第18話 「解散」
暁の剣の事務所は、渋谷の雑居ビルの四階にあった。
かつてはこのフロア全体が暁の剣の活動拠点だった。撮影スタジオ。編集室。衣装部屋。会議室。スタッフの控室。登録者百五十万人のチャンネルを運営するための設備が一通り揃っていた。
今はその大半が使われていなかった。配信活動を停止してから二週間。編集室のモニターは電源が落ちたまま埃を被り、衣装部屋のドアには鍵が掛かっていた。
会議室のテーブルに、四人が座っていた。
レオン。カイ。リラ。ミア。
暁の剣の全メンバーだった。
テーブルの端に、藤原が座っていた。マネージャーとして、彼は書類を一部ずつ四人の前に配っていた。
*
藤原が口を開いた。
「パーティ解散届の書類です。冒険者ギルドへの届出と、事務所との契約解除の二種類があります。内容を確認して、問題なければ署名をお願いします」
四人は黙って書類に目を落とした。
カイが最初に顔を上げた。大柄な体を椅子に沈めたまま、藤原を見た。
「藤原さん。事務所との契約解除ってことは、この部屋ももう使えなくなるのか」
「月末までは使用できます。それ以降は原状回復の上で明け渡しになります」
「原状回復って、何をすればいい」
「備品の撤去と清掃です。撮影機材は事務所の所有物ですので返却していただきます。個人の私物は各自で搬出をお願いします」
カイは頷いた。それ以上は何も聞かなかった。
リラがゆっくりと書類をめくっていた。僧侶職らしい丁寧な手つきで、一枚ずつ読んでいた。
「藤原さん。解散届を出した後、個人で冒険者活動を続けることはできますか」
「可能です。パーティの解散は個人の冒険者登録には影響しません。ソロでの活動も、新しいパーティの結成も自由です」
リラは小さく頷いた。
ミアは書類を読んでいなかった。テーブルの上に置いたまま、窓の外を見ていた。渋谷の雑踏が四階の窓越しに見えた。
「ミア」
レオンが声を掛けた。ミアが振り向いた。
「書類、読んだか」
「読んでない」
「読め」
「内容は分かってる。署名すればいいんでしょ」
ミアはペンを取り、書類の最後のページを開いた。署名欄に名前を書いた。日付を書いた。書き終えてペンを置いた。
カイがそれを見て、自分も書類の最後のページを開いた。署名した。
リラは最後まで読んでから署名した。
三人の書類が藤原の前に戻された。
レオンはまだ署名していなかった。
*
レオンは書類の一枚目を見ていた。
『パーティ解散届』
冒険者ギルドの正式な書式だった。パーティ名。結成日。メンバー名。解散理由。
解散理由の欄は空白だった。
「藤原。解散理由は何て書けばいい」
「任意記入です。空欄でも受理されます」
レオンはペンを取った。解散理由の欄に何かを書こうとした。ペンの先が紙の上で止まった。
彼は三年前のことを思い出していた。このパーティを結成した日のことを。二十三歳だった。勇者職のスキルを手に入れたばかりで、自分が世界を変えると本気で信じていた。配信を始めたのもその頃だった。カメラの前で剣を振り、モンスターを倒し、視聴者を熱狂させた。登録者が十万人を超えた日、カイとリラとミアと四人で祝杯を上げた。
荷物持ちが必要だと言ったのはカイだった。長期の遠征には荷物持ちがいたほうがいいと。ギルドの掲示板に募集を出した。応募してきたのが風見晴人だった。三十歳。職歴なし。スキルなし。履歴書の特技欄に「素振り」と書いてあった。面接でレオンは笑った。だが他に応募者がいなかったので採用した。
三年間、風見晴人は荷物を持った。重い装備を背負い、食料を管理し、遠征の経費を精算し、テントを張り、撤収した。文句を言わなかった。給与は最低額だった。それでも毎朝四時に起きて公園で素振りをしていた。
レオンはそれを知らなかった。三年間、同じパーティにいて、荷物持ちが毎朝素振りをしていることを知らなかった。
追放したのは半月前だった。「絵面が地味だから」。その一言で、三年間の荷物持ちを切った。
レオンはペンを紙の上に戻した。解散理由の欄に一行書いた。
『リーダーの判断力の不足』
それから署名欄に名前を書き、日付を書いた。書類を藤原に渡した。
藤原は解散理由の欄を一瞬見た。表情は変えなかった。四人分の書類を揃え、クリアファイルに入れた。
「本日付でギルドに届出いたします。受理まで三営業日ほどかかります」
四人は黙って頷いた。
*
藤原が退室した後、四人は会議室に残った。
しばらく誰も口を開かなかった。
カイが最初に立ち上がった。
「俺は、少し休んでから次を考える。ソロで中級ダンジョンを回るかもしれない」
「カイ」
レオンが呼び止めた。カイが振り向いた。
「すまなかった」
