第16話 「素振り仲間」
午前四時十五分。
公園の東側の歩道に、一人の女性が立っていた。
黒いパーカー。フードは下ろしている。腰に細身の剣を差している。足元は黒いスニーカー。髪は明るい茶色で、肩の少し下まで伸びていた。
リナは腕時計を見た。四時十六分。
昨日まで九日間、彼女は道路の向かい側のファミレスの二階から彼を観察していた。マスクとフードで顔を隠し、望遠レンズで彼の素振りを記録していた。だが今日は違う。今日から彼女は観察者ではなく、参加者になる。
昨日、五階層の金色の光の空間で彼と並んで素振りをした。二百本。彼女の剣術の全てを動員しても、彼の腰の位置の微妙な動きを再現できなかった。あの時、彼は静かに言った。
――明日の朝、公園で。四時半から。
彼女は十五分早く来ていた。
公園のベンチに座って待つことも考えた。だが彼女は立ったまま歩道にいた。座ってしまうと、その十五分の間に自分の中の緊張が解けてしまう気がした。
四時二十五分。
東の空が少しだけ明るくなり始めていた。蝉の声はまだない。鳥の声が遠くで二つ三つ聞こえた。
四時二十八分。
公園の南側の道から、地味なジャージの男性が歩いてきた。猫背。右手に樫の枝。左手にリュック。背中のリュックの上にドローンが載っている。
風見晴人は公園の入り口で立ち止まり、空を見上げた。それから深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
リナは歩道から彼に向かって歩いた。
*
「おはようございます」
「おはようございます。リナさん、早いですね」
「四時半と聞いていたので」
晴人は少し頷いた。彼はリュックを桜の木の根元に置き、ドローンを飛ばした。スマホの青いところを押した。
リナはそのドローンを見た。昨日、五階層でも同じドローンが彼の周囲を飛んでいた。彼は「録画用です」と説明していた。彼女はそれが録画ではなくライブ配信であることを知っていた。だがそれを口にする理由はなかった。
「リナさん、剣はお持ちですか」
「はい」
リナは腰の細身の剣に手を掛けた。
「今日は剣ではなく、木の枝がいいかもしれません」
リナは少し驚いた。
「木の枝、ですか」
「素振りに使うなら、重さが均一なもののほうが体の芯を掴みやすいです。剣は重心が先にありますから、手首が先に動いてしまう」
晴人は公園の隅に歩いていき、桜の木の下に落ちていた枝を二本拾った。太さを確かめ、長さを目で測り、片方をリナに差し出した。
「これ、握ってみてください」
リナは受け取った。樫ではなく桜の枝だった。軽い。彼女の細身の剣よりずっと軽い。
「軽いですね」
「軽いほうがいいです。重いと腕で振ってしまう。軽いと体の芯で振らないと振れない」
リナはその言葉を頭の中で反芻した。重いと腕で振ってしまう。軽いと体の芯で振らないと振れない。その理屈は彼女にとって新しかった。彼女の剣術の訓練では常に実戦用の剣を使ってきた。重さに慣れることが目的だった。だが彼は逆のことを言っていた。
*
「では、始めましょうか」
晴人は樫の枝を構えた。いつもの姿勢。両足を肩幅に開き、膝を僅かに曲げ、腰を落とす。枝を頭の上に掲げ、静かに振り下ろす。
一。
リナは隣に立ち、同じ姿勢を取ろうとした。両足を開き、膝を曲げ、腰を落とす。枝を頭の上に掲げる。
「リナさん」
「はい」
「肩に力が入っています」
リナは自分の肩を意識した。確かに力が入っていた。彼女は意識的に肩の力を抜こうとした。だが抜くと腕が下がる。腕が下がると枝が頭の高さまで上がらない。
「肩の力を抜いて、丹田を意識するんです」
「丹田」
「おへその下あたりです。そこに体の重さを集めるようにして。肩は添えるだけ」
リナは息を吸い、おへその下に意識を集めようとした。だが彼女の体は三年間の剣術の訓練で完全に最適化されていた。肩で振る。腕で制御する。手首で微調整する。その動きが彼女の体に染み込んでいた。
丹田に意識を集めようとすると、肩が勝手に緊張した。肩の力を抜こうとすると、丹田の意識が散った。
「……難しいですね」
「最初はそうです。私も最初の一年は肩で振っていました」
