↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/31

第17話 「師匠」

 午前四時二十分。


 リナは公園の入り口に立っていた。昨日より五分早い。


 右手を開いた。閉じた。掌に桜の枝の感触がまだ残っている気がした。昨夜、自宅で百本振った。百本の全てが腕で振る素振りだった。丹田の意識は一度も掴めなかった。


 だが朝の公園では違った。隣に彼がいると、彼の呼吸のリズムが聞こえた。彼の足の裏が地面を踏む音が聞こえた。その音に体を合わせようとする何かが、自分の中にあった。


 今日はそれをもう少し深く探りたかった。


 四時二十六分。


 南側の道から、地味なジャージの男性が歩いてきた。右手に樫の枝。左手にリュック。今日はリュックの上にドローンの他に、薄い本が一冊挟まっていた。



   *



「おはようございます」


「おはようございます、リナさん。今日は少し早いですね」


「少しだけ」


 晴人はリュックを桜の木の根元に置いた。リュックから薄い本を取り出した。


「リナさん、素振りの前にストレッチをしましょう」


「ストレッチですか」


「昨日、肩が攣りそうになっていたので。肩甲骨のストレッチを少し入れてから始めたほうがいいと思います」


 彼は本を開いた。肩甲骨のストレッチの図解が並んでいた。一昨日、街の書店で買った本だった。


「この動きを、まず五回ずつ」


 晴人は本の図を見ながら、両腕を背中の後ろで組み、肩甲骨を寄せる動作をやって見せた。リナはそれに倣った。


 肩甲骨が動いた。昨日の素振りで固まっていた筋肉が少しずつ緩んだ。


「次はこれ」


 腕を前に伸ばし、背中を丸めて肩甲骨を開く動作。それから腕を頭の上に伸ばして左右に傾ける動作。三種類のストレッチを五回ずつ。


「肩、どうですか」


「軽くなりました」


「では、始めましょう」


 晴人はドローンを飛ばし、スマホの青いところを押した。リナは昨日と同じ桜の枝を握った。公園に来る途中、自宅から持ってきていた。


 二人は桜の木の下に並んで立った。



   *



 一本目。


 リナは枝を頭の上に掲げた。肩の力を抜く。丹田を意識する。振り下ろす。


 腕で振っていた。


 二本目。三本目。四本目。


 昨日と同じだった。肩の力を抜こうとすると丹田の意識が散り、丹田を意識すると肩が勝手に緊張する。三年間の剣術の回路が体の中で抵抗していた。


 だが五本目で、彼女は隣の晴人の呼吸に耳を傾けた。


 吸う。止まる。振り下ろしながら吐く。


 そのリズムに自分の呼吸を重ねた。六本目。七本目。


 七本目で何かが変わった。


 変化は微かだった。肩の力が完全に抜けたわけではなかった。だが振り下ろす瞬間、腕ではなく体の中心から力が動いた感覚があった。ほんの一瞬だった。次の八本目では消えていた。


 リナは黙って振り続けた。あの一瞬を再現しようとした。だが意識して再現しようとすると消えた。九本目。十本目。十一本目。消えたまま戻らなかった。


「リナさん」


「はい」


「七本目、良かったです」


 リナは彼の横顔を見た。彼は前を向いたまま枝を振り続けていた。


 七本目。彼はあの一瞬を見ていた。自分でも掴みきれなかったあの一瞬を、隣で振りながら見抜いていた。


「ありがとうございます」


「意識しないほうがいいです。体が覚えるまで待つしかない」


 リナは頷いた。意識しないほうがいい。意識すると消える。体が覚えるまで待つ。


 十二。彼はそうやって十二間待ち続けてきたのだろう。



   *



 三十本目。リナの呼吸が乱れ始めた。だが昨日よりも乱れは穏やかだった。ストレッチの効果もあったが、それだけではなかった。体が昨日の百本を覚えていた。新しい回路に対する抵抗が、ほんの少しだけ弱まっていた。


