第14話 「休日の街と、追う者」
午前四時半。風見晴人は公園に立っていた。
ダンジョンに入って九日目。だが今日は休息日だ。ダンジョンには行かない。素振りをいつも通り千本済ませたら、あとは家事と街での用事で一日を終える。前回の休日は田村という老人と対話した。あの、こつりと鳴った杖の音が、まだ彼の中に残っている。
今朝はいつもより少しだけ丁寧に、樫の枝を握り直した。柄のタオル生地が指の腹に静かに馴染む。
一、二、三、四。
振り上げては、振り下ろす。昨日、朝の素振りの五百一本目から意識的に動かしてみた腰の動きを、今朝は最初の一本目から意識した。腰の位置を通常より二センチ深くし、膝の柔らかさを増す。次の一振りで通常の位置に戻し、次は少し上げる。一振りごとに体の芯の通り方が細かく変わる。その変化を、彼はじっと目で追った。
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同じ時刻。公園の東側にある二十四時間営業の喫茶店、その二階の窓際席に一人の女性が座っていた。
黒いフード付きのパーカーを被り、顔の下半分を大きなマスクで隠している。テーブルの上にはノートパソコンが一台。窓の外に向けて小さな望遠レンズを取り付けたカメラと、飲みかけのミルクティーがある。彼女の名前はリナ。十九歳。国内最年少でA級冒険者に認定された天才魔法剣士であり、テレビや雑誌、SNSで絶大な人気を誇る存在だ。
だが、この三ヶ月間、彼女は公の場に姿を現していなかった。スランプだったからだ。
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リナはコーヒーカップに手を伸ばした。だが口に運ぶ前に指を止める。窓の向こう、公園の桜の木の下で、地味なジャージ姿の中年男性が木の枝を振っていた。
彼女は彼の動きをじっと目で追う。この七日間、彼女は彼の朝の素振りを配信で毎日視聴していた。きっかけは、SNSで話題になった彼が木の枝でモンスターを両断する切り抜き動画だった。暇潰しにそれを見てから配信の通知を登録し、以来七日間、欠かさずこの喫茶店に通っている。
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彼女は、彼の素振りをじっくりと勉強していた。
三年もの間、彼女は勉強というものから遠ざかっていた。剣術も魔法の詠唱も完成されており、誰からも天才と持て囃されていたからだ。だが三ヶ月前、遠征の途中で自分の剣術がある種の壁に突き当たったことを感じた。動作は以前と変わらない。しかし、剣術の内側に静かな断絶を感じるようになったのだ。
その断絶の正体を掴めずにいた彼女は、公の場に出ることを控えるようになった。だが、七日前の切り抜き動画を見て、久しぶりに剣術の内側に感覚の揺れを覚えた。彼の素振りは、ダンジョンの戦闘と完全に繋がっている。彼女は自分の剣術が「TV映えするだけのもの」であって、日々の稽古に裏打ちされていないことに気づき始めていた。
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だからこそ、彼女はこの七日間、彼の素振りを勉強していた。配信だけでは掴みきれない細部を、実物を通して知りたかったのだ。マスクとフードで顔を隠し、望遠レンズで記録を撮り、配信映像と比較する。店員にも気づかれることなく、彼女は毎日この席に通い続けた。
窓の向こうで素振りが続く。五百本を超えたあたりから彼の腰の位置が微妙に動き始めた。昨日のダンジョンで掴んだ感覚を素振りに持ち帰った動作だと彼女は知っている。
……真似しようと思ってできる動きではない。
彼の腰の動きは、体の芯の通り方に細かく応じた変化だった。自分の体の芯を把握していない彼女には再現できない。彼女はようやく剣術の次の段階の入り口に立ったばかりだった。
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千本目を振り抜いた彼は、ドローンを回収して公園を後にした。彼は休息日だと彼女は知っている。彼女は冷めたコーヒーを飲み干し、窓の外を見つめた。