リナは彼の横顔を見た。一年。彼はこの素振りを何年続けているのだろう。
「風見さんは、この素振りを何年」
「十五年くらいです」
リナは黙った。十二。彼女の人生の大半に匹敵する時間を、この男は公園で木の枝を振ることに費やしていた。
*
「では、一本ずつ行きましょう」
晴人が枝を振り上げた。リナもそれに合わせて枝を振り上げた。
「振り下ろす時、腰から動かすイメージで」
振り下ろす。
リナの枝は空を切った。だがその動きは彼女自身の目から見ても、隣の晴人の動きとは全く違うものだった。晴人の一振りは体全体が一つの線になっていた。リナの一振りは腕と腰がばらばらに動いていた。
「もう一本」
二本目。三本目。四本目。
晴人は黙って振り続けた。リナも黙って振り続けた。
十本を超えたあたりで、リナは自分の呼吸が乱れ始めていることに気付いた。木の枝は軽い。動作も単純な振り上げと振り下ろしだけ。なのに息が上がっている。
彼女はA級冒険者だった。ダンジョンの五階層に単独で進入する体力を持っていた。三時間の戦闘でも呼吸を乱さない持久力があった。それなのに、たかが十本の素振りで呼吸が乱れていた。
理由は分かっていた。彼女は今、自分の体の中にある三年間の剣術の回路を全て無視して、新しい回路を通そうとしていた。肩ではなく丹田。腕ではなく腰。手首ではなく体の芯。その切り替えに、彼女の体が抵抗していた。
「二十本」
晴人が静かに数えた。
リナは枝を握り直した。掌に薄く汗が滲んでいた。
*
三十本目を過ぎた頃、リナの右肩が攣りそうになった。
彼女は枝を下ろし、右肩を左手で押さえた。
「大丈夫ですか」
「すみません。少しだけ」
「休みましょう」
晴人は枝を地面に立てて、空を見上げた。東の空がだいぶ明るくなっていた。
リナは右肩を回した。攣りではなかった。筋肉の使い方が変わったことで、普段使わない筋肉に急激な負荷がかかっていた。
「風見さん」
「はい」
「この素振りは、私がこれまでやってきた剣術とは全く違います」
晴人は少し考えてから答えた。
「違うというより、順番が違うのかもしれません」
「順番」
「リナさんの剣術は、先に剣の動かし方を覚えて、それに体を合わせていますよね。私のは逆です。先に体の芯を通して、芯に剣を合わせている」
リナはしばらくその言葉を噛み締めた。先に体の芯を通して、芯に剣を合わせている。その一言で、彼女が九日間かけて分析した「TVの剣術と朝の稽古の剣術の断絶」の正体が、更に鮮明になった。
彼女の剣術は「剣の動かし方」から始まっていた。正しいフォーム。正しい角度。正しい速度。それらを体に覚え込ませ、反復し、完成させた。だがその完成は剣の側の完成であって、体の芯の完成ではなかった。
「……なるほど」
リナは小さく呟いた。
「続けましょうか」
リナは頷いた。枝を握り直した。
*
五十本目を超えた頃、リナの動きに僅かな変化が生まれた。
変化は微細だった。肩の力が完全に抜けたわけではなかった。丹田の意識が確立したわけでもなかった。だが五十本の反復の中で、彼女の体が少しずつ「肩で振らない」ことを受け入れ始めていた。
晴人はそれに気付いた。
「今の一本、悪くなかったです」
リナは振り下ろした枝をそのまま止めた。今の一本。何が悪くなかったのか、彼女自身には分からなかった。だが彼が「悪くない」と言った。それは彼の最高の賛辞であることを、彼女は九日間の観察で知っていた。
「ありがとうございます」
彼女は小さく頭を下げた。
六十本。七十本。八十本。
リナの呼吸は依然として乱れていた。だが乱れ方が変わっていた。最初の十本は体の抵抗による乱れだった。今は体が新しい動きを探すための乱れに変わっていた。
九十本目。リナの膝が少し震えた。
「あと十本です」
晴人の声は静かだった。追い込む声ではなかった。事実を伝える声だった。
九十一本。九十二本。
リナは歯を食いしばった。A級冒険者として、百本の素振りで膝が震えている自分が信じられなかった。だが同時に、この震えの中に、彼女がこの三ヶ月間探し続けていた「何か」の端があることを感じていた。