 五十本目。晴人が枝を止めた。


「少し休みましょう」


「まだ大丈夫です」


「肩を確認させてください」


 晴人はリナの右肩のあたりを目で見た。触れはしなかった。


「右肩が少し上がっています。力が入ってきています」


 リナは自分の右肩を意識した。確かに上がっていた。


「肩甲骨のストレッチをもう一度やりましょう。五回だけ」


 二人は枝を置き、先ほどのストレッチを五回やった。リナの右肩が下がった。


「では続けましょう」


 五十一本目から再開した。



   *



 七十本目あたりで、リナの体にもう一度あの感覚が来た。


 振り下ろす瞬間、腕ではなく体の中心から力が動く感覚。今度は一瞬ではなかった。二振り続いた。七十本目と七十一本目。


 七十二本目で消えた。


 リナは黙って振り続けた。意識しない。体が覚えるまで待つ。彼がそう言った。


 八十本。九十本。


 九十五本目で、もう一度来た。一振りだけ。すぐ消えた。


 百本目。


 リナは最後の一振りを終えて、枝を下ろした。昨日のように膝に手を付くことはなかった。息は上がっていたが、立っていられた。


「百本です。お疲れさまでした」


「ありがとうございました」


 リナは深く息を吸い、吐いた。


 昨日は百本で膝が震えた。今日は立っていられた。たった一日で体が変わり始めていた。そして七本目と七十本目と九十五本目に、あの感覚が来た。丹田から力が動く感覚。まだ掴めない。まだ自分のものにはなっていない。だが来た。


「風見さん」


「はい」


「七本目と七十本目と九十五本目に、体の中心から力が動く感覚がありました。あれが丹田の感覚ですか」


 晴人は少し考えた。


「たぶん、そうだと思います。私もそういう感覚から始まりました。最初は消えます。何日か経つと、消えなくなる日が来ます」


「何日くらいですか」


「私の場合は、三ヶ月くらいでした」


「三ヶ月」


「でも、リナさんは私より体の使い方が上手いので、もっと早いかもしれません」


 リナはその言葉を噛み締めた。三ヶ月。彼がそう言うなら、自分は一ヶ月で掴む。そう心の中で決めた。


「風見さん」


「はい」


「明日もお願いします」


「もちろんです」


 リナは頭を下げた。昨日よりも自然に、だが昨日と同じくらい深く。


「ありがとうございます」


 その言葉の後、リナの口から別の言葉が漏れた。


「……師匠」


 小さな声だった。独り言のような声だった。だが公園の朝の静けさの中で、その二文字ははっきりと聞こえた。


 晴人は少し驚いた顔をした。


「師匠、ですか」


 リナは顔を上げた。自分が何を言ったか一瞬遅れて理解した。頬が僅かに赤くなった。


「すみません。つい」


「いえ、その。私は師匠というほどのことは」


「いえ、本当に師匠です。私は弟子にしていただきたいと思っています」


 晴人はしばらく黙った。それから少し困ったように首を傾げた。


「弟子、ですか。私は誰かに教えた経験がないので、弟子というのは少し」


「では今まで通り素振り仲間で」


「はい、素振り仲間で」


 リナは小さく頷いた。だが彼女の中では「素振り仲間」という言葉は既に意味を失っていた。この人は師匠だ。それは揺るがない。口に出すかどうかは別として。



   *



 晴人はリナが休んでいる間に残りの九百本を振った。


 リナはベンチに座って水を飲みながら彼の素振りを見ていた。今日は枝の軌道だけでなく、彼の呼吸のタイミングを意識して観察した。吸う。止まる。振り下ろしながら吐く。その三拍子が千本の間、一度も乱れなかった。


 千本目を振り終えた後、晴人は深く息を吐いた。


「……悪くないな」


 いつもの独り言。


 彼はドローンを回収し、スマホの青いところを押した。リュックを背負い、リナに軽く手を振った。


「では、行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 晴人は公園を出て駅に向かった。今日は六階層に降りるつもりだった。昨日確認した降り口。青白い光。何がいるかまだ分からない。だがいつも通り、行ってみてそこで判断する。


 リナは彼の背中を見送った後、ベンチに座ったまましばらく動かなかった。


 右手を開いた。掌の中に桜の枝の感触があった。七本目の感覚を思い出そうとした。腕ではなく体の中心から力が動いた、あの一瞬。思い出そうとすると消える。意識しないほうがいい。体が覚えるまで待つ。


