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第15話 「金色の光と、素振り仲間」

 午前四時半。風見晴人は公園に立っていた。


 ダンジョンに初めて入ってから九日目の朝。昨日は休息日だった。素振りはいつも通り千本こなし、街の書店で買った肩甲骨ストレッチの本を試した。夜には藤原から電話があり、来週日曜日のレオンとの面会詳細を確認した。


 昨日一日で随分と色々なことがあった。だが朝、公園に来て樫の枝を握ると、そうした細々した出来事はすべて体の外側に置かれた。彼にとって朝の公園の四時半は、いつもそういう時間だった。


 一、二、三、四。


 振り上げては、振り下ろす。最初の振りから腰の位置を意識的に動かして振った。昨日の練習の続きだ。腰を二センチ深く落として一本、通常の位置で一本、少しだけ上げて一本。それを繰り返した。


   *


 同じ時刻。公園の東側にある喫茶店、その二階の窓際席にリナの姿はなかった。今日、彼女は既に街を離れていた。午前三時、彼女は街を出た。翠嵐ダンジョン方面への始発を待つため、フードを深く被り、マスクを着けてホームで静かに電車を待った。


   *


 日本全国、どこかの部屋で視聴者たちが通知アプリに叩き起こされている。今朝の彼らはいつもと少し様子が違っていた。昨日SNSで、ある噂が広まっていたからだ。


『リナ、翠嵐ダンジョン方面の駅で深夜に目撃』


 SNSのフォロワーたちは、投稿された写真から彼女の正体を割り出していた。


『リナ、朝から翠嵐ダンジョンに行くのか』


『どういうことだ』


『素振りおじさんに会いに行く以外ないだろう』


『マジ?』


『マジ』


『これ、明日の朝の素振り配信、視聴者激増するやつだ』


『みんな、朝四時半待機な』


 視聴者たちの期待はいつもより一段と高く、開始十分で視聴者数は十八万を超えていた。


   *


 千本を振り抜いた。深く息を吐き、木の枝を軽く振って砂を落とす。


「……悪くないな」


 小さくつぶやいた。肩甲骨の動きがいつもより軽い。昨日のストレッチ本は当たりだった。彼はドローンを回収し、スマホの配信ボタンを押した。


   *


 電車を降り、山道に入る。いつものベンチに萩田孝史の姿はない。彼は詰所に到着した。


   *


 今日の担当もあの女性職員だった。彼女は晴人を見て少しだけ頬を緩めたが、今日はいつもより緊張しているように見える。


「お疲れ様です、風見様」


「おはようございます」


「本日は」


「五階層まで行こうかと」


「五階層、ですね」


「はい」


 女性職員は書類にペンを走らせる。だが、彼女はふとペンを止め、少しだけ遠慮がちに口を開いた。


「風見様、本日五階層に、既に別の方が進入されておりまして」


「はい」


「A級冒険者の方です」


「はい」


「名前は……若い女性の方です。五階層の中央大空間にいらっしゃる可能性があります。もしお会いになった場合は、丁寧に接していただければと思います」


「承知しました」


 晴人は頭を下げ、詰所を出た。


   *


 視聴者たちは、その詰所の会話をドローンのマイクを通して聞いていた。


『詰所の人、また名前伏せてる』


『「若い女性の方」って』


『まさかリナじゃないよね』


『リナでしょ』


『リナが待ってる五階層』


『若い女性の方って詰所で伏せられるリナ可哀想』


『可哀想じゃない、扱いが完璧』


『素振り宗守護集団、詰所所属女性職員』


 視聴者数はその時、二十万三千。


   *


 五階層は、金色の光が満ちる空間だった。壁も床も金色の金属に覆われ、光が降り注いでいる。やがて通路が大きく開け、五階層の中央大空間に出た。空間の左側に、一人の若い女性が立っていた。


 黒いシャツに黒いズボン、腰には細身の剣。明るい茶色の髪をした十九歳ほどの女性だった。彼女は晴人を見て、少しだけ頭を下げた。


「おはようございます」


「おはようございます」


「五階層で他の方にお会いするのは久しぶりです」


「私も、五階層は初めてです」


「そうですか」


   *


「私、リナと申します」


「風見晴人と申します」


「風見さん。少しだけ時間ありますか」


「大丈夫です」


「私、少しこの五階層で剣術の練習をしようかと思っていまして。良ければ、少し一緒に練習を」


 彼女はそこで言葉を選んだ。いきなり「弟子にしてください」と口にするのを避けたのだ。それは昨日、彼女が事前に決めていた方針だった。


「練習の内容は素振りなのですが、風見さんも朝に素振りをなさっているとSNSで拝見しまして。良ければ少しだけ素振りを一緒に」


 晴人は驚いた。五階層で他人と素振りをする状況は、想像の範囲を超えていた。だが彼は考えた。そういう若い人が練習を望んでいるなら、付き合っても良いだろうと。


   *


「少しだけなら」


「ありがとうございます」


 リナは内心驚いていた。九日間彼を観察していたが、実際に話す彼の口調は想像より柔らかく丁寧だったからだ。二人は大空間の中央付近に並んだ。


「いつも何本振られますか?」


「千本です」


「今、追加で何本かよろしいですか?」


「少しだけなら二百本くらい」


 静かに木の枝と剣の鞘が持ち上がる。二人は並んで振り始めた。


 最初の三十本、リナは彼のフォームを目の端で追った。自分のフォームと寸分違わないことを確認する。だが三十一本目から、彼の腰の位置が意識的に動き始めた。彼女はそれを目で追ったが、模倣できなかった。体の芯が通っていない自分には、その微妙な変化を再現できない。