九十八本。九十九本。百本。
リナは最後の一振りを終えて、枝を下ろした。両膝に手を付き、深く息を吸った。吐いた。もう一度吸った。
「百本です」
晴人は静かに言った。
「お疲れさまでした」
リナは顔を上げた。汗が額から顎に伝っていた。
「……ありがとうございました」
声が少し震えていた。
*
晴人はリナが休んでいる間に、残りの九百本を振った。
リナはベンチに座って水を飲みながら、彼の素振りを見ていた。昨日までファミレスの二階から望遠レンズで見ていたものが、今は十メートルの距離にあった。
音が違った。
望遠レンズでは拾えなかった音があった。枝が空気を切る音。彼の足の裏が地面を踏む音。彼の呼吸のリズム。その三つが一定の周期で繰り返されていた。
五百本を超えたあたりで、彼の腰の位置が微妙に動き始めた。リナはそれを目で追った。昨日もファミレスから同じ動きを見ていた。だが十メートルの距離で見ると、腰だけでなく膝と足首も連動して動いていることが分かった。
彼の体全体が一つの系として動いていた。腰が動くと膝が応じ、膝が動くと足首が応じ、足首が動くと体の芯の通り方が変わり、芯が変わると枝の軌道が変わった。全てが繋がっていた。
リナは自分の右手を見た。さっきまで枝を握っていた手。掌にはまだ桜の枝の感触が残っていた。
百本。たった百本で膝が震えた。彼はこれをあと九百本振る。それを毎朝十二間続けている。
彼女は静かに彼の背中を見つめた。
*
千本目を振り終えた後、晴人は深く息を吐いた。枝を軽く振って砂を落とし、空を見上げた。
「……悪くないな」
いつもの独り言だった。
彼はドローンを回収し、スマホの青いところを押した。それからリュックを背負い、リナのところに歩いてきた。
「リナさん、明日も来ますか」
「はい。四時半に来ます」
「明日は五十本にしましょう。今日は初めてなのに百本は少し多かったかもしれません」
リナは首を横に振った。
「百本で大丈夫です。明日も百本お願いします」
晴人は少し考えてから頷いた。
「分かりました。では明日も百本で」
「ありがとうございます。それと、風見さん」
「はい」
「今日の、肩の力を抜いて丹田を意識するという話。家に帰ってから少し練習してみてもいいですか」
「もちろんです。ただ、無理はしないでください。肩が攣りそうになったら止めてください」
「分かりました」
リナは深く頭を下げた。
晴人は少し驚いた顔をした。
「そんなに深く下げなくても」
「いえ、今日は本当に勉強になりました」
晴人は少し困ったように頷いた。
「素振り仲間ですから。明日もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
リナはもう一度頭を下げた。
晴人は公園を出て、いつもの道を歩いて駅に向かった。今日はダンジョンに行く日だった。始発の電車で山道に向かう。
リナは公園のベンチに座ったまま、彼の背中が見えなくなるまで見送った。それから自分の右手をもう一度見た。
掌の中に、まだ枝の感触が残っていた。
*
視聴者たちは、朝四時半からの光景を全て見ていた。
『誰だ』
『女の子が公園に来た』
『待って。あれ。あの髪。あの剣。まさか』
『リナ?』
『リナだ』
『え、リナ? A級冒険者のリナ?』
『リナが朝の公園に来た』
『リナが朝の公園に来てる』
『どういうこと?』
『待って整理させて。リナが、朝四時半に、公園に来て、素振りおじさんに、素振りを教わっている?』
『そうなってる』
『嘘だろ』
『嘘じゃない。今そうなってる』
『木の枝渡してる』
『「肩の力を抜いて、丹田を意識するんです」』
『素振りおじさんが、A級冒険者のリナに、木の枝で素振りを教えている』
『世界がバグった』
コメント欄が凄まじい速度で流れていた。
『リナが、百本で、膝震えてる』
『A級冒険者が百本の素振りで膝震えるって何?』
『普通の素振りじゃないんだよ。体の芯で振る素振りだよ。全然違う回路を使うんだよ』
『田村のじいさんが泣く』
『桑原さん記事書いて』
『佐々木さん論文に追記して「A級冒険者の膝が震える素振りについて」』