夕方、家事を終えた晴人は街へ出た。中心街の大きな書店へ立ち寄るためだ。最近、腰の位置を意識するようになってから、肩の動きが硬く感じることが増えたため、肩甲骨ストレッチの本を探しに来たのだ。
二冊の候補から千五百八十円の本を選び、レジを済ませて店を出ると、若い男が彼を待っていた。
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「風見晴人さん、ですよね」
二十代前半の細身な男は、首からカメラを下げていた。
「大学院で生態学を研究している者です。翠嵐ダンジョンの環境変化について少し質問を……」
時間はあった。晴人は立ち止まり、話を聞くことにした。
「毎日、朝の素振り配信を見ています。翠嵐ダンジョンの内部環境がこの七日間で劇的に変化していることに気づきました。風見さんが通った後の通路が綺麗に整備されるというパターン……これが修士論文のテーマなんです」
「通路が綺麗になっているのは気づいていました。ダンジョンの修復機能かと思っていましたが……私の活動が寄与しているのですか?」
「はい。そして、そのおかげで初級冒険者の事故率がこの一週間で九割も低下しています」
晴人は頷いた。自分の通る道の副作用として他の冒険者の事故が減るなら、悪いことではない。
「それは良かった。これからも通ります」
男は深く頭を下げ、雑踏に消えていった。
視聴者たちは、その街の真ん中の会話をドローンのマイクを通して聞いていた。ドローンは既にリュックの中にしまわれていたが、マイクだけは常時拾っていた。
『あの大学院生』
『あの人、大学の掲示板で名前出てる。たぶん生態学の佐々木さん』
『佐々木さん、朝から街に張り込んでたのか』
『大学院生、必死』
『修士論文、ちゃんと書けるといい』
『「これからも通ります」』
『名台詞更新』
『あの人、ダンジョンに通う理由がまた増えた』
『「他の冒険者の事故率が下がるなら通う」』
『素振り宗聖典、また更新』
『師匠!』
『師匠!』
視聴者数はその時、十六万を超えていた。
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同じ頃、リナは駅前のモニターでニュース映像を見ていた。明日の準備は整っている。
七日間の記録から彼の行動はパターン化されている。休日の翌日は必ずダンジョンへ行き、詰所で伝えた行き先に現れる。明日はおそらく五階層へ進むはずだ。五階層はA級冒険者でなければ進入が認められていない階層であり、偶然を装って出会うには絶好の場所だ。
彼女の意図はシンプルだった。彼の剣術を学びたい。だが、いきなり弟子入りを志願すれば彼は困惑するだろう。だからまずは偶然を装い、素振りの話を通して少しずつ近づくことにした。
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帰宅した晴人は、書店で買った本を読み、ノートに記録を書き足す。
『休みの日。朝の素振りで腰の位置を意識する練習をした。悪くない』
『肩甲骨のストレッチ本を買った。肩の動きが軽くなった。明日の朝、実践する』
『大学院生にダンジョンの環境変化について質問された。通ったあとの通路が整備される現象は、他の冒険者の事故率を下げているらしい。良かった』
窓の外では蝉が鳴いている。やがてテーブルのスマホが震えた。マネージャーの藤原からの電話だ。来週日曜日の面会日程の確認と共に、レオンが「追加で少しだけ素振りを見せてほしい」と願っているという。
晴人は少し考えたが「大丈夫です」と答えた。
通話を終え、彼は窓の外を見る。明日は五階層。どんな場所か分からないが、いつも通り行って判断すればいい。
「……悪くないな」
彼はまだ気づいていない。明日、五階層で偶然出会うはずの若い女性が、九日間かけて自分を追い続け、弟子入りするためのシナリオを綿密に組み立てていることに。彼女の名がリナであることも、彼女が四時半から毎日自分を見つめていたことも、彼はまだ何も知らない。
第十四話 了