 ……ああ、これが断絶だと彼女は心の中でつぶやいた。彼女は五階層の光の中で初めて、自分の剣術と彼の剣術の間の決定的な断絶を体感していた。


   *


 彼女は振るのを止めた。晴人もそれに気づき、彼女の方を見た。


「少し休みますか」


「あ、いえ。……風見さんのフォームの腰の動かし方、意識されて動かしていらっしゃいますか」


「昨日から朝の素振りに取り入れました。腰の動かし方、私には模倣できません。なぜそう動かすのですか」


 晴人は丁寧に答えた。


「腰の位置は体の芯の通り方に合わせて動かします。芯がまっすぐ通っていると、腕の伸びも綺麗になります。その微妙な変わり方に合わせて腰を細かく動かすと、体の芯がその日その日で綺麗に通るんです」


「……感覚を私が掴むにはどうすれば?」


 晴人は老人の教えを思い出しながら答えた。


「まず、朝の素振りを日課にしてみてください。千本が多ければ百本から。雨の日も雪の日も毎日同じ場所で。それを一年続けたら体の芯の通り方が体に覚え込まれます」


 リナは深く頷いた。彼女の剣術は完成されており、TVで映えるものだったが、それは「朝の公園の稽古」ではなかったのだ。


   *


「風見さん、素振りの練習をもう少し続けたいんです。良ければ、また五階層でご一緒に。朝の公園の素振りにも参加してもいいですか。日課にするのを始めたいんです」


 晴人は考えた。他人が参加するのは初めてだったが、断る理由もなかった。


「大丈夫です」


「ありがとうございます」


   *


「明日、朝四時半から公園で。最初は百本から、無理はしないでください。素振り仲間として、よろしくお願いします」


 ……素振り仲間、と彼女は心の中で繰り返した。彼は自分を素振り仲間と認識した。弟子入りより、仲間として日課の内側に混ざる方が、彼の本当の剣術に近い場所にいられる。


「よろしくお願いします」


   *


 視聴者たちは、五階層での会話をリアルタイムで聞いていた。


『は?』


『「素振り、仲間」』


『「素振り、仲間」』


『あの、リナが』


『あの、天才、剣士、リナが』


『素振り、仲間、扱い』


『可哀想』


『いや、可哀想じゃ、ない、リナ、深く、頭、下げた』


『リナが深く頭、下げた』


『天才、剣士、リナが深く頭、下げた』


『素振り、仲間って、称号、既にリナが、噛み締めてる』


『名台詞、更新』


『「素振り、仲間、として、あの、よろしくお願いします」』


『毎日、名台詞』


『師匠!』


『師匠!』


『師匠!』

 

晴人は、大空間の脇の通路の入り口の方に歩いて、少しだけ覗き込んだ。奥に六階層への降り口が微かに見えた。


 ……次は、ここからと彼は静かに決めた。


 だが、今日は五階層までと、詰所で伝えた。律儀な性格の彼は、その言葉を守った。


 二人は来た道を戻り始めた。



   *



 途中、四階層の大きな部屋を通り抜けた。古代兵器の股下を通る時、晴人は頭を下げた。リナも彼の真似をして頭を下げた。通り抜けた後、二人は揃って振り返り、頭を下げた。


「……お邪魔しました」


 二人揃って静かにそうつぶやいた。


 大きな影は、両手を上下に動かす体操を静かに続けていた。



   *



 視聴者たちの、画面には、その、光景が、映っていた。


『は?』


『「お邪魔しました」』


『二人、揃って、頭下げた』


『「素振り仲間」』


『毎日、新ジャンル』


『毎日、名台詞』


『毎日、殿堂入り』


『師匠!』


『師匠!』


 視聴者数、その時、二十六万を超えていた。



   *

お帰りなさい、風見様、リナ様」


「五階層は、いかがでしたか」


「金色の光の空間でした」


「はい」


「中央の大空間で、リナさんと素振りを少ししました」


「はい」


「リナさんは、明日から朝の公園の素振り仲間として、参加されます」


「それはよかったですね」


 女性職員は、書類にペンを走らせた。手は震えていなかった。だが、書類の記入項目の内容が、彼女の想像の範囲をまた遥かに超えていた。


 彼女は静かに頷いた。


「かしこまりました。ありがとうございました」


「ありがとうございました」


 晴人は頭を下げた。リナも、頭を下げた。二人は詰所を出た。


   *


 詰所を後にして山道を下る道中、二人は並んで歩いた。


「電車ですか」


「はい」


「私も始発の隣の駅なので、途中まで一緒ですね」


 電車の中は、明らかに若い人が多かった。今日は十人以上、明らかに二人を見ていた。晴人はまた自分の服装を確認したが、特におかしなところはなかった。若い人はいつも、こういう視線を投げてくるものだと彼は慣れつつあった。


 電車を降りる時、リナは深く頭を下げた。


「明日、朝四時半、公園で。よろしくお願いします」


「はい」


 晴人はしばらく彼女の背中を見送った。


   *


「……悪くないな」


 素振り仲間ができるのは、初めての経験だった。街に戻り、素振りノートを開く。


『五階層、金色の光の空間。リナさんという若い女性と練習を共にした。丁寧な方だった』


『リナさんは明日から素振り仲間として参加されることになった』


 窓の外では蝉が鳴いている。彼はまだ何も気づいていない。彼女が国内最年少の天才冒険者であり、弟子入り志願のために九日間も自分を追い続け、シナリオを組み立てていたことに。





第十五話 了


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