カイは少し黙ってから首を横に振った。
「謝るなよ。俺だって荷物持ちを切ることに反対しなかった。同罪だ」
カイはそう言って会議室を出た。
リラが立ち上がった。
「私は実家に戻ります。少し考える時間が欲しいので。レオンさん、お体に気を付けて」
「リラ。お前もすまなかった」
「いいえ。三年間、楽しかったです」
リラは深く頭を下げて退室した。
ミアが残っていた。窓の外を見たまま椅子に座っていた。
「ミア」
「何」
「お前は、これからどうする」
「知らない。まだ決めてない」
ミアは椅子から立ち上がった。レオンの顔を見た。
「レオン。あんた、日曜日に風見さんに会うんでしょ」
「ああ」
「何を話すつもり」
「分からない」
「分からないのに会うの」
「会って、素振りを見せてもらう。それだけ頼んだ」
ミアはしばらくレオンの顔を見つめた。
「あんたさ、この二週間ずっと資料室に籠って配信見てたでしょ」
「ああ」
「何か分かった?」
レオンは少し考えた。
「分かったことが一つある。あの人の素振りは、俺が三年間隣にいて一度も見なかったものだった。毎朝四時に起きて公園で千本振っていた。三年間。俺はそれを知らなかった」
「知ってたら、追放しなかった?」
「分からない。でも、知らなかったことが問題なんだ。隣にいたのに見ていなかった。それがリーダーの判断力の不足だ」
ミアは小さく息を吐いた。
「あんた、変わったね」
「変わったか」
「二週間前のレオンなら、そんなこと言わなかった」
ミアはドアに向かって歩いた。ドアの前で立ち止まり、振り返った。
「日曜日、あたしも行っていい?」
「来たいのか」
「風見さんの素振り、あたしも見たい。配信じゃなくて、実物を」
レオンは少し驚いた。だが頷いた。
「来たいなら来い」
「じゃあ行く」
ミアはドアを開けた。開けたまま少し立ち止まった。
「レオン」
「何だ」
「風見さんに会ったら、ちゃんと謝りなよ。あんただけじゃなくて、あたしたち全員の分」
レオンは黙って頷いた。
ミアは会議室を出た。廊下を歩く足音が遠ざかり、エレベーターの扉が開く音がして、閉まる音がした。
*
レオンは一人、会議室に残った。
テーブルの上には何もなかった。書類は藤原が持っていった。ペンはミアが片付けた。空のテーブルと、椅子が五つ。
彼は立ち上がり、窓際に歩いた。渋谷の街が夕暮れの光に染まっていた。
三年間。このビルの四階から、彼は世界を見ていた。カメラの向こうの視聴者に向かって剣を振り、笑い、叫んだ。登録者は百五十万人に達した。テレビに出た。雑誌の表紙を飾った。自分が世界の中心にいると思っていた。
だが世界の中心は、朝四時の公園にあった。
地味なジャージの猫背の男が、木の枝を振っていた。誰にも見られていないと思いながら。毎朝千本。十五年間。その男の一振りが通路の壁を切り、モンスターを両断し、ダンジョンの構造そのものを書き換えていた。
レオンは窓に映った自分の顔を見た。金髪。革のジャケット。二十六歳。勇者職。
勇者という肩書きが、今は重かった。
彼は資料室に戻った。モニターの電源を入れた。今朝の配信のアーカイブを再生した。
画面の中で、風見晴人が公園の桜の木の下に立っていた。隣にリナが立っていた。二人が並んで木の枝を振っていた。
レオンはその映像をじっと見た。
リナの七本目の素振り。枝の軌道が一瞬だけ変わった瞬間。晴人が「七本目、良かったです」と静かに言った瞬間。リナが百本目を振り終えて「師匠」と呟いた瞬間。
レオンは映像を巻き戻し、もう一度再生した。
「七本目、良かったです」
その一言の中に、レオンは自分が三年間持てなかったものを見た。隣にいる人間の動きを、一振りの単位で見る目。変化に気付き、静かに伝える言葉。追い込むのではなく、待つ姿勢。
レオンは映像を止めた。
日曜日。朝九時。公園。
あと五日だった。
彼は何を話すべきか、まだ分からなかった。謝るべきなのか。教えを請うべきなのか。ただ素振りを見せてもらうだけでいいのか。
分からなかった。だが会いに行くことだけは決めていた。
レオンはモニターの電源を切った。会議室の照明を消した。事務所の鍵を閉めた。エレベーターで一階に降り、渋谷の雑踏の中に出た。
夕暮れの空が赤かった。
彼は駅に向かって歩いた。人混みの中で、彼の顔に気付く人間は一人もいなかった。二週間前なら声を掛けられた。写真を求められた。サインをねだられた。だが今は誰も彼を見なかった。
暁の剣のレオンは、渋谷の雑踏の中で、ただの二十六歳の男に戻っていた。
駅の改札を通り、ホームに立った。電車を待つ間、スマホを開いた。SNSのトレンドに「師匠」「リナ」「素振りおじさん」の三つが並んでいた。
