえ始めていた。夏の朝の光がテーブルの上の結晶を照らしていた。
*
八時五十分。
二人は公園に戻った。
公園の東側の入り口に、三人の姿があった。
金髪の若い男性。革のジャケット。レオン。
その隣に、黒髪の若い女性。ミア。
少し後ろに、スーツ姿の男性。藤原。
レオンは晴人の姿を見つけると、真っ直ぐに歩いてきた。十メートルの距離で立ち止まった。
「……久しぶりだな」
レオンの声は静かだった。かつてのような勢いはなかった。
「お久しぶりです、レオンさん」
晴人は軽く頭を下げた。いつも通りの丁寧さだった。
レオンは晴人の隣に立つ女性を見た。リナ。テレビで見た顔だった。配信でも毎朝見ていた。
リナはレオンを見た。暁の剣のリーダー。風見晴人を追放した男。彼女はその事実を知っていた。配信のアーカイブと視聴者のコメントから全て把握していた。
一瞬、公園の空気が張り詰めた。
晴人がその空気を壊した。
「レオンさん、素振りを見たいとのことでしたね」
「ああ」
「では、少し振りますね」
晴人はリュックから樫の枝を取り出した。桜の木の下に立ち、いつもの姿勢を取った。両足を肩幅に開き、膝を僅かに曲げ、腰を落とす。枝を頭の上に掲げ、静かに振り下ろした。
一振り。
レオンの目が見開いた。
配信の映像では分からなかったものが、そこにあった。音。枝が空気を切る音。彼の足の裏が地面を踏む音。その二つが同時に鳴り、空気が一瞬だけ震えた。
二振り目。三振り目。四振り目。
レオンは動けなかった。
彼は勇者職だった。剣を握って戦場に立つことを職業にしていた。剣術の良し悪しを判断する目は持っているつもりだった。だが今、目の前で木の枝を振っている男の動きが、彼の判断の範囲を超えていた。
体全体が一本の線になっていた。足の裏から指先まで、一切の無駄がなかった。腕で振っていなかった。体の芯で振っていた。芯が動き、芯に腕が従い、腕に枝が従い、枝が空気を切っていた。
五振り目で、晴人は枝を止めた。
「こんな感じです」
レオンはしばらく声が出なかった。
隣でミアが小さく息を呑んでいた。藤原は黙って立っていた。
「……もう少し、見せてくれ」
レオンの声がかすれていた。
「はい」
晴人はまた振り始めた。六振り目。七振り目。八振り目。
十振り目で止めた。
「レオンさん、何か気になる点はありますか」
レオンは首を横に振った。気になる点ではなかった。全てが気になっていた。全てが自分の剣術と違っていた。
「風見」
レオンの口から、敬称のない名前が出た。だがその声には、かつてのような上からの響きはなかった。
「俺は、お前を追放した」
晴人は黙って聞いていた。
「絵面が地味だからっていう理由で。三年間荷物を持ってくれた人間を、そんな理由で切った」
「はい」
「すまなかった」
レオンは頭を下げた。深く、長く。
ミアも頭を下げた。藤原も頭を下げた。
晴人はしばらく三人を見てから、静かに言った。
「レオンさん、頭を上げてください」
レオンが顔を上げた。
「追放されたおかげで、毎朝の素振りに集中できるようになりました。パーティの時は遠征の準備や荷物の管理で朝の時間が取れないことがありましたから。今は毎朝千本、きっちり振れています」
レオンは黙った。
「それに、ダンジョンにも自分のペースで通えるようになりました。悪いことばかりではなかったです」
レオンは拳を握った。唇を噛んだ。
この男は怒っていない。恨んでもいない。追放されたことを「素振りに集中できるようになった」と本気で感謝している。それが分かった。それが余計にレオンの胸を突いた。
「……ありがとう」
レオンは小さく言った。
晴人は少し首を傾げた。
「ありがとう、というのは」
「いや、その。分からない。ただ、ありがとうと言いたかった」
晴人は少し考えてから頷いた。
「レオンさんも、素振りをやってみますか」
「え」
「せっかく来ていただいたので。木の枝なら、そこの桜の木の下に落ちていますよ」
レオンはしばらく晴人の顔を見つめた。それから桜の木の下に歩いていき、枝を一本拾った。
「これでいいのか」
「それで大丈夫です。まず肩の力を抜いて、丹田を意識してください。おへその下あたりです」
レオンは枝を握った。構えた。振り下ろした。