 彼女は枝を握り直して立ち上がった。家に帰って、もう百本振る。



   *



 視聴者たちは、二日目の朝の光景を全て見ていた。


『二日目来た。リナ来た』


『今日もいる。本物だ』


『ストレッチから始めてる。本から教えてる。本、書店で買ったやつだ』


『素振りおじさん、A級冒険者にストレッチを本で教えてる』


『七本目。今の見た?』


『見た。リナの枝の軌道が一瞬だけ変わった』


『「七本目、良かったです」って即座に見抜いてる』


『隣で振りながら弟子の動きを見てるのか。何者なんだ』


『五十本で止めた。肩の確認してる。触ってない。目で見て「右肩が少し上がっています」って。精度おかしい』


『七十本目。また来た。今度は二振り続いた』


『リナが変わり始めてる。二日目で変わり始めてる』


『おいおいおいおい』


『百本終わった。今日は膝震えてない。二日目で立ってる』


『A級冒険者の適応力やばい』


『適応力だけじゃない。教え方がやばい』


 コメント欄が一瞬止まった。


『待って。今なんて言った?』


『聞こえた。リナが言った。「師匠」って言った』


『師匠!!!!!!!!!!!!!』


『リナが師匠って呼んだ』


『A級冒険者のリナが、素振りおじさんを、師匠って呼んだ』


『本人は「素振り仲間で」って返してる』


『そこがいい。そこが最高にいい』


『名場面更新。「師匠」「弟子、ですか。私は誰かに教えた経験がないので」「では今まで通り素振り仲間で」』


『素振り仲間じゃない。絶対に素振り仲間じゃない』


『涙出てきた』


『素振り宗、開祖に弟子ができた日』


『師匠!』


『師匠!』


『師匠!』


 視聴者数。朝四時半の時点で十五万人。「師匠」の一言が出た瞬間に三十万人を突破した。



   *



 昼過ぎ。


 SNS上で、ある動画が爆発的に拡散されていた。


 朝の配信の切り抜き。リナが百本目を振り終え「師匠」と呟き、晴人が「弟子、ですか。私は誰かに教えた経験がないので」と答える三十秒の映像。


 切り抜き動画の再生回数は昼の時点で四百万回を超えていた。


 テレビの情報番組が反応した。


『速報。国内最年少A級冒険者のリナさん、三ヶ月の活動休止の理由が判明か。朝の公園で特別冒険者の風見晴人さんに師事している姿が配信で確認されました』


 リナの所属事務所に問い合わせが殺到した。事務所は「本人の意思による自主的な活動であり、事務所としては把握しておりません」とだけ回答した。


 リナのSNSアカウントのフォロワーが三ヶ月ぶりに急増した。一日で二十万人増えた。だがリナは何も投稿しなかった。彼女は自宅で桜の枝を振っていた。


 晴人の朝の配信の登録者数がこの日、五十万人を超えた。彼はそのことを知らなかった。彼はダンジョンの六階層にいた。



   *



 翠嵐ダンジョン、六階層。


 階段を降りた先は、青白い光に満ちた通路だった。五階層の金色の光とは全く違う色合いだった。空気が冷たかった。壁の表面に細かい結晶のようなものが付着していた。


 晴人は通路の入り口で立ち止まり、深く息を吸った。冷たい空気が肺に入った。吐いた。白い息が出た。


「……寒いな」


 彼は歩き始めた。樫の枝を右手に持ち、左手でリュックの紐を握った。ドローンが頭上を飛んでいた。


 通路は直線だった。幅は五メートルほど。天井は高い。壁の結晶が青白い光を発していた。その光が通路全体を照らしていた。


 五十メートルほど進んだところで、通路の先に何かが立っていた。


 白い。人型。二メートルほどの背丈。全身が結晶のような素材で覆われていた。頭部はなかった。胴体の上に直接肩があり、肩から腕が二本伸びていた。腕の先に指はなく、代わりに平たい板のような構造があった。