『師弟関係だ。これは完全に師弟関係だ』
『本人は「素振り仲間」って言ってるけど』
『「素振り仲間ですから」じゃない』
『おじさん、あなたが教えてるのはA級冒険者ですよ』
『おじさん知らないから』
『知らない。絶対に知らない』
『名台詞更新。「肩の力を抜いて、丹田を意識するんです」』
『素振り宗、聖典、追加ページ大量発生』
『師匠!』
『師匠!』
『師匠!』
視聴者数。朝四時半の時点で八万人。リナが公園に現れた瞬間に十二万人を突破。百本目を振り終えた時点で二十三万人。
その全員が、公園の桜の木の下で木の枝を振る中年男性と、その隣で膝を震わせる十九歳のA級冒険者の姿を見ていた。
*
同じ頃。
暁の剣の事務所の資料室で、レオンはモニターの前に座っていた。
彼は朝四時から起きていた。晴人の朝の配信を見るためだった。この一週間、彼は毎朝それを続けていた。
今朝、画面に見知らぬ女性が現れた瞬間、彼は椅子の背もたれに深く体を沈めた。
リナ。彼はその顔を知っていた。テレビで何度か見た。雑誌でも見た。国内最年少のA級冒険者。SNSフォロワー五百万人。
そのリナが、朝四時半に公園で木の枝を渡されて、百本の素振りで膝を震わせていた。
レオンはしばらくモニターを見つめた。
一週間後の日曜日。朝九時。公園。彼はそこで晴人と会う。素振りを見せてもらう約束をしていた。
画面の中で晴人が千本目を振り抜いた。いつもの独り言。「悪くないな」。
レオンは深く息を吐いた。
自分があの男を追放した理由。「絵面が地味だから」。その言葉が彼の中で、日ごとに重くなっていた。
彼は一週間後の日曜日を待った。
*
夕方。
リナは自宅のマンションの部屋で、桜の枝を握っていた。
公園から持ち帰った枝だった。晴人は「もちろんです」と言った。家で練習してもいいかと聞いた時に。
彼女は部屋の中央に立ち、枝を頭の上に掲げた。肩の力を抜く。丹田を意識する。
振り下ろした。
腕で振っていた。
もう一度。肩の力を抜く。丹田を意識する。振り下ろす。
腕で振っていた。
もう一度。
三十分後、彼女は床に座り込んだ。汗が背中を伝っていた。
百本。家で振った百本は、朝の公園の百本とは全く違うものだった。朝の公園では彼が隣にいた。彼の呼吸のリズムが聞こえた。彼の足の裏が地面を踏む音が聞こえた。その音に自分の体を合わせようとする無意識の作用があった。
一人で振ると、その指標がなかった。自分の体だけで丹田を探さなければならなかった。
リナは枝を膝の上に置いた。
明日。朝四時半。公園。
彼女はその時間を待った。
*
同じ頃。
風見晴人は翠嵐ダンジョンの五階層にいた。
金色の光が通路を満たしていた。昨日、リナと一緒に歩いた通路だった。
彼は通路の先に進んだ。奥の大空間の、更に奥に、下り階段があった。
六階層への降り口。
彼はしばらくその階段を見下ろした。下から冷たい風が吹き上がってきた。金色の光はそこで途切れ、階段の先は青白い光に変わっていた。
「……明日にしよう」
彼は階段の前で立ち止まり、きびすを返した。今日は確認だけでいい。明日、改めて降りる。
帰りの通路で、彼はふと今朝のことを思い出した。リナさんという女性が朝の素振りに参加してくれた。百本。少し多かったかもしれない。彼女の肩は途中で攣りかけていた。
明日は最初に肩のストレッチを入れたほうがいい。昨日買った本にいくつか良い方法が載っていた。
彼は通路を歩きながら、明日の朝の段取りを考えていた。素振りの前にストレッチ。それから百本。リナさんの肩の力の抜き方を見ながら、丹田の意識の持ち方を少しずつ伝えていく。
素振り仲間がいるというのは、悪くなかった。十二間一人で振り続けてきた。誰かと一緒に振るのは初めてだった。
「……悪くないな」
小さく呟いた。
彼はまだ何も知らない。
今朝の公園の光景を、二十三万人が見ていたことを。隣で木の枝を握っていた女性が、A級冒険者であることを。その女性が九日間、ファミレスの二階から彼を観察し続けていたことを。
彼はただ、明日の朝のストレッチの順番を考えながら、五階層の金色の通路を歩いていた。
第十六話 了