腕で振っていた。完全に腕で振っていた。勇者職の三年間で鍛え上げた腕力が、体の芯を通すことを邪魔していた。
「肩に力が入っています」
「……分かってるんだが、抜けない」
「最初はそうです。私も最初の一年は肩で振っていました」
リナが横で小さく頷いた。五日前に自分が言われたのと同じ言葉だった。
レオンは枝を十本振った。十本全て腕で振った。丹田の感覚は一度も来なかった。
「難しいな」
「続ければ必ず来ます」
レオンは枝を下ろした。額に汗が滲んでいた。たった十本で息が上がっている自分が信じられなかった。
ミアが後ろから声を掛けた。
「あたしもやっていい?」
「もちろんです。枝はそこに」
ミアも枝を拾い、見よう見まねで振った。三本で腕が痛くなった。
「無理。これ普通の素振りじゃない」
「体の芯で振る素振りですから、最初は体が慣れるまで時間がかかります」
藤原は少し離れた場所に立って、その光景を見ていた。かつてのパーティのリーダーと援護担当が、追放した元荷物持ちに木の枝で素振りを教わっている。
藤原はポケットから封筒を取り出した。
「風見さん、少しよろしいですか」
「はい、藤原さん」
「追放月の未精算分の経費精算です。遅くなって申し訳ございません」
晴人は封筒を受け取った。
「ありがとうございます。確認します」
「それと、ご報告があります。暁の剣は先日付で正式に解散いたしました」
晴人は少し驚いた顔をした。
「解散、ですか」
「はい。メンバー全員の合意の上での解散です」
晴人は封筒を丁寧にリュックにしまった。それからレオンを見た。レオンは桜の木の下で枝を握ったまま立っていた。
「レオンさん」
「何だ」
「解散されたんですね」
「ああ」
「これからどうされるんですか」
レオンは枝を見た。自分の手の中にある桜の枝を。
「……分からない。まだ決めてない。ただ、素振りは続けてみようと思う」
晴人は頷いた。
「良かったら、朝の公園に来てください。四時半からです」
レオンは顔を上げた。
「いいのか」
「素振り仲間は多いほうが楽しいですから」
リナが横で小さく笑った。素振り仲間。またその言葉だった。
レオンは少し黙ってから頷いた。
「……行く。明日から行く」
「お待ちしています」
*
視聴者たちは、朝九時からの光景を全て見ていた。
晴人は千本の素振りの後にドローンを回収してスマホの青いところを押していた。だがドローンのバッテリーが残っていた。スマホの画面で彼は「停止」の文字を確認したつもりだったが、指が隣の「一時停止」に触れていた。配信は継続していた。
『待って、配信止まってない』
『バッテリー残ってる。ドローン動いてる』
『人が来た。三人来た』
『金髪。革ジャン。まさか』
『レオンだ』
『レオン来た。暁の剣のレオンが公園に来た』
『追放した本人が来たのか』
『うわ、空気が』
『リナの目が怖い』
『風見さん、普通に「素振りを見たいとのことでしたね」って切り出した。さすが』
コメント欄が凄まじい速度で流れていた。
『五振り見せた。レオンが固まってる』
『そりゃ固まるわ。あの素振りを目の前で見たら誰でも固まる』
『レオンが謝った。頭下げた』
『ミアも藤原も頭下げてる』
『「追放されたおかげで毎朝の素振りに集中できるようになりました」』
『泣いた。おじさんに泣かされた』
『あの人は本気で言ってる。本気で感謝してる。追放されたことに』
『聖人か?』
『聖人じゃない。素振り人だ』
『レオンに素振りを教え始めた。追放した相手に素振りを教えてる』
『「肩の力を抜いて、丹田を意識してください」。また出た』
『レオンが十本で息上がってる』
『ミアが三本でギブ』
『全員、木の枝に負けてる』
『「素振り仲間は多いほうが楽しいですから」』
『名台詞。今日の名台詞。今月の名台詞。今年の名台詞』
『素振り宗、入信者が公園で増えていく』
『師匠!』
『師匠!』
『師匠!』
視聴者数。配信が止まっていなかったことに視聴者が気付いた時点で四十二万人。レオンが頭を下げた瞬間に六十万人を突破した。
風見晴人はそのことを知らなかった。彼は公園のベンチに座り、帰り際のレオンに手を振りながら、今日の夕飯の献立を考えていた。卵が二つ残っている。明日が賞味期限だから、今日の夕飯で使い切ろう。
第十九話 了