 それは動かなかった。


 晴人は立ち止まった。枝を構えた。いつもの姿勢。両足を肩幅に開き、膝を僅かに曲げ、腰を落とす。


 白い人型がゆっくりと左腕を上げた。板のような手が横に薙がれた。


 晴人はそれを見た。


 板の動きは遅かった。だが板の軌道の延長線上の壁が綺麗に切れた。十メートル先の壁まで水平に切断線が走った。


「……切れるのか」


 晴人は少し頷いた。板の動きは遅いが、切断力がある。フォームの参考になるかもしれない。左腕の振り方。肩からではなく、胴体の回転で振っていた。


 白い人型が右腕を上げた。


 晴人は枝を振った。一振り。いつもの素振りと同じフォーム。


 白い人型の右腕が根元から切れ落ちた。結晶の断面が青白く光った。切り落とされた腕が地面に落ちて砕けた。


 白い人型は残った左腕を振った。切断線が走った。


 晴人は半歩横にずれた。切断線が彼の右側の壁に到達した。壁に細い切れ目が入った。


「品がいいな」


 彼はもう一振り。


 白い人型の胴体が上下に分かれた。上半身が滑り落ち、地面で砕けた。結晶の破片が青白い光を発しながら散らばった。


 晴人はしばらく散らばった結晶を見た。


「きれいだな」


 彼は結晶の一つを拾い上げた。透明で冷たかった。ポケットに入れた。リナさんに見せたら喜ぶかもしれないと思った。素振り仲間へのお土産として悪くない。


 彼は通路の奥に向かって歩き続けた。



   *



 同じ頃。


 冒険者ギルド日本本部の東條英隆の執務室に、報告が上がっていた。


「本部長。風見様が六階層に進入されました」


 東條は報告書を受け取り、眼鏡を掛け直した。六階層。予想通りだった。彼が五階層の降り口を確認した時点で、翌日か翌々日には降りるだろうと見ていた。


「六階層の防衛体は」


「結晶兵です。斬撃系の攻撃能力を持つ人型の構造体です。A級冒険者でも単独撃破は困難とされています」


「風見様の様子は」


「既に一体を撃破されました。配信映像で確認済みです」


 東條は深く頷いた。


「予定通りだな。引き続き監視を」


「了解いたしました」


 職員が退室した後、東條は椅子の背もたれに体を預けた。窓の外を見た。


 六階層。結晶兵。A級冒険者でも単独撃破が困難な防衛体を、あの男は「品がいいな」と言いながら一振りで両断した。


 東條は小さく笑った。それから表情を引き締めた。


 六階層の奥には、まだ誰も到達したことのない領域がある。記録上、六階層の中央に到達したのは過去三十年で一度だけ。それもA級冒険者五人の合同遠征で、全員が重傷を負って撤退している。


 風見晴人がそこに到達するのは、おそらく時間の問題だった。



   *



 夜。


 風見晴人は自宅のテーブルの前に座っていた。素振りノートを開き、今日の欄に書き足した。


『朝の素振り。リナさん二日目。ストレッチを入れてから百本。肩の緊張が昨日より少し緩和されていた。七本目と七十本目で丹田の感覚が出始めた様子。三ヶ月くらいで掴めると思うが、もっと早いかもしれない』


『六階層に進入。通路は青白い光。冷たい空気。壁に結晶が付着。白い人型の大きな造り物がいた。板のような手で切断する動作が特徴的。胴体の回転で振る動作は参考になる。腕からではなく体の中心から振る。リナさんに伝えるべき内容かもしれない。結晶をお土産に一つ持ち帰った』


 二行書いた。


 ポケットから結晶を取り出してテーブルに置いた。青白い光は既に消えていたが、透明で綺麗だった。


 窓の外が暗くなっていた。


 テーブルの上のスマホが震えた。通知が三十件ほど溜まっていた。


「……最近、迷惑メール、本当に多いな」


 彼は通知を全て消した。


 それから風呂に入り、布団に入った。明日の朝も四時半に公園に行く。リナさんが来る。ストレッチをしてから百本。今日見つけた六階層の白い造り物の動き、胴体の回転で腕を振る動作をリナさんに伝えてみよう。体の中心から振るという感覚を理解する助けになるかもしれない。


 彼はそこまで考えて、目を閉じた。




第十七話 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。