今朝の配信の切り抜き。リナが「師匠」と呟く三十秒の映像。再生回数は既に五百万回を超えていた。
レオンはその映像を再生しなかった。朝、資料室で既に何度も見ていた。
電車が来た。乗り込んだ。吊革を握った。車内の液晶モニターにニュースが流れていた。『国内最年少A級冒険者のリナさん、特別冒険者の風見晴人さんに師事か』。
レオンは目を逸らした。
三年前、風見晴人を採用した日のことを思い出した。面接で「特技は素振りです」と答えた男。レオンは笑った。他のメンバーも笑った。だが風見晴人は笑わなかった。真顔で「毎朝千本振っています」と言った。レオンは「へえ」と言っただけだった。
今、その男にA級冒険者が師事している。
電車の窓に映った自分の顔を、レオンはしばらく見つめた。
*
同じ日の夜。
藤原は自宅のデスクで、冒険者ギルドへの届出書類を最終確認していた。
四人分の署名が揃った解散届。パーティ名「暁の剣」。結成日。メンバー名。解散理由。
レオンが書いた一行が目に入った。
『リーダーの判断力の不足』
藤原は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
彼はマネージャーとして三年間、暁の剣に携わっていた。スケジュール管理。スポンサー対応。遠征の手配。経費の精算。その経費精算で、風見晴人と一番多く言葉を交わしたのは藤原だった。
風見晴人は経費の書類を完璧に仕上げてきた。一円の誤差もなかった。領収書の貼り方も丁寧だった。藤原はその几帳面さに何度か感謝の言葉を述べた。「風見さん、細かい整理は本当に助かります」。風見晴人は「いえ、当然のことです」と答えた。
追放の日、藤原はレオンに反対しなかった。マネージャーとして、配信の画面構成の問題は理解していた。荷物持ちの映り込みが視聴者のコメントで指摘されていたことも知っていた。だが反対しなかった理由は、それだけではなかった。
藤原は、風見晴人のことをよく知らなかった。三年間、経費精算の書類を通じて言葉を交わし、遠征の手配で連絡を取り合い、それでもなお、風見晴人という人間のことをよく知らなかった。毎朝四時に起きて素振りをしていることを知らなかった。知ろうとしなかった。
レオンが書いた「リーダーの判断力の不足」は、藤原にもそのまま当てはまった。
藤原は書類をクリアファイルに戻した。明日、ギルドの窓口に届出する。三営業日で受理される。受理された時点で暁の剣は正式に消滅する。
デスクの引き出しを開けた。古い経費精算の書類が一束残っていた。風見晴人が提出した最後の月の精算書類だった。追放の日に精算が完了しないまま残っていたものを、藤原が引き取っていた。
領収書の貼り方が丁寧だった。日付順に並べられ、一枚ずつ台紙に糊で固定されていた。金額の記入は全て黒のボールペンで、数字の書き方に迷いがなかった。合計額の計算も一円の誤差もなかった。
三年間、こういう書類を毎月受け取っていた。毎月、同じ丁寧さだった。藤原はその丁寧さの裏側にある人間のことを、見ようとしなかった。
彼はその書類を引き出しに戻した。日曜日に風見晴人と会った時、この精算書類の件も伝えなければならなかった。追放月の未精算分の支払いが残っている。金額としては僅かだが、きちんと清算するべきだった。
日曜日。朝九時。公園。レオンと風見晴人の面会。藤原もその場に立ち会う予定だった。マネージャーとしての最後の仕事になる。
彼は眼鏡を掛け直し、デスクの照明を消した。
*
同じ日の夜。
風見晴人は自宅の布団の中にいた。
今日はダンジョンの六階層で白い造り物を三体見つけた。三体とも一振りで倒せた。通路の奥に進むと、青白い光が徐々に濃くなり、空気が更に冷たくなった。結晶の密度が上がっていた。通路の先に大きな空間がある気配を感じたが、今日はそこまでにした。明日また進む。
結晶をポケットに入れて持ち帰った。全部で三つ。一つは昨日のもの。二つは今日のもの。三つともテーブルの上に並べてある。明日の朝、リナさんに渡そう。
彼は目を閉じた。
明日の朝のことを考えた。ストレッチ。百本。リナさんの肩の力の抜き方。丹田の意識。今日のダンジョンで見た白い造り物の動き、胴体の回転で腕を振る動作を伝えてみよう。体の中心から力を動かすという感覚の参考になるかもしれない。
それから日曜日のことを少し考えた。レオンさんと会う約束をしていた。素振りを見せてほしいと藤原さんから聞いた。素振りを見せるだけなら難しいことではない。いつも通り振ればいい。
彼はそこまで考えて、眠りに落ちた。
暁の剣が今日、正式に解散したことを、彼はまだ知らなかった。
第十八話 